1 プロローグ
はじまりはじまり。
スピーカーから今日も「日常」が垂れていく。
『おはようございます。朝です。上級国民の皆さん、今日も心にゆとりを持って穏やかな一日を過ごしましょう。下級国民の皆さん、今日も朝6時から深夜0時まで、上級国民様の為に労働に勤しみましょう。感謝の心を忘れずに。貴方達が生きていられるのは上級国民【エコー】の皆様の加護によるものです。下級国民【チレ】は常にその事実を心に刻み込み、誠心誠意働いて働いて働いて下さい。午前の定期放送を終了します』
「……あれぶっ壊していい?」
「やめとけ、ケイオス。3分後には元のぼろスピーカーだぞ」
「けっ」
ケイオス、と呼ばれた男は20代前半と言った感じの、背の高い男だった。排煙機構から漏れ出た煙によって燻されたかのような、かつては白かったシャツに、所々破けている黒色のレザー製のズボン。腰にはズボンとセットであっただろう黒革の長袖の上着が、ぐるりと巻き付くように袖で縛り付けられている。
両手に嵌められているグリップも、衣服と同様に古めかしい。そのグリップが触る先は何やら沢山のツマミやスイッチが羅列された機械である。
ケイオスと呼ばれた青少年ともう一人、鼻下から顎にかけて蓄えた、立派な白髭を生やす老人がその機械を目にも留まらぬ速さで操作している。二人とも、口も動かすがそれ以上の速さで仕事をこなしていた。今日の依頼は、この機械を直すこと。その手に迷いや狂いはない。信に置ける手捌きだ。
「ていうかおかしくね?不可侵条約結んだはずだよな?なのに何で街中にあいつらの放送が響きわたって、あいつらお手製のスピーカーが置かれてんの?バリバリ破ってんの向こうじゃねーか。なに?此方からの接触は駄目で、向こうからは無条件で許せって?何そのダブスタ、今時はやんねーっつうの!」
がんっ!
ケイオスが目の前の機械───ではなく、隣に置かれた工具箱に八つ当たりする。隣の老人は「こらこら」と口調だけで諫めて来るが、ケイオスを視界に入れることはない。目の前の仕事に集中しているのはどちらも一緒だ。その動作は、彼らがこの仕事をやり慣れていることを示唆している。
【何でも屋】で看板を抱えているケイオスと老人はこの地下区画【アンダーグラウンド】、通称「地の矛」では適度に名を知られてる稼業だ。頼まれれば何でもやる、よって何でも屋。行方不明になった猫の捕獲から、要人護衛まで、何でも。「出来ません」は彼らの辞書には存在しない単語なのだ。
───まあ、実際のところは今日のような、下働きが仕事の9割を占めるのだが、これは余談である。ちなみに今日は工場の排煙機構の調子がおかしいから見てくれ、的な内容の依頼だった。どうせ老朽化が原因だろうとあたりをつけたケイオスと老人の予見は当たっていた。割と簡単だが時間がかかるこの依頼は、しかし老人と依頼主が旧知の仲であるからこその友人価格で引き受けている。
「ムゲさん、いっつも思うけど依頼料安すぎない?労働力に対しての対価がさ。これだって一時間じゃ終わらないぜ?」
「ケイオス。「対しての対価」は意味が重複してるぞ?まあ、無碍にはできんしな。無料って訳でもないからいいだろう?」
「あーはいはい」
ムゲさん、というのは老人の本当の名前ではない。老人の口癖が「無碍にはできない」から、「ムゲ」。どんな依頼も引き受けてしまうことから、ケイオス含め、この辺りの住民に呼ばれている愛称だ。先程のように、言葉に厳しい(しかしケイオスは口調のことについては注意を受けたことがない。こだわりがあるようだ)面があるが、優しい老人。ムゲはこの辺りだけでも周りから頼りにされ、信用されている数少ない人物だ。ケイオスも言葉はぶっきらぼうだが、この老人のやることに異を唱えたことなど一度たりとてない。
唐突だが今の時間は午前9時だ。朝日が昇って久しい。この時間帯にわざわざ放送の声は「朝6時から」などと直接的な時間を告げていることにケイオスは怒りと共にげんなりしていた。多分、上級国民の起床時間に合わせているのだろう。
おそようさん、と口に呟いてみたところで何が変わる訳でもない。以前、怒りのままに放送が流れるスピーカーを破壊してみたが、先の老人の言う通り、3分後にはあっという間に元の少し煤けたスピーカーがそこに存在していた。エコーの「能力」で設置されたそれに、カメラ機能がないことは承知で中指を立てたことは記憶に新しい。
上級国民の誰が設置しているのかは知らないが(知る気もないが)そういう能力を保有するエコーがいらっしゃるのだろう。地上区画【オーバーグラウンド】、通称「天の盾」には実に様々な能力者がいる。少なくとも、あのスピーカーを顕現させている能力者の【クールタイム】は最長3分。毎日午前と午後の二回しか放送してないスピーカーに、贅沢な休憩時間を設けているものである。どうせならクールタイム22時間とかで、毎日1回の放送に切り替えてはくれないものだろうか、とケイオスは心の中で毒吐いた。
「ケイオス。顔に出てるぞ」
「あー?いいじゃん別に。手は止めてねえぞ。さっきの癇に障る放送で胃がムカムカしてんだよ」
「気持ちは解るがな。なにせ、此処100年ずっと「こう」なんだ。いい加減慣れなさい」
「………澄ました顔した奴らに何が解るってんだ」
100年。
そう、100年だ。
上級国民【エコー】と下級国民【チレ】、お互いに「関わり合いにならない」という条約が結ばれて100年余り。お互いに衝突し、戦争を繰り広げ、世界を全部巻き込んで繰り広げられた【埃の戦い】はついに勝敗を決することなく妥協案で終戦した。
エコーはチレに関わらず、チレはエコーを殺さない、これが、たったひとりの少女の死を以って締結された、額面上の「仲直りをしましょう」のはずだった。
しかし、元からあった上級国民と下級国民の差別の溝は埋まらず、日々小さな諍いや争いが両者間で生まれている、砂埃と機械と血の匂いが蔓延しているこの世界はひとつの【扉】だけで隔たれている。扉の内側と外側では、恐ろしいくらいの身分の差が排出されていた。
固有の能力を持つ者、エコー。
固有の能力を持たざる者、チレ。
これは、彼らの日常と、これから起きる非日常を記した物語である。
初めまして。不定期更新です。
タグとかジャンルが良く解らないので「こういう要素はあるよな?」って感じでつけました。違うよって場合は教えて下さいな。