中編
彼女が戻って来るのが遅いと思ったギスランがリリアーヌを見ると、険悪な雰囲気で彼女が取り囲まれていた。女子供の面倒に口出しするつもりは無かったが、一方的な様子に少しばかり良心が動いて近寄ってみたのだった。すると案の定よくある場面だが上品ぶった女達の性質の悪い虐めだ。
(年端もいかぬ子供相手にいい大人が!)
そう思うとつい近寄って小さく上下する皿に手を出してしまったのだった。そしてギスランは嫌悪を浮かべた瞳で彼女らを一瞥した。それから戸惑ったように見上げているリリアーヌの肩にまるで守護するように手を置いた。
「リリアーヌ。そなた菓子を作っていたのか。どうりで詳しいと思った。私は菓子が好きだから今度作ってくれ好みは分かるだろう?」
リリアーヌの顔が一気に花開いたように輝いた。
「はい!オベール公爵」
その笑顔にギスランは少し驚き、つられて微笑んでしまった。
「楽しみにしている」
そして仲良く席に戻っていった。取り残された令嬢達は呆然とした状態で二人を見送っていた。この会にギスランが出席しているとは思っていなかったのだ。しかも菓子好きとは・・・・明日から貴婦人達の嗜みとして菓子作りが急増するだろう。
ギスランは今まで自分が甘党だと公にしていなかったが、今回の珍しい催しは無視出来なかったのだ。遅れて出席し目立たず目ぼしいのを食べたらさっさと帰るつもりだった。別に秘密にしていた訳では無いから構わないが明日には社交界の噂にのぼることだろうと思うと頭が痛くなりそうだ。しかしこの保護欲をかきたてられる小さな存在が嬉しそうにしているのを見るのは悪く無いと思った。
それから数日もしない間に大神官エルヴェ・ガロアがギスランのもとを訪れていた。
「私に用とは?」
「はい。お忙しいところ大変申し訳ございません。本日は殿下のご婚儀につきましてご相談にまいりました」
王族は早婚が多いが今回はやけにゆっくりしているとギスランは思っていた。しかもちゃんとした許婚もいなかった。ふと小さなリリアーヌが目に浮かんだが、自分がユベールより先になるなら彼女はありえないと思った。
「婚儀?それに相談?はははっ、相談出来るのか?馬鹿らしい。もう決まっているのだろう?私に気を使う必要は無い。これに関して神殿と王が決めた事に否を言う者は昔からいない」
「英明なる殿下でございますから私も助かります」
「世辞はいい。それでいつで誰とだ?」
「婚儀は年内ですが・・・誰とは異なことを・・・以前から決まっておりましたでしょう?」
「―――まさかミレー伯の?」
「はい。リリアーヌ様でございます」
ギスランは思ってもいなかった答えに驚いた。
「馬鹿な!あれはユベールの許婚だろう?」
「もちろんユベール王子の候補でもありましたが、殿下の花嫁候補でもございましたでしょう?ですから今回は年長であられる殿下から先にご結婚なさいますから当然こちらを優先させて頂きます」
大神官は微笑みながら言った。
「優先?優先と言ってもあれはまだ子供では無いか!ユベールが後だと言うのならその方が良いだろう?わざわざ私にしなくてもまだつりあう候補はいるんじゃないか?」
エルヴェ・ガロアはいっそう笑みを深くしながら聞いている。ギスランはこの若い大神官が昔から気になっていた。温和な慈悲深い微笑みの中に得体の知れないものを感じた時があったからだ。一瞬の表情だったがその時、背筋が緊張したのを覚えている。しかしその後、おかしな様子も無かったのであれは見間違えだったのかと思うこの頃だが…
「オベール公。残念な事に今回は良き候補が見つかりませんでした。ラザル侯のような方々は多くいらっしゃいますが…」
「…血筋も大切だが政治的問題か――姉上も大変だという訳だな。それなら次のユベールの許婚は赤ん坊ぐらいになるな?私の子だったりしてな。ははははっ、これは傑作だ!もうよい。用事がそれだけなら下がるがいい。後は全て任せる。お前の言う日時に祭壇の前に立てばいいのだろう」
ギスランに背を向けた大神官エルヴェ・ガロアは薄く微笑んだ。その表情は彼を知る者なら誰も想像出来ない冷たい微笑みだった。
ミレー伯爵家にもその知らせが届いた。両親は大いに喜んでいた。花嫁候補となっても正式にどちらとはっきりとしたもので無かったから逆に、いつ破談されてもおかしくなかったのだ。そんな不安定な時期が長かったので婚約を飛び越えて婚礼というはっきりとした形になるのだから喜ぶのは当たり前だった。
しかし、リリアーヌは逆に戸惑った。結婚はどちらかと婚約して自分が成人した後の話しで、まだまだ時間があると思っていたからだ。しかも相手がユベールでは無くギスランだというのにも不安になった。周りの噂ではユベールが本命だと言われていたし、彼もリリアーヌには気をかけてくれていた。ギスランとまともに話したのは先日が初めてだったのだ。
しかし当然ながら此方に選ぶ権利は無い。婚礼の期日はあっという間にきてしまった―――
婚礼衣装を身に付けたリリアーヌが鏡の中の自分を見つめた。皆は色々褒めてくれたが自分ではとても気に入らなかった。こんな素敵な刺繍も繊細で美しいレースもみんな大人の女性のものだと思っていた。自分には不釣合いで悲しかった。もっと背が伸びてもっと胸もあって腰がくびれていたらどんなに素敵だろうかと思った。リリアーヌは可愛らしく小さな溜息をついた。
王国は久し振りの慶事に国中が祝福していた。大神殿での挙式、王宮での披露宴が一週間続くのだ。特に王都はその間各地から集まった人々でお祭り騒ぎになる。
そして大神殿の祭壇の前でリリアーヌはあの茶会以来、初めてギスランと会った。正式に婚礼が決まってもその相手と会う事も無くこの日を迎えたのだった。
リリアーヌはベール越しにギスランを見た。相変わらず見上げる様に大きかった。そして祭事用の白い装いが陽に焼けた肌に映えていた。その精悍な顔はいかにも面倒だといっているようだったが、リリアーヌはその姿にドキリとする反面、ぎゅっとする感じもした。
婚礼の儀式がつつがなく行なわれ、婚姻の証にギスランから贈られる指輪が出された。
その時初めてギスランはリリアーヌの手をとった。
そしてはっとした。
自分の手にのったその小さな手は少しでも力を入れたら壊れそうだった。一瞬のためらいの後、指輪をその指にはめたが大きすぎて落ちそうだった。それは直前に財宝目録から適当に選んだものだったから寸法直しをしていなかったのだ。
そして重かった―――
リリアーヌは見た事もない大きな宝石をはめ込んだ指輪に驚きながら落ちないように指を握り込んだ。
式は進み、いよいよ誓いの口づけだった。リリアーヌは初めての事だから緊張していたが、ベールが外されギスランがかがんだと思った瞬間、目を瞑ってしまった。怖かったしギスランの顔が近すぎて恥ずかしかったのだ。だが唇にギスランの唇がちょっと触れただけで終わってしまったのだった。えっ?と思って目を開けたらギスランはもう祭壇の方を向いて立っていた。リリアーヌはなんだか呆気なく気が抜けてしまった。
その後、婚礼も終わり次の披露宴も瞬く間に進み、リリアーヌはまた緊張する時間が近づいて来るのをただひたすら耐えた。そしてその時間がやって来た。
母親や乳母から教えられた婚礼の最後のつとめの時間だ。
緊張して待っていたところにギスランがやって来た。洗いざらしの髪のせいかいつもより幼く見えた。それでも大きな体に違いは無かった。リリアーヌは広い寝室が急に狭く感じた。
ギスランは怯えたように立っているリリアーヌをチラリと見て寝台に、どかりと腰かけた。そしてまだ濡れている髪を苛立たしくかきあげて大きく息を吐いた。
「リリアーヌ。此方に来なさい」
ギスランがリリアーヌに向って言った。リリアーヌは恐る恐る近寄って行った。もういいかと立ち止まるとギスランがまだと言っているようだったので間近まで進んだ。
柔らかで肌触りが良さそうな少し大きめの夜着を着たリリアーヌは頼りなげでいっそう小さかった。半乾きの髪は昼間のように派手に巻いて無く、柔らかに波打っているだけで尚更幼く見えた。本人もまさか自分と結婚するとは思ってもいなかっただろう。これくらいの歳の者なら誰でもユベールの方を好むに違い無いとギスランは思っていた。
誰もが振り返る華やかな美貌と社交的で明るく優しい甥に―――
結婚の相手は昔から興味が無く誰でもいいと思っていた。あからさまでは無いが言い寄って来る者は沢山いたが女は煩わしく面倒だったのだ。お喋りで何かねだってばかりの女達には正直うんざりしていた。最近では化粧や香水の匂いを嗅ぐだけで気分が悪くなっていたのだ。目の前にいるリリアーヌは確かに今日の式典や披露宴では派手に飾り付けられていた感があったが今は初めに出逢った頃のように小さく可愛らしかった。彼女からは湯浴みあがりの姿は尚更清純さが強調されている。
しかし相変わらず自分に怯えた様子に気が重くなった。
「そんな顔をしなくても大丈夫だ。今のお前にこれ以上何も要求などしない…ここでゆっくり休むがいい」
リリアーヌは驚いて瞳を見開いた。
「で、でも…」
ギスランは又、うんざりしたように息を吐いた。
「決まった事に異を唱える事は出来ないが、私は子供相手に無体な事をする趣味は無い。そうだな…その指輪がお前の指に丁度合うようになったらこの続きをしよう」
ぶかぶかの指輪をしたリリアーヌの手を見ながらギスランは言った。
リリアーヌも自分の手を見た。確かにこの指輪がピッタリになった時は、ずっと大人になっている…それまで待ってくれるとギスランが言ってくれたのだ。不安だった気持ちが一気に軽くなって涙が溢れてだした。ぎょっとしたのはギスランだった。幼い彼女に良かれと思った提案に泣かれるとは思わなかったからだ。
しかしリリアーヌは涙を浮かべながら微笑んでギスランの首に抱きついた。
「ありがとうございます。私、一生懸命オベール公の奥様に相応しいように頑張ります」
リリアーヌの突然の行動もそうだが彼女から甘い菓子の香りがして、ギスランは思わずたじろいだ。
「あ・・ああ分かった…リリアーヌ。それにもう夫婦なのだから私の事はオベールではなく名前で呼びなさい」
リリアーヌは耳元で聞こえたギスランの言葉に、ぱっと離れて真赤になった。抱きつくなんて子供みたいな事をして恥ずかしかった。父親にはいつもそうしていたからだ。
「ご、ごめんなさい。ギ、ギスラン様」
あどけないその様子にギスランは何か忘れかけていたものを見つけたような気持ちになった。そして小さなリリアーヌを心から大切にしようと思ったのだった。
結婚一年目、二年目となってもギスランは忙しく殆ど屋敷には帰って来なかった。住む場所が変わっただけでリリアーヌの生活は以前と全く変わらない。どちらかといえば前よりかえって自由だった。だから好きな菓子作りも思い存分出来るし、出来上がった菓子を屋敷の皆に配っていた。皆の喜んで食べてくれる姿が嬉しかったが最近は誰にあげても何かもの足りなかった。その原因は何と無く分かっている。それは先日のこと―――
いつものように自分で焼いた菓子で昼のお茶を中庭でしている所に珍しくギスランが帰って来た。
「うまそうだな。リリアーヌお前が作ったのか?」
そう言うのが早いか手が早いのか?ギスランは菓子をつまむと口に放り込んでいた。
「ん、これはうまい!」
リリアーヌは、ぽかんとギスランを見上げていると彼は満足そうに笑っている。そしてまた手を伸ばして来たが、その時、後ろから咳払いがした。侍女頭のシラク夫人だった。彼女はギスランの乳母で今リリアーヌにとっても頼りになる人だ。
「何だ?シラク婦人」
「殿下。お行儀が悪うございます」
ギスランは止まっていた手を伸ばして結局一つ摘まんだ。
「菓子は摘まみ食いが一番うまいと昔、教わったからな。そうだろう?違うか?」
ギスランは悪びれなく堂々と言った。そして口に運ぶ。
そういえば前もいきなり口に運ぼうとしたのをリリアーヌが止めた日の事を思い出して笑いが込み上げてきた。笑いを噛み殺そうとすればするだけ顔が変になる。とうとう口に手をあてて吹き出してしまった。いったん笑い出すともう止まらなかった。
ギスランが今度は逆に唖然と、リリアーヌを見つめた。
笑いすぎて息が出来なくて胸が苦しくなった。そしてやっとの思いで言葉を出した。
「・・ほ・・ほんとうですよね。お菓子は摘まみ食いが美味しいと、私も思っていました。弟達と一緒にお母様の目を盗んで・・ぷっ・・・よくしていました・・くふっ・・でも、たくさん作っていますからどうぞゆっくり召し上がってください」
リリアーヌは涙目になっていた。
ギスランは、ああと返事をしながら彼女から目が離せなかった。日に日にリリアーヌは愛らしくなって娘らしく成長するのも早いだろう。妹はいなかったがいるとしたらこんな気分に違い無いと思った。守ってあげなければならない存在―――
シラク婦人は呆れながらギスランの席を用意した。
そうそれは楽しい昼下がりの出来事。いつもは恐い雰囲気のギスランがお菓子を食べる時はとても可愛らしく感じた。大人の男性に可愛らしいとは失礼だがその嬉しそうに食べる姿がとても好きだった。
(好き?)
その思いつきにリリアーヌは胸が、ドクンとした。好きなお菓子を作ってもギスランが食べてくれないからつまらないのは確かだった。
(好きな人に食べてもらいたい?)
また、トクンと胸がときめいた。ギスランのお菓子を食べる時の嬉しそうな顔を思いだして一人で頬を赤く染めた。
「でも…お忙しいのよね」
独り言を呟いた。シラク婦人は最近憂鬱そうな小さな主が気になっていた。原因はお見通しだった。お茶を入れながら話しかけた。
「…ここから馬車で半日ぐらいの砦にギスラン様はいらっしゃいますよ。随分長くそちらで寝泊りされているようですからお菓子をさしいれされたら如何ですか?」
え?とリリアーヌが婦人を見た。
「殿下も面倒がらずに此方に戻って来られればいいものを不便な場所に寝泊りするなんて、王族なのに生粋の軍人のようですね」
確かにギスランは宮殿でふんぞり返っているより現場で指示する方を好んでいるようだった。だからいつも忙しいのだ。しかし…
「でも…お仕事の邪魔をしたら」
シラク婦人が微笑んだ。
「大丈夫でございます。保障いたしますがギスラン様はお暇でございますよ。現場まで行って監督しないと気が済まない性格ですから行かれていますが、周りは皆さま優秀な方ばかりですから殿下はお暇でしょう」
「そ、そういうものなのですか?」
「さようでございます。部下の方も気の毒でしょうね。殿下はきっとしかめっ面して砦の中をうろうろされているでしょうから」
リリアーヌは想像して吹き出してしまった。そんな感じだろうと思ったからだ。
「それでは部下の方々にも甘くないものとか作ります!ギスラン様には特別甘いものを!」
翌朝、早速日持ちするものやその日に食べてもらいたいものなど沢山作って屋敷を出発した。ちょっとした旅行気分だった。馬車に揺られながら膝の上に置いた手を見た。あの結婚指輪が輝いていた。
結婚三年目―――指輪はまだくるりと指を回る。
最近では癖になったようにこの指輪を回すのだ。そして残念そうに溜息をつくのだった。
それから砦に到着したらギスランは驚いてはいたが怒ってなかった。好物の菓子には敵わなかったのだろう。早速食べ始めてくれたギスランをリリアーヌは見つめた。
幸せのひと時だった―――