タツ : 髪を切る話
コンクリートが日差しを照り返す。暑さで緩んだ顎を汗が滴っていった。耳を突くわざとらしい蝉の声。体を占めるもので爽やかなのは遠くに臨める入道雲くらいだ。そんな、典型的で平凡な夏の日だった。
「今年も暑いな。」
墓にかけた水は色を濃くしたかと思えばすぐに失せていく。熱心に柄杓を上下させる男の手の方が濡れていた。
その男のでこぼこと血管の隆起する手は大きく、その体躯もまた大きい。年齢は四十歳くらいだろうか。ちらと見ただけでは威圧感を与えそうな風体だが、高い位置にある目は優しくどこか遠くを見据えている。肩まで伸びたクセのある髪の毛、髭面の胡散臭さはあれど、どこか人の良さの透けて見える男だった。
しばらくして満遍なく濡らし終えたらしく、男は柄杓をバケツに突っ込むとそっと墓に向かって手を合わせる。ずっとたたえていた笑みが失せ、何かを想うようなその横顔には清廉な美しさが宿っていた。彼は、そのまましばらく動かない。
そこにザッザッと、靴底を擦るような足音。大柄な男の耳にも届いたようだ。彼は顔を上げて、そして来訪者に向かって笑いかけた。
「おかえり。」
現れた男は真っ黒なワイシャツにズボン、靴。大柄な男よりも幾分か若く、青年と呼ぶ方が正しい容姿をしている。髪型や耳にたくさん空いた穴から得る印象は軽薄そうだが、彼は男に対して整った動作で礼儀正しく頭を下げた。
「ご無沙汰してます、林さん。」
林と呼ばれた大柄な男は、何かを慈しむようににこりと微笑んだ。
「いやあ、あちぃなぁ。それに日本の夏はなんかジメついてる。」
縁側の存在する昔ながらの日本家屋。二人はそこに場所を移していた。林は笑いながら青年のいる座敷の間に入っていく。その部屋の奥には素朴な仏壇がぽつんと置かれていて、青年は線香をあげているようだった。
チーンとりんが鳴る。青年は真面目な顔で仏壇に向かって手を合わせ、しばらくの間顔を上げなかった。林はそれを、崩した姿勢でぼんやりと見守った。
「……いつ、戻って来られてたんですか?」
その言葉と共に青年が顔を上げる。彼の小豆色の目は林を映して鈍く光った。この青年は年齢よりも若く取られてしまうであろう顔立ちをしていたが、林に向ける目だけは彼の積み重ねてきた年月を反映しているようで。
「二日前。盆が過ぎたらまたあっちに戻るよ。」
林はほんの少しだけ圧倒されながら口を開く。年々、この青年の目が突き刺さるようになっていっているのだ。いや、初めて会ったときから言語化できない湧き上がる感情はあったか。
「そうなんですね。相変わらず律儀だ。」
青年はそう言いながら視線を仏壇に向ける。そこには、今は亡き妻がにこにこと笑いながら居座っていた。闘病生活を送る前に撮っていたそれは、最後に見た妻よりもふっくらとしていて明るい。
青年は何かを想うようにじっとそちらを見つめ続ける。そんな彼を見ていられなくなった林は目を伏せた。独特な間が二人の間に流れた。
「……あの人が亡くなってから、今年で四年です。それなのに、ここに来れば会える気がするのはなんでなんだろ。」
林は一度口を開こうとして、言葉が見つからずに閉じた。青年も何か言われることは期待していなかったらしい。気にしていない様子で仏壇を眺めている。いや、仏壇というよりは立ち昇る線香の煙を見ているようだった。
「……兄ちゃん、麦茶でも飲むか。」
林の言葉に青年は静かに頷いた。
冷えた麦茶を二人で飲みながら会話もなくソファの柔らかさに体を預けた。ここには思い出が詰まり過ぎている。このリビングでテレビを見ながらころころと笑っていた人がいたのだと、そう信じられないほどに寂しい部屋だ。
「林さんは、ちゃんと健診とか行ってるんですか?」
感傷に浸りかけた林を引き戻す青年の言葉。林はえ、と焦ったように視線を泳がせる。急に訊かないでくれという気持ちと、彼の言わんとすることがわかる焦りで笑うしかなくなってしまう。林のその反応で青年は察したらしく、呆れたように目を細めた。
「ちゃんと行ってくださいよ。あんたまで死なせたら俺、向こうであの人になんて言われるかわかんねえじゃん。」
ははは、と困り笑いを浮かべて、林は弁明の前に喉を湿らせる。自分の健康の心配をしてくるのは家族以外ではこの青年くらいなのだ。
「そんなに怒んないでくれよ。ほら、それにおじさんはふゆに会うまで酒も煙草も知らないつまんない男だったんだから、わりと大丈夫だって。」
今のところ体に異常もない。安心させようとそう言ったのだが、どうやらこれは弁明にはならなかったらしい。林の言葉のせいで青年は更に不機嫌そうな表情に変わっていく。
「そういう問題じゃないでしょ。あんたもあの人もわりとざっくりしてるのが心配なんだ。人間、いつどうやって死ぬのかなんてわかんないんですからね。」
麦茶のコップを唇に添えて、彼は複雑そうにそう言った。笑うことしかできなかった林はそれを見てそっと笑顔を潜める。
四年前。妻の訃報は、青年にとっては急な知らせではなかったのだ。自分よりも早く妻と出会っていた青年は彼女の衰えていく過程をずっと見ていたのだから。
遅れた乳癌の発見、手術に抗がん剤治療。そして、転移。その全ての発端は、妻が若さ故に健康を二の次にしてきたことだった。妻が後悔しない性格だった分、近くで見ていたこの青年の方が多くを気負ってきたのだ。彼のそのお節介は、今は林に向いていた。
「肝に、銘じるよ。」
だが、青年のそんな優しさを理解できていたとしても林が妻の死と共に失った致命的な何かを拭えるわけではない。林が自分でもこれはその場凌ぎの返事だな、と感じた瞬間に青年は凄みのある表情で林を睨みつけた。ひどく不機嫌そうに鼻を鳴らして、彼は躊躇いもなく顔を歪める。
「薄っぺらい言葉だなぁ。林さんはさあ、もう少し自分のために生きなよ。いつ死んでもいいみたいな顔しないで。まだ四十過ぎたくらいでしょ?」
綺麗な顔が怒りで台無しだ。失言であったことは認めるが、林は何か違和感を感じて青年を見つめる。彼にしてはちょっと、感情的だな、と。
「兄ちゃん、何かあったのか?最近。」
心配されている気配を感じたのか、青年はほんの少し気まずそうに唸る。何かへの苛立ちを混ぜて、林に対する苦言にしていたのだろう。そのことに今、自分でも気がついたらしい。
「……まあ、最近身内がちょっと入院沙汰起こしまして。あの子は怪我だったけど、やっぱり俺、病院は好きじゃない。」
彼が身内と呼ぶのは大抵妹のことだ。確か目に入れても痛くないほど可愛がっていたはずだったが、そんな子が入院するとは青年の性格と家庭環境を鑑みると辛い思いをしたことだろう。林は自分の軽率な発言を恥じた。
「だから行く用事作らせないでくださいね。あんたが普段どう思ってんのかは知らないけど、俺の前でくらいは生き汚くなってください。」
ごめんな、と言いながら林は青年の整えられた髪をぐしゃぐしゃと乱した。突然の林の行いに驚いた青年は目を見開いて、抗議の声を漏らす。
「急になんですか。俺もう三十ですからね。」
口ではそう言いつつ手を振り払おうとはしないのだ。それをわかっている林は満足のいくまで頭を撫でてから青年を解放した。
「ふゆが可愛がってた理由がよくわかるなぁ。三十歳になろうがなんだろうが、兄ちゃんはいくつになっても可愛い。」
にこにこと頬を緩める林を睨みつけつつ、青年は乱れた髪を整える。この年齢で可愛い可愛いと言われるのは恥ずかしい。でも、悪くない。複雑な感情の織り混ざった表情を浮かべる彼に林は麦茶のお代わりを注いだ。
「ところで兄ちゃん。今日は墓参りに来ただけかい?」
林がそう言った途端、ガラスに液体の当たる静かな音だけが室内に響く時間が訪れる。こぽこぽ、カラカラと、清廉な音だ。麦茶を注ぎ終えて顔を上げた林が青年と目が合ったとき、彼は声を出さずに首を横に振った。
「そろそろ、芙由希さんのお願い、叶えてやんねえと。」
彼はどこか緊張した面持ちで、それでも笑みを携えて。林は何かを懐かしむようにああ、と息と共に吐いた。
洗髪が随分と上手くなったものだ。手先の器用な彼はそもそも何でもソツなくこなしていたのだが、それを加味してもその力加減や気遣いは年々上手くなってきている。青年が持参してくれたシャンプーは、何とも言えないいい匂いがした。
家で洗髪をするためのセットは、生前の妻が組み立てたもの。彼女はいつも嬉しそうに林の髪を触っていた。いつの間にか、洗う側が林の方になっていたのは。
「わりと、いつも髪綺麗にしてますよね。見た目ちゃらんぽらんにしてるくせに。」
絶妙な力加減で髪の毛を絞りながら青年が関心したような声を漏らす。失礼な、と言いたいところだが何も間違ってはいないので、とりあえず林は笑っておいた。
「まあ、あの人の愛した髪の毛だからなぁ。手が満足に動かせなくなるまではずっとふゆが結んでくれてた。」
頭を包むふわふわのタオルからは、生活感のある香りはしない。当たり前だ。林は妻と暮らしていたときに使っていたもののほとんどを処分してしまったのだから。この青年に会うこのときだけは、それが無性に寂しくなる。
「……そうですね。芙由希さんはいつも楽しそうにアンタの髪いじってたわ。」
林を起き上がらせながら青年はしみじみとそう言った。しかしそれからは無駄口を控えて次の工程の準備に取り掛かる。林はそれをぼんやりと眺めながら、たまに飛んでくる指示に従った。
そうしているうちに二人の間の空気感が緩く解けてきて、互いが積み重ねてきた年月が溶ける。鏡の前の椅子に腰掛けたとき、林は自分がまるで妻の生きていた頃に帰ってきたかのような不思議な感慨に駆られた。でも自分の背後に立つのは妻よりも幾分か背が高く、幾分も強い瞳を持った青年で。
首裏から回ってきた青年の手からはいい匂いがした。いつも整髪剤の匂いを染みつけていた妻とは違う、鼻をくすぐる爽やかな香り。それに、女性のそれとは違う骨張って硬い手。妻とは違う。違うのに、その所作や息遣いは妻と重なった。
動けない林をよそに青年の手は彼の首周りを這う。鎖骨をなぞるように布を着せて、首元に入り込んだ髪の毛をゆるく抜いた。林は流れるようなその動作に見惚れて、時間を忘れるほど浸った。
しかし、青年の手が横髪を耳から外したとき林は我に帰ることになる。自らの頰を掠めたその手の冷たさに彼はゾッとして思わず鏡越しに青年の顔を見た。そこではどこか青褪めた、死人のような眼が林を見ていた。
「……緊張してんのか、兄ちゃん。」
尋ねると青年もハッとしたように現実に帰ってくる。彼は強張った自分の手を見つめ、自嘲するような笑みを浮かべた。
林は何か軽口でも叩こうとして口を開く。緊張を和らげてやろうとしたのだ。でも、青年の顔を見て口籠った。彼は鏡越しに林をじっと見つめていた。光の宿らない昏い目で、じっと。
「……四年ですよ、もう。」
それは、林に向けているようで向けていない言葉だったのかもしれない。それでも彼の言わんとすることがわかってしまう林は目を伏せた。耳を塞ぐことはできなかった。
「何なら今年で五年目です。……そんだけ経てば。食って寝て、年月が重なったら。そうしたら、大事な人の死だって薄くなるんだ。」
青年の声は震えている。どこにもぶつけようがなかった彼の葛藤が、林に鉛のようにのしかかる。グッと握りこぶしをつくっていないと耐えられないくらい、重い。
「俺は、もうあの人の声が思い出せない。どれが本物かわからない。芙由希さんは俺の恩人で、俺を救ってくれた人なのに。そんな、大事な人なのに。」
こちらの息が苦しくなるような嘆きだった。そうだ。この青年は、泣くのが下手だった。通夜のとき、妻の眠る棺桶の前で堪えていた彼を思い出す。
「怖いんです、俺は。幸せに塗り潰されて、思い出になって、盆のときくらいしか思い出さなくなって。そうなったとき、あの人が本当に死んでしまうような気がするんです。とっくに、芙由希さんは死んでるのに。おかしいかな、俺。おかしいよな。」
自分を嘲るように笑う青年。彼がこんなふうに泣き出すのは初めてのことだった。去年も、その前も、林の髪を切ることを断念して毛先だけ整えると暗い目を見せてはいたのだが、ここまで感情的になられたのは。
「タツさんの髪を切ってあげてねって。何よりも重要なあの人の代わりを任されたのに、未だに手が強張る。あの人の最愛のって考えるだけで、いつも通りができないんです。すみません、ほんと。情けねえ。」
涙がぽたぽたと当たる音がした。それと控えめに鼻をすする音。どの言葉をかけようか悩んだ末に林は微笑みを浮かべた。青年がそれに気づいたことを確認してから彼は口を開く。
「……ふゆとの思い出が君の足枷になってしまうなら、全部忘れなさい。」
それはきっと、青年にとっては残酷な言葉だ。でも妻は死んだ自分に囚われて欲しくないだろう。そういう人だった。そういう強い女だったから。
「思い出すのが盆だけになることの何が悪い。それでいいんだよ。今の幸せを無視してまであいつに殉じる必要はない。そんなのはおじさんの役目だ。」
ふと鏡を見ると、そこにはあのときの子どもがいた。自分よりも上背はないのにずっと逞しく、それなのに脆くて危うい子どもが。彼は濡れた無垢な瞳で林を見ていた。
──嗚呼、この子もあそこから踏み出せずにいたのか。
……いや。
「願いを叶えてあげたってふゆは死なない。あの人の息遣いは兄ちゃんにちゃんと根付いてるじゃないか。髪を除けるタイミングも、扱う手つきもそっくりだ。兄ちゃんがいる限り、松原芙由希は死なない。」
きっと青年は今、何かの岐路に立っている。妻に囚われていた部分を誰かに救われようとしているのだ。そんな彼にかける言葉は一つだろう。
「怖がらずに幸せになりなさい。そうじゃないと芙由希が君を救った意味がない。」
林の言葉に促されるように、青年の手がゆっくりと髪を梳く。首に一瞬触れた指先は相変わらず冷たくて震えていた。でも迷いは消えている。林はゆっくりと、身を委ねるように目を閉じた。
花の香りが病室を満たす日は大抵彼が訪れた後。不思議と病院で顔を合わせることは少なく、妻が嬉しそうに生けられた花を見つめている姿から彼の来訪を知ることがほとんど。
彼は、青年は、妻にとっても特別だった。あれほど熱心に見つめられる経験はできない。どこか無垢な少女のように彼女はそう語っていたから。
林は青年と妻の出会いをよくは知らない。でもきっと、彼があと十年早く産まれていれば自分の役目はなかったのだろうということは理解できた。そういうふうに心を傾け合っていた二人だった。
緩く髪の毛を引かれる。それから、ショキショキと快い金属音が続いた。本当に何もかも似ている。だけど鼻歌は続かない。淡々と二枚の刃がぶつかる心地良さに林は小さく笑った。
「楽しそうだ。」
なんとなく溢した言葉に青年の手が止まる。林が目を開けると、彼は涙の跡を晴らすような笑みを浮かべていた。それはまるで。
「芙由希さんみたいなこと言わないでください。ムカつくんで。」
生意気だ。林は青年のニヒルな笑みにつられてくしゃりと笑った。
「……慰められに来たわけじゃねえのに、もう林さんくらいにしか芙由希さんの話できないから妙なこと言っちゃったな。忘れてくださいね。」
この青年、自分では気づいていないのだが林に対しては甘えているようなきらいがある。話を聞いて欲しかった。それはこの青年の不器用な甘えだったのだろう。そのことになんとなく気づいている林ははいはい、と二つ返事をした。そういうの、悪くない。
「髪、切ったからって大事にしなかったら芙由希さんに怒られますからね。」
ショキショキと、再び鋏が動き始める。その音にもう迷いはない。林は返事をしながら鏡に写る青年を見つめた。
「それと体も大事にしねえと俺が怒ります。」
青年の声を聞きながら、林はぼんやりと鏡の中の彼に浸る。彼は大人になっている。初めて出会った頃よりもずっと。親戚でもないくせに、立派になったな、なんて思うのはおかしいだろうか。それでもその命の尊さに林は目を細める。
病床の妻のために伸ばしていた髪の毛が青年の手によって落ちていく。その鋏が髪を割って入る度に何かが洗われるような気がした。
その感覚に溺れるように林は淡々と鋏の音を耳で追った。青年もそうしているようだった。
「さっぱりしちまったなぁ。」
鏡の中の自分が笑った。清々しい笑顔だ。伸ばしていた髪を切り落とせば妻が失われてしまうのではないだろうか、と恐れていたのは自分もだったのかもしれない。でも違った。
「懐かしいですね。芙由希さんも随分陰気な男選ぶなぁって、そう思わされた頃の林さんになりました。」
丁寧に髪の毛を払いながら青年は毒を吐く。普段なら諫めるところなのだが、今ばかりは彼の意見に賛成だ。林は返事をして鏡の中の自分に手を伸ばす。
「ああ。帰ってきたみたいだ。あの人のいる頃に。」
目を細めて、ひどく懐かしい自分に思いを馳せる。あの頃よりは随分とマシに笑えるようになったかな。
「ちょっと。まだ動かないでくださいよ。」
不満げな声と共に椅子に引き戻されて、背中に温かな重みがのしかかる。青年は楽しげに林の首に腕を回し、両方の横髪の長さを調節しつつニヤリと笑った。
「ただ切るだけじゃやっぱりつまんないっしょ。陰気なおっさん卒業したんだし、もっといい男に仕上げてやるよ。」
そうはっきりと口にした青年のことが眩しくて林は思わず彼を見上げた。先ほどまで震えていたくせに。その悪態もつけないほどに、再び頰を掠めた手が頼もしくて何も言えない。背後の青年が今日初めて自分らしく笑ってくれたような気がして、そのことに対する不思議な感慨が胸を占める。
「……ああ。頼むわ、兄ちゃん。」
林の目の端に滲んだ涙は憂いを帯びてはいなかった。
ブルーシートの上に落ちた髪の毛は綺麗に掃除されてしまって、不思議とさっぱりとした気分に浸ることになった。カラン、と麦茶の中の氷が鳴る。
「ついに切れちゃったなぁ。なんか変な感じ。」
先ほどから青年はしきりに林の方を見ている。四年、いや妻の生前からだとすれば五年程度はあの髪型だったのだから、変な感じがするのは当たり前といえば当たり前かもしれない。
「兄ちゃんの中の芙由希、死んじまった?」
重いことを軽い口調で尋ねてみる。ちょっとくらい悩むかな。そう思っていた林に対して青年は案外すぐに首を横に振った。
「いや。むしろ芙由希さんが帰ってきたみてえ。俺上手くなったわ。」
自画自賛だ。得意げな笑みを浮かべながら自分の髪を弄ぶ青年のでこを林がつつく。憎たらしくて可愛かった。
「じゃあふゆだったら何点つけてたと思うんだ?」
「七十五点。」
即答だ。結構辛めの採点。優しくて可愛らしい顔をしているくせに、案外容赦のなかった妻を思い出して林は呵呵と笑った。
「おじさんからしたら百点満点だ。ありがとうな、兄ちゃん。さっぱりした。」
ぐしゃぐしゃと林が頭を撫でると青年はまた照れたように目を逸らして、でもやっぱり振り払おうとはしない。
「……アンタってさあ、ほんとに親父みてえだな。俺、アンタみてえな……。」
たぶんこれは無意識のうちにまろび出た言葉だ。だけど聞いていないフリができなかった。林が複雑そうな表情を浮かべていることに気づいて、青年は慌てたように口を開く。
「あ、悪りぃ。ほんと、その。」
謝って欲しくはなかったかな。林は彼の言葉を遮るように、より力を込めて青年の頭を撫でる。
「そうだな。おじさんも兄ちゃんみてえな可愛い息子が欲しかったなぁ。」
青年が目を伏せる。水滴すら乗りそうな長い睫毛が彼の瞳に影を落とすのが美しく、そういう表情をさせるのは悪くない。そう思ってしまう程度にはこちらも悪い大人になったのかもしれない。
「でもな、よかったんだ。俺は、まだ見ぬ我が子よりもあの人の一年二年が惜しかった。それに兄ちゃんが毎年会いに来てくれるんだから、おじさんは何も後悔してない。」
表情を見られないようにあからさまに顔を伏せた青年は泣いているのだろうか。林は彼に向けるこの感情の浅ましさに苦く笑う。妻の愛した君を自分も息子のように思っている。これもまた、彼には酷な言葉だから。
「……いい時間だな、兄ちゃん。そんじゃそろそろ。」
時計を確認するフリをして青年から目を逸らした。眩しくて、愛しくて、どうにかなりそうだから。妻もこういう気持ちで彼を見ていたのだろうか。もう、聞くことはできない。
「……奢ってよ。」
青年の予想外の返事に林は固まった。てっきり帰りますと返ってくるとばかり思っていた林の耳に届いた拗ねたような青年の声。奢って、とは。
「髪切れた祝い。」
なんだそりゃ。でも確かにそれもいいかもしれない。林はもう一回だけ青年の頭を撫でて立ち上がる。
「はは、了解。おじさんもうこっちの美味い店忘れちゃったから兄ちゃんが教えてくれ。」
了解。そう返事をした青年も林に続いて立ち上がった。荷物をまとめた彼はじっと林を見上げる。
「墓でも思ったんですけど、やっぱりでけえな。」
ちょっと羨ましそうだ。彼は確か身長のことを気にしていたはずだ。
その視線を面白がった林が不意打ちで額を小突くと、青年はぶつくさと悪態をつき始める。でけえマウントとんなっての。それは子どものように拗ねた口調で更に笑えてきた。兄ちゃんはちっちゃくてもいい男じゃねえか。そう言うとますます拗ねるのでやめておく。
「まだ追いつける気がしねえ。アンタにも、芙由希さんにも。」
青年はそう言いながら玄関の方へ向かう。林も荷物を整えて続くと、靴紐を結ぶために丸まった青年の背中が見えた。
「俺、結婚するんです。」
思い出したかのように言われたそれに林は驚かなかった。髪を切るときは外していたが、その前と今、青年の左手の薬指には黒い細身の指輪が嵌まっていたから。
「今度、連れてきます。……林さんにも会わせたかったんだ。ずっと。」
それは自分には勿体ない言葉だと思った。林は滲みかけた涙を堪えてなんとか頷く。歳をとるとこんなにも涙脆くなるものか。
「だから、ちゃんと健康でいてくださいね。俺に会うために。」
振り向いた形のいい小豆色の瞳がくしゃりと笑顔で歪む。今日、断ち切れたのはこの青年の後悔だけではない。林の方も、きっと。
外に出るとひどく目が痛んだ。それが肌を突き刺す日の光のせいなのか、自分の先を行く頼もしい背中のせいなのかは林の知る由もないことだ。