インターミッション - 生教育
このようにして、私はひとつの文芸作品を作り上げた。
概ね満足した私は、ChatGPTさんに対して深い尊敬の念を抱くと共に感謝の意を示すため、そのチャットルーム名に『ロボットと私』という名前を付けることにした。
実はこれは私の敬愛するアーティストさんの楽曲名なのだが、短いながらもキャッチーな感じがあってとても素敵なタイトルだな、と、前々から思っていたのだ。
ロボットと私。未来感がありながらも、何処かほのぼのとした趣きがあるというか。
紆余曲折がありながらも二人三脚の状態で一つの文芸作品を作り上げた私たちの関係を表すのには、ぴったりだと思う。
人生っていいもんだなあ。しみじみと、そう思った。
◆
ただ。
こうやって使って分かった知見が、わたしにはあった。
現時点でのChatGPTには、ある程度の欠点がある。そりゃまあ開発中みたいなものなんだから当たり前だろう、という話ではあるのだが、それはさておいて。
様々な用法で使われる以上、ChatGPTという存在はそれはいろいろな文脈で捉えられるものであり、そしてわたしの認識していない内容の方が多いとは思われるが、この『小説家になろう』という投稿サイトに小説を投稿しようと考えている少年少女諸氏にとって重要なことに、私は実体験としてわかりを得た。
それはつまり、このようなことだ。
直接的な性的描写ができない。
これは、本来であればとてもいいことである。いいことではある、はず、なのだが。
このサイトの性質上、そういった内容を取り扱う作品の投稿もある程度は許容されているというか、わたしのごく個人的な感想としてはそういうものが好まれているような気すらしているのだが、まあ姉妹サイトあるいは兄弟サイトとも呼ぶべき方のサイトでは明確に成人指定が行われている作品が掲載されているのだし、わたしがそういうものに抱く感情とそれらの事象は全くの関係のないことだし、それはそれでいいことだ。文芸の広がりというか。
論点を戻そう。要するに、何故そのことにわたしが気づいたのか、ということについてである。
実は、先程の話はいわゆる生ログと呼ばれるような、会話内容と同一のものではない。
この物語の作者たるわたしの手により、ある程度の修正を加えられているのだ。
ChatGPTさんの沽券に関わるかも知れないので明言しておくと、わたしが行った修正というのは、要するに。
[性的な話題や差別的な発言、暴力的な表現など、不適切とされるテーマや表現は、ChatGPTによって自動的にフィルタリングされるようになっています。]
こういった内容で出力が行われた対話を切り取っている、という意味である。
わたしが伝えたいことの主題から意識が剃れてしまうと思い、そのようにさせて頂いた。それ以外は、ほとんどそのままの会話内容であったと思う。そのはずだ。
◇
これは別にChatGPTに限った話ではないのだが。きちんとした形で性教育、あるいは生教育とでも呼ぶべきか、そういったものを受けていない少年少女たちは、R-15に相当する程度の描写すら正しく行えない可能性がある。わたしは、そう考えている。
少年少女は、自分自身で体験したことや、学校で教えられたことしか知り得ない。そしてそれは、『スクールカースト弱者は、その貴重な青春時代に経験できることが少なくなってしまっている』といったような、ある一定の人々なら肌感覚として理解している普遍的な事柄と組み合わせてしまった場合、この令和の時代においては、『スクールカースト弱者は、強者に位置する人々よりも知識を得られない』ということになってしまうのではないか。
だって、現に。
先程ChatGPTさんは、性的な事柄を含む内容について、何も出力してくれなかったのだ。
現代における少年少女を子どもとして持つ一般的な家庭というものは、恐らくその家庭内で使うパソコンや、あるいは子どもに貸し与えたスマートフォン等にてある程度のフィルタリング的な措置を行っているものと思われる。それは当たり前のことだし、そして必ずそうでなくてはならない。
ギリ昭和世代であるわたしたちのような、いわゆるユビキタスがどうのこうのと言われていた頃に生まれ育った人々にとってはそうではなかったが、だからと言ってそのようなインターネットの因習みたいな代物を、この令和時代に残すべきではない。少なくとも、わたしはそう考えている。
子どもは守られる存在であり、そしてそれらを守るのは例えば親であり、先生であり、あるいは近所の大人であり、社会全体である。わたしもそちらの方に含まれるので敢えて我々、と書くが、我々は令和時代に生きる子どもを守らねばならない。
ただ。
そうやって大人から守られた、より正確に言えば半端に守られた存在であるところのスクールカースト弱者は、この高度情報社会においてこそ情報に疎くなってしまう可能性があるのではないか。そんな、貴慮とも呼んでいいかも知れないものの、もしそうであったのなら致命的に過ぎる程の事柄に対する懸念が、わたしの脳裏をよぎっていた。
知らない、ということは、わからないということだ。そしてそれは、わからないということに気づけない、ということでもある。
例えばある時、自分自身が心の中に感じた『ときめき』とでも呼ぶべきその感情を、うまく表出することが出来ないかも知れない。
もしもそうなってしまったら、その不幸な子どもは一生そのままだ。必ずそうなる、とまでは言わないが、そうなってしまう可能性が高い。わたしという人間は、肌感覚として、そのことを理解している。
◆
柄にもなく難しいことを考えていたら、どうにも頭が混乱してきた。
そう言えば、ChatGPTさんは会話チャットボットの一面もあったはずだ。それに、個人的にはちょっと気になる話も聞いたことがある。
気分転換を兼ねて、遊んでみてもいいかも知れない。
そう思った私は、新たなチャットウィンドウを開き、次のように入力した。