10 『地面』
ほの暗く、この国で最も豪華であろう一室の中。
透けて見えるカーテンに覆われたベッドに、二人の男女が寝ている。
「今日も疲れたでしょうね~」
女性が、傍らで共に寝る男の胸に手を置きながらそう言う。
まるで男の顔を捕えようとするように、白色の透けた瞳がうろうろと動くが、女性は男の姿が見えていない。
「……ああ、疲れたな」
いつもの問い掛けに対していつもとは違う男の返答に、女性は眉を僅かに上げる。
「今日は~、何かあったんですの~?」
「……少し、片付けなければならない事情が増えただけだ。気にすることはない」
「ふ~ん。その事情ってのを~、聞かせてくれませんの~?」
「……久しく、一翼団の一組がダンジョンに呑まれただけだ」
「ふ~ん。それは興味深いですわね~」
いつも通り、寝る前に安らかな話を交わす二人の心は落ち着いていた。
――否、女性からしたら、二人の心は落ち着いていた。
話が一段落ついたように、数秒の沈黙が続く。
「私は~、新しい少年の~、手当に当たりましたわ~」
「新しい少年……あの黒髪の男か」
「そうですね~。あなたの弟様に頼まれて~、少年の傷に薬を塗ったんですよ~」
「カルシーゴが頼んだのか。意外だな」
「意外なんです~?」
「そうだな、意外だ。……それにしても、カルシーゴのあの少年に対する意識が良く分からない。国から追い出せと言えば止めるが、会議室ではどうもその少年を訝しむような発言をしていた」
「ふ~ん。でも~、あなたの弟様は~、いつも何を考えているか分からないような人だったと思いますよ~? 感情を抱いても~、きっとあの微笑みは顔から剥がれないでしょうね~。彼の考えていることを推測するのは無駄足ですよ~」
「……そうかもな」
話が一段落ついたように、数秒の沈黙が続く。
「あなたは~、弟様のことを今も愛してますか~?」
「…………」
「そうですか~」
話が一段落ついたように、数秒の沈黙が続く。
「お前は、あの少年のことをどう思う」
「あの少年ですか~? どうも思いませんけどね~」
「どこか怪しく思ったりはしなかったか?」
「怪しくですか~? 何故です~?」
「……気になっただけだ」
「ふ~ん。怪しく感じることはなかったですね~」
「そうか」
話が一段落ついたように、数秒の沈黙が続き、
「早朝、少年の部屋に忍び込んで、彼の喉にナイフを通してくれないか」
「ふ~ん。殺すですか~、そんな惨酷な行いは~、ルカらしくないですよ~?」
「我らしいなんてことはどうでも良かろう」
「……何故……殺そうと思うんですの……」
空気が重くなった。
「あの少年の存在は、どうも我の脳裏に張り付いてしまうんだ。カルシーゴの言及も原因だろうが、もしかすると、今のうちに殺しておけばよかったと後から後悔することになるかもしれない。それが、怖いんだな……どうせ、我には関係のない命だ。失われた方が楽だろうな」
「……そうなん、ですか……」
空気が軽くなる。
「あなたが殺せと言うなら~、仕方のないことですね~」
「……一応聞くが、できるんだな? 最後お前に暗殺を頼んだのはだいぶ昔だが」
「できますよ~、私にだって~、関係のない命ですからね~」
「すまないな、汚い仕事を任せてしまって。我が階段の下を彷徨っているとどうしても訝し気な目を向けられる」
「大丈夫ですよ~、ルカが望むのなら~、私は何でも気にしませんのよ~?」
王の寝室は、今夜も眠りに落ちたのであった。
◇ ◇ ◇
彼女は、目が覚めても常に暗闇の中にいる。
朝だ。
この時間帯にいつも起きるのだが、とても早く、朝日もまだ出てきていない。
らしい。
「――――」
金髪の女性――ナリャーミャ・モイは、傍らで眠る国王を起こさないよう慎重に布団を外し、ベッドから降りる。
そこから、前に三歩と半歩進み、左側の腰の高さにある棚の一つに手を伸ばす。
棚の感触を確かめて開けると、中にあるメイド服を取り出して着替える。
着替えた後、もう一度同じ棚の更に奥の方に手を入れ、鞘付きのナイフを取り出した。
それを、メイド服のスカートで隠すように、太腿のソックスに収める。
これで準備はできた。
あとは、あの少年の部屋に潜り込んで暗殺するだけだ。
この時間帯なら、もう起きていることはないだろう。
王――夫の指示にただ従って、誰かの命を落とすだけだ。
「――――」
夫の顔は見えないが、寝息は聞こえる。
彼の寝息を聞いていると、何故だか彼と会った当初の頃を思い出してしまう。
それで増々、今の王を、昔のあの少年に戻したいという意思が募っていくのだ。
そしていつも、それで空気が重くなる。
瞑目のメイド――ナリャーミャ・モイは、音一つ立てずに王の寝床を出た。
閑散とした廊下。
身分の高い人々が数人住む『柱』の幅広い階段だ。
その階段を降りていくナリャーミャの心は静かで、頭を廻る思考は皆無に近い。
『柱』のメイドは、客人の部屋にはノックをせずに入れと教われている。
ナリャーミャは一つの扉の前に立つと、ノックをせずにそれを開いた。
「……二クロさま~?」
極小の声で、起きているかどうかを確かめる。
返事はない。
メイドは静かに扉を閉め、太腿のナイフに手を掛けた。
そこから、前に四歩と右に二歩――少年のベッドに近づく。
そして耳を傾けると……そこにある筈の鼓動が聞こえなかった。
ベッドの上に置かれた手は、すうっと、薄い布団の中に沈んだのだった。
◇ ◇ ◇
――彼は、『柱』にいなかった。
リセラと話した後、自分の部屋に戻ることもせずに、自分の部屋を通り過ぎて階段の更に下の方へと降りると、山の外へと繋がる通路があった。
そこから出ると既に山の外だが、更に下の方――『地面』へと続く階段を降りて行った。
『地面』とは文字の如く、『山の中』ではない地表面のことである。
民の食料を支持する畑もいわゆる『地面』である。
そして二クロは、階段を降りてモフトゴフ竜国の『地面』に降り立った。
暗く、薄い霧のかかった空には滲んだ月が見て取れた。
――『柱』を出て山を見上げようとするといつも後ろに倒れてしまう、という言葉がこの国では有名である。
その言葉も知らず、ただ好奇心で山を見上げた二クロが後ろに倒れることはなかったが……。
「左に続く道を進む、だな」
リセラの言葉を思い出しながら、巨大な尖塔に囲まれた『地面』の道を歩いていくと、やがて彼は目標としていた場所に辿り着いた。
「――――」
周りを淡く照らす篝火が点在する広い場所。
大き目なテントも、無数に、不規則に点在している。
真夜中だけあって、静かだ。
篝火の炎の音だけが耳に入ってくる。
「ここから……どこにいけばいいんだ」
ここに辿り着いた先のことは、リセラには聞かされていない。
二クロはとりあえず、辺りを歩き回ることにした。
無数に点在するテントには、どれも表面に、翼が一つだけ生えた剣のような印が描かれていた。
二クロは、一つのテントの中を覗き見ることにした。
入り口の布をひょこっと退け、中を覗いてみると、赤色の布の上に眠る男が三人見受けられた。
上に眠る布にしては薄くて、とても気持ち良さそうには見えなかった。
「――ここで何をしている」
二クロが眠る男三人以外のものも見てみようと目線を巡らせた時、死角からそんな重たい声が耳に入った。
二クロは慌ててテントの入り口から手を外し、声の方を振り向いて見上げた。
厳かな目線で二クロを見下ろす男だった。
「……あの……」
「――――」
男は黙ったまま、二クロを観察するような目で見回す。
そんな男に、二クロは用を口にする。
「一翼団の一員に、なりたいんだが……」
リセラは、助けたいなら竜のラオを救ってほしいと言っていた。
だから二クロは、今もラオがいると言うダンジョンに潜ることを試みて、ここへやってきたのだ。
一翼団――ダンジョンを制するこの組織に。