9 『静けさを乱す音』
蝋燭の淡い光に照らされた天井は、ゴツゴツとしていた。
その天井を、はや一時間は眺めているだろうか。
「……寝れないな」
体に被せていた薄い布団を退け、上体を起こしてベットの縁に腰かける体勢になり、両手で顔を支えた。
「なんでだろう」
先程からずっと、リセラのことが頭から離れない。
彼女と交わした会話を回想して、何故か自分のした発言を違うものにしていればよかったと顧みること何度も。
明日、彼女と再び会うときに交わす会話を妄想すること何度も。
そして数分に一度、竜でも入れそうなあの大きな扉を思い出し、一人で混乱すること何度も。
「くそっ……」
二クロはこういうのに慣れていない。
森での日々では、頭を抱えて懊悩することなどなかった。
だが今は、苦しくすら感じられる。
こんなに悩むぐらいなら、一層今からあの大きな扉に向かった方が――、と思案する直後に、彼女の前で失態を犯すシーンが頭の中で流れることが何度も。
「…………」
挙句、二クロは立ち上がった。
新しい服装を、体の傷に張り付けられた白い布の上から装着し、部屋から出る。
閑静とした巨大な廊下。
それは、大きな螺旋状をなぞる階段でもあった。
勢いに乗って部屋から飛び出たが、途端に鼓動が速まるのを感じてしまう。
それを振り払って、二クロは階段を上り始める。
誰もいない階段に自分の足音だけが響く中、やがて二クロは自分の身長の三倍はある扉を目に捉えた。
随分と緩慢になった足取りで、扉へと近づいて行くと、
「――?」
妙な空気に包まれた。
何か、二クロが望んでいなかったような空気だ。
「…………」
扉の奥から、少女のすすり泣く声が聞こえる。
それを聴き付けた途端に、二クロは扉から一歩後ずさった。
そして、手が震え始めた。
目を見開いて扉を見る二クロは、傍から見れば怯えているようにも映っただろう。
自分の部屋に戻ろうか悩んでいると、扉の奥の少女のすすり泣く声が、熱を増して感情の波に乗ったようにうるさくなった。
「――無理だ」
二クロはそう呟き、部屋へ戻ろうと身を翻した。
――が、そこに、二クロを見上げる黄色の竜が立ちはだかっていた。
「お前っ……いつの間に」
驚いて声を出したが、リセラに聞こえたらいけないのですぐに声を抑え、虚無の空間から姿を出したように現れた竜のリヤにそう問うた。
無論、竜のリヤは人語を喋ることはできないわけだが、変わらず黙って二クロをまっすぐ見詰めていた。
いよいよ混乱する二クロは何も言うことができず、すぐに部屋に戻りたい衝動で竜のリヤの横を通ろうとするが――リヤも動いて二クロの前に立ちはだかる。
「おい……」
二クロに、ゆっくりと一歩詰め寄る竜のリヤ。
二クロを見上げるリヤの黒い瞳は真摯で、どこか助けを求めているようにも感じられた。
見つめ合う二人の間に数秒の沈黙が流れた後、
「リヤ……オレを部屋に帰らせてくれ」
リヤは動かず、顔を少し下げ、二クロを更に下の方から見上げる。
「オレにリセラを慰めろって言うのか?」
リヤは顔をスッと上げた。
「無理だ。無理なんだよ。帰らせてくれ。この場所はうるさいんだ。部屋に戻りたいんだっ」
そう言って二クロは再びリヤの横を通ろうとするが、またも動いて妨げる黄色の竜。
二クロは遂に怒りと焦りを宿した瞳でリヤを睨み返した。
もう一度、今度はモンスターとの戦いで培った身体能力を持って正面からリヤと体でぶつかる。
が、踏み込むリヤにあっさりと力負けして情けなく尻餅をついてしまった。
「っ……」
鋭い視線をぶつけ合う二人。
空気がピリピリと音を立てるようだったが、そこで、扉の奥から聞こえていた少女の泣き声が治まった。
すすり泣く声はまだ聞こえるが、和らいだ。
二人とも、一度扉を見た後にまたお互いを見合う。
今度は、ピリピリとした空気は薄れていた。
二クロは混乱の対象を思い出したかのように瞠目していて、竜のリヤは和らいだ瞳で、再び助けを請うように体を低くした。
それは、『今なら話せない?』と二クロに問うような仕草に見えた。
しかし、二クロは首を横に振った。
物事が乱れるのがとにかく嫌で、それは、感情の乱れに対しても同じことで、今一度落ち着いた場所に戻りたかったのだ。
頑固な二クロを見たリヤは、説得を観念したのか、自分からその硬い口の先を用いてコンコンっと扉をノックした。
おいっ、と二クロが声を掛けるも、既に手遅れで、
「誰?」
掠れた、静かな声が扉の奥から響いた。
二クロは黙ったまま、見開いた目でリヤを見詰めていた。
対するリヤは、二クロに『話すんだ』と伝えるように、顎をしゃくって扉を示した。
「誰もいないの?」
再び、そんな弱々しい声が聞こえたかと思うと、次には扉へ近づいてくる足音が聞こえ始めた。
瞬間、二クロは、リヤがいるのとは反対方向へ走り出した。
今だけは、リセラと会いたくない一心で。
しかし、逃走の試みも儚く、予測していたように追ってきたリヤに服を噛まれ、扉の前へと二クロを放り投げるように戻す。
「まっ……」
足音はもう扉のすぐ近くまで聞こえて来た。
リヤの挙動が理解できないでいる二クロは、せめてリヤはこの場にいてほしかったのだが、何故かリヤは翼を広げて階段の上の方へと撤退していってしまった。
二クロを置き去りにするリヤへの疑念も怒りも束の間――扉がカチャっという音を立てた。
もうこの場から逃げることはできない。
もし逃げようとすれば、リセラにその姿を見られてしまう。
ドアノブの音を聞き付けた瞬間、二クロは全力の速さでその場に立ち上がり、扉を正面に向き直った。
額に汗を浮かせながら、腕を後ろに組んでリセラが現れるのを待つ。
そして、ゆっくりと開かれる扉から出てきたのは、黄緑色の瞳を赤く染めた白髪の少女。
「……二クロ?」
「――――」
名前だけ呼ばれ、それから数秒の沈黙が続く。
二クロはいつも通り、そして特にこういう状況においては、口にする言葉を全く思いつくことができなかった。
ただ、焦ったような醜い笑顔が張り付いている。
リセラは数秒二クロを見詰めていた後、視線を下に落とし、
「ごめん、二クロ。……今は話せないの」
そう呟いて、再び扉を閉めようとするリセラ。
二クロの顔から醜い笑顔は消え、憐れみと驚きが混ざったような表情になり、
「リ、リセラ……?」
扉が閉まる寸前に声を掛けるも、なすすべなく扉は閉まってしまった。
その場に取り残される二クロ。
ただ立ち尽くす彼は、十秒前までとはだいぶ違った気持ちになっていた。
この場から離れたい一心だった彼は、今では、何かできたのかもしれないと悔やむようになっていたのだ。
二クロ自身、苦しむほど心が乱されている状況にいるが、それでも、リセラを放ってはいけないと感じていた。
「……これで、帰っても、結局は……」
数秒の逡巡の挙句、半ば脳死状態になりながら、二クロは自ら扉を開けた。
部屋の中は、広かった。
円形の空間で、天井も遥かに高い。
蝋燭とランプの明るい光が照らすここには、壁に飾られた絵画、壁や床に入った特徴的な模様が見て取れる。
中央には一つの赤色の巨大な布団があり、その上に青色の竜が体を丸めて寝そべっていて、布団の中心に蹲る白髪の少女を守るように体で囲い込んでいた。
部屋に入ってきた二クロに気付く青竜のラヤは、布団に置いていた顔をスッと上げて二クロの方を睨む。
ほとんど衝動に任せて入ってきた二クロは、竜のラヤの鋭い目線に少し後ずさってしまう。
竜のラヤは布団から四脚で立ち上がると、二クロから庇うようにリセラの前に歩み出た。
大きな竜の体でリセラの姿が見えなくなる。
が、部屋に入った時に一瞬見えた彼女の姿は、俯いて二クロの方を見向きもしなかった。
「ラヤ……だったか……」
竜に話しかける二クロ。
「ごめん、リセラが気になって、その……リセラは、大丈夫なのか?」
その問いかけに、竜のラヤもリセラも黙ったまま何も返さなかった。
二クロはリセラの様子が見たくて、ゆっくりと横に歩み寄ろうとするが、二歩目を踏んだところで竜のラヤがこちらに一歩踏み込んだ。
まるで、リセラには近づかせないと主張するように。
恐らく竜のラヤは、今この時に限っては二クロを完全に信用しきっていないように見られる。
その上、誰とも話したくないリセラのため、二クロにこの場から出て行ってもらいたい気持ちもあるだろう。
その場から動かない二クロに、竜のラヤがもう一歩近づいたところで、
「ラヤ」
緩和で静かな声が響いた。
呼ばれた竜のラヤは、二クロに威圧を掛けるのを止め、リセラの方に首を向ける。
「二クロのことなら、心配しなくていいよ」
竜のラヤをそう諭すリセラは、ラヤに横に退いてもらうよう目で促すように弱々しく横を見た。
意図を汲み取ったラヤは、二クロに一瞥を向けた後、リヤの目線に従って部屋の片隅へと退いた。
間に大きな竜の隔たりが無くなり、二クロとリセラの目線が合致する。
しかし、二クロを見るリセラの表情は暗かった。
二クロが口を開くのを待つように、黙って見詰めていた。
「リセラ……」
やっとのことで出て来た言葉が、彼女の名前、それだけだった。
「放っておいてと言ったわ……なのに、何故くるの」
返って来る言葉が、やけに二クロの心を痛ませた。
「……ごめん。その、大丈夫なのかなって……それで……」
その言葉を聞いたリセラは、半ば呆れるように再び顔を俯かせた。
そして、下を向いたまま、
「帰ってくれる?」
二クロは押し黙った。
絶句したと言うより、掛ける言葉を更に必死に探すように頭を働かせた。
黙っていると、リセラが再び顔を上げ、二クロを見上げた。
そして、しばらく見つめられていると、その黄緑色の瞳が再び潤み始めていくのが窺えた。
表情が、今にも泣きだしそうな表情に移り変わっていく。
「リ、リセラっ、」
それを止めるべく、二クロは拳を作って口を開く。
「オレは――君を助けたいんだ!」
勇気と覚悟を持って、そう発した。
なぜ勇気を必要としたかは、彼にも曖昧だ。
リセラの表情は、泣きそうなそれから治まり、驚きを宿した顔に変わっていた。
「君を、助けたい……助けたいから、オレに出来ることを教えてくれないか」
二クロの雰囲気が一変したことによって、リセラも新しい希望を見いだしたのかもしれない。
それから、リセラは、二クロの問い掛けに答えたのだった。
――そんな中、周りから静かな場所が失われていく感覚に、実のところ、二クロは不安を抱えていた。