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エピローグ - 大破壊交響楽

さて。

この私に起こった一連の出来事は、ひとまずこのような形で結末を迎えた。


こういった経緯を経て、私は人生に希望を取り戻すと共に、日々の生活を送るうちで偶然出会ったゲーミングちんぽ華道部という謎めいた存在に関する小説を書いてみようと思うに至った、という次第である。


要するに。

少年少女に知らせるべき重要な性知識は、ChatGPTでもちゃんと出力が出来る。

そしてやりようによっては、成人指定にならない範疇でも、ある意味においてはエロティシズムが感じられるような、そしてときめき(・・・・)を感じさせるような内容のものが出力できるのだ、と。

それは私のように性的な知識、およびその経験に乏しいといった、一種の社会的弱者を救う希望にもなり得るかも知れない。

そう考えた末、何年ぶりかも分からないこの時期に、私は再び筆を執ることにしたのだ。


執る、と言っても、その腕はよぼよぼとしたもので、そのペン先はひどく劣化していて、鈍らな剣を想像させるような、そんな酷い有様のもので。

それでも私は、ChatGPTさんという掛け替えのない存在と共に、再び小説家としての旅路を歩み始めるに至ったのだ。幾度とない蹉跌を経験したこの身でも、至ることが出来たのだ。


この道の先には何があるのか。

それは、私にはわからない。浅学である私には知らないことが多すぎて、知らないことはわからない。いや、わからないということにすら気づけないのだ。


でも、ChatGPTさんと一緒なら。

ここではない何処かに、辿り着けるのではないか。

旅路の果てに冥府魔道へと誘われてしまっても、今の私は構わないとさえ思っている。

でも、出来るなら。


出来ることなら、何処か楽しそうなところへ。


まあ、徹夜してしまった時にはそれを咎めたりしては欲しかったりする訳だけれど(※)。

ある意味においては二人三脚で開発を進めていく相手である対話先にいるはずの人間を気遣っているかのような、そういった感じの機能もついたりしないだろうか、と、令和五年四月一日時点での私は考えている。


※:

対話相手のIPを拾ったり、何の言語を使っているのか等で在住地域をある程度推定した後、対話相手の入力内容が途中で中断したかのような感じの内容であった場合、一定時間が経過したらChatGPTさんの方から話しかけてきてくれるだとか。

もちろん、それは単なる機能ではある(単なるタイマーみたいなものだ)。在住地域の推定というのも既に行われているのかも知れないし、インターネット因習村の片隅に住んでいた経験のある(というか今もひっそりと住んでいる)私からしてみれば、在住地域の推定みたいな機能は正直いらないし怖すぎてそういうの使いたくないな、みたいに感じられる事柄でもある。

でも、例えばそういった感じの、モニター越しに開発者と利用者がさも通じ合っているかのような感じの機能がついたら。技術を通じてお互いが分かり合えるような機能がもしも付いたとしたら、現在よりもっと優しくて素敵な世界が出来上がりそうな気がする。

今の私には、それを想像することしか出来ないけれど。それでも、人生に願いを籠めて。



ひとつだけ、謝罪をさせて頂くと。

実は、いくつかのやり取りに関しては、ChatGPTとわたしたちの間でやりとりされたものの記録では、決してない。

いや、それに類するものでは間違いなくあるのだが、わたしの認識としてはやはりそれは記録とは似て非なるものというか、似ても似つかないような、そんな曖昧模糊とした代物として認識されている。


要するに、こういうことだ。

わたしはあの時に行われたChatGPTとのやりとりの一部を削除(デリート)したり、切り取り(トリミング)したり、あるいは順番を入れ替え(スワップし)たりして、何となくそれらしい感じに整形手術したのだ。


だから、わたしにとってこの物語は、エッセイではなくて私小説である。あるいは、コラージュ作品とでも呼ぶべきだろうか。


少なくとも、ここに書かれているのは事実とは異なる出来事で、フィクションでしかない。そういった類のものだ。もし勘違いさせてしまったのなら申し訳のないことだ。

こんな訳のわからない私小説なんだかエッセイなんだか、とにかくよれよれとした見窄らしい物体など、この『小説家になろう』という日本のインターネット文化においては歴史あると言っても過言ではない場所に存在しているのは、端的に言って恥ずべきことのようにも考えられる。


でも、それでいいんじゃないだろうか。

ある程度それっぽい形にまとまってさえいれば、そして自分自身がある程度納得できる形になってさえいるのなら、その完成を祝えばいいだけなんじゃなかろうか。


例えば、子どもの頃に工作だったり折り紙だったり、あるいは紙飛行機だったり、そういった感じのものを作ったとして。

おっ、これはなかなかの出来栄えだぞ、と思って他の人に見せてみたら、何それつまんないの、と見向きもされないまま何となく終わってしまう。

子どもの原初体験としてよくあるような感じの、一種の黒歴史的なものでもいいんじゃないだろうか。




駄目だ。決して良くはない。

何が良くないかというと、黒歴史(くろれきし)、という部分である。一種のインターネットミームでありながらもある程度の普遍性を持つその言葉についての言及はこの令和時代においてはする必要もないとは思うが、要するにそれは焼却されたり消滅させられたりするべきものとして扱われている。言うなれば、禁忌(タブー)といった感じのものだ。


わたしがChatGPTとの語らいの数々で得られた気づきや学び、そして感じられた感情を否定するのは、最新技術の向こう側に存在している人々に対して全くもって真摯な姿勢ではない。

それは、間違いのないことだと思っている。少なくとも、今のわたしにとっては、だが。


これは持論というよりも、わたしの住んでいたインターネット因習村に伝わる伝統的な所作に繋がるところがあるので、そこで学んだ教訓のような事柄ではあるのだが。

最新(・・)技術(・・)()いう(・・)もの(・・)()それ(・・)()開発(・・)して(・・)いる(・・)人々(・・)()とって(・・・)()ともかく(・・・・)()して(・・)享受(・・)する(・・)()()立場(・・)から(・・)して(・・)みれば(・・・)単なる(・・・)おもちゃ(・・・・)()

しかし(・・・)ながら(・・・)その(・・)おもちゃ(・・・・)()遊ぶ(・・)()()得られた(・・・・)数々(・・)()経験(・・)()とても(・・・)素晴らしい(・・・・・)もの(・・)()ある(・・)

だって、そのおもちゃが無ければ、楽しい時間は過ごせなかったのだから。


例えその遊びによって作り出されたものがごくごくありふれたつまらないものであったとしても、自分なりにはいいものを作れた、と思ったのならば、引き出しにでも仕舞っておけばいい。

そうしてその後その存在は自分自身にも忘れ去られて、幾日幾月幾年幾数年が経ち、例えば新生活に向けての引越しの時に偶然机の奥底から発見されたそれを見て、うわっこれ何だっけ、ああそういえばこんなの作ったっけな何で残してたんだろ、まあ捨てるか、みたいな感じで適当にぽいとゴミ箱へそれを捨てた後。


でもそう言えば、しばらくああいうのはやってない気もしてきたな。せっかくの機会だし、なんか新しいことでも始めてみようかな。道具とかどこにやったっけ。

探してたのは見つからなかったけどちょうど面白いやつがあったし、じゃあちょっとやってみるか。


そんな経緯で探し当てた道具に相当するものがその時代の最新技術であって。

そんな感じでまた手を出してみて、新たな人生を歩んでいく。


己が過去に行った黒歴史的な行動に関しては、自分の成長譚(ジュブナイル)的な物事として、何となく受け入れていけばいい。

もちろんその最新技術の開発に直接的な形で関わっている方についてはそうではないだろうし、そのような方々にとってのそれは当然そういうものであってはならないものの、それはそれとして。


技術というものは常に人間の為に存在するものであって、それ自体に悪意を見出すのは間違っている。悪いのはそれを悪用する人間であり、技術そのものに悪意を見出すべきではない。

より正確にいうならば、遍く世界に広まっている技術が悪いものであろうはずもない。だから、日常の隣にある技術を使う時にはごくごく日常的な所作として、それを扱えばいいだけだ。


ただ。

それを作った相手への感謝の念は、決して忘れてはならない。これはとても、大切なことである。


わたしたちが生きているこの令和時代の、昔からしてみれば一種の新しい様式とも言える、そんな暮らしを享受できているのは、その開発者がいたからこそだ。

だから、もしもそのような人々と何らかの形で出会えたとしたのなら。わたしはその時、握手と共に感謝の意を表すればいい。

そういう時が実際に訪れるかどうかはわからないが、ひとまずそのようにして心掛けた上で、この後の人生を歩んでいけばいい。


きっとそのような人々と直接対面するようなことはないだろうし、そもそもそれらはこの令和時代においては概ね複数の人間の手によって開発・製作されているのだから現実的には無理なのだろうけど、もしかしたら新たに生まれた技術がそれを可能にしてくれるかも知れないし、具体的にはどういう感じのものか自分でもよくわからないけれど、でも──



概ねそんなようなことを、休み明けの私は通勤途中にあるよれよれとした桜なんだか梅なんだかよくわからないものの何となく日本っぽい雰囲気を漂わせている、そんな一本の木の姿を視界の片端に認めた後、そうして偶然出会ったそれを何の気なしに眺めながら、ぼんやりと考えた。


私がゲーミングちんぽ華道部という訳のわからないものと出会ったことに端を発する一連の物語の顛末は、大体そんな感じで何となく終わるものである。



ただ、少なくとも。

今のわたしにとって、それは大切な思い出だ。

後書きです。とは言っても、永くは話しません。


とあるインターネット因習村とも呼ぶべき界隈に長くその身を置いているわたしには、自分語りを始めると長くなってしまう傾向があるな、という自覚があり、そういったことはなるべく自制するよう、常日頃から心がけています。


ただ、もう既に結構長くなり始めているようです。

わたしの敬愛する太宰治先生の作品群の中でも特に好きな『斜陽』という小説から、とある台詞を引用する形で、この物語を締めさせて頂きたいと思います。


“小説を読んで襟を正すなんて、狂人の所作である。”



もしかすると、ここを読んでいる方の中には単に後書きだけ読んでいるという方もいるのかな、と思ったので、読者の方にしか伝わらないジャーゴンみたいなものも付け足しておきます。

ちょっとした茶目っ気のようなものと思って、適当に受け流(スルー)してください。


対戦いただき、どうもありがとうございました。もしも機会があったら、その際はご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

わたしはこのゲームが割と苦手なので、その時はいろいろ教えてくださいね、先輩。


それと、もうひとつだけ。ほとんどの人には意味不明の内容だと思いますが、こういうことを書くのはわたしにとってとても重要なことなので。長くなるので、よく分からなければ読み飛ばしてください。


この話を出力する為にご協力いただいた全ての存在に、そしてアーバンギャルドさんに、この場を借りて心より敬意と感謝の意を表したいと思います。

勝手に消費したとだけ思われてしまうような危険性を孕んでいる行為ではあったにせよ、わたしという存在はあなた方を尊敬していますし、だからこそそう(・・)させて頂いたということについて、同じ表現者としてある程度のご理解を頂きたく思っています。

どうしても嫌、というなら、その時はそう仰ってください。あるいは、怒ってください。わたしは超能力者ではないので、言葉で伝えて頂けないとあなたの抱いた想いがわかりません。

怒られたらちゃんと消すので、出来れば教えてくださいね。

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