前編
「静かに。姫様は皆のことを見ていますよ」
フィーの言葉に、騒がしかった子どもたちははっとして息を詰めた。敬虔なこと、と片唇を持ち上げる。こんな子供騙し、フィーが信じていたのはいつまでだっただろうか。にこやかに子ども達の相手を始めた彼女を、1人の青年が面白そうに眺めていた。
「フィー、本当に勉強を教えてるんだな」
「疑ってたの? 失礼ね。……それより、何か思い出した?」
フィーの言葉に、青年――カイはごめん、と頬をかいた。よりによってこの男、ここ数ヶ月の記憶を失ったのである。それも、ちょうどフィーと交際を始めてからの記憶を。
(これも全部、姫様のせいだ)
フィーは、八つ当たりのようにそう思って、慌てて首を振った。不幸が襲った時、超次元的な存在からの試練だとする考え方は、この国で珍しくない。しかし、『姫様』にとっては、たまったものじゃないだろう。とはいえ、あの一世一代の告白が、無かったことになってしまったのだ。勇気を出して手を繋いだことも、初めての口づけも、全て。もちろん最初は心配した。しかし、たった数ヶ月の記憶を無くしただけでは、カイの生活に影響ないようだ。
(憎らしいくらい、何も変わらないんだから)
カイに、自分とは恋人同士なのだと伝えられていない。幼馴染として育ってきた彼に、改めてそう伝えるのは気恥ずかしさもあったが、それだけではない。きっと数ヶ月前のカイは、フィーのことなんて妹分としか思っていなかったはずで。記憶を無くした彼と、恋人としての彼の態度が変わらないということは。
(薄々思ってはいたけど、きっと同情で付き合ってくれていたのね)
フィーは、唇を噛み締めた。そして、覚悟を決めて拳を握る。
(夢みたいな時間だった。彼が忘れてしまっても、私にこの記憶があれば生きていける)
思い返しても、ひどい告白だった。ほとんど泣き落としだ。カイが断れないくらいに駄々を捏ねたのは自分だ。いい機会だ。恋人ごっこは、終わりにしよう。
「それにしても、なんで俺の世話係がフィーなんだ? 同性からも慕われてるつもりだったのに、薄情な奴らめ。フィーも面倒だろ?」
それは、皆私があなたの恋人だって知ってるからよ。心の中だけで返事をして、フィーは微笑んだ。
「そんなことないわ。あなたは私の大切な……、友人だもの」
その言葉に、彼は一瞬怪訝そうな顔をした。しかし、今はそれを気遣う余裕がない。フィーはカイを彼の友人達に一時預け、自室に戻った。そのまま、ずるずると座り込む。本来なら、休んでいる暇はない。気付かれないうちに、彼がこの部屋に持ち込んだものを片付けなくては。
「立たなくちゃ。姫様が見てる」
おまじないのように、フィーは小声で囁いた。
フィーが暮らしている地には、妖精の始まりの場所という異名がある。妖精と人が交わって生まれてきたのが、初代国王と伝えられている。この地が、始まりの妖精の棲家だったのだ。だからこの地には、定期的に王族が訪れる。それ故、辺境のわりに賑わっているのだ。妖精の血は、長い時を経て隅々まで行き渡った。そして稀に、妖精の力を強く受け継いだ子が生まれる。
(姫様が見てる。居なくなってしまった姫様が)
16年前、ちょうどフィーが生まれた年。災害続きだったこの国に、明るい知らせが飛び込んだ。現国王のもとに、第一王女が誕生したのだ。次期女王となるはずだった姫が2歳を迎えたとき、胸元に光り輝く痣が現れた。その数日後、彼女は忽然と姿を消した。災害の全てを連れ去るようにして。姫様が、自らと引き換えに国を守ってくださった。そう言われ始めるのはすぐだった。それからというもの、雨が降れば、姫様が泣いている。嵐が来れば、姫様が怒っている。幸福も、不幸も、我々に姫様が与えるもの。姫様が見てる。それを合言葉に、病も大災害も無くなったこの国で、皆が必死に生きていた。
フィーは、そう敬虔な方ではない。しかし、最近になって彼女を思うことが増えた。消えた姫様は、どこに行ったのだろう。もしかしたら、妖精の始まりの地であるこの場所に帰ってきているかもしれない。帰ってきて、もし再びこの国が災害に襲われるようになった時には。……願わくは、自分と代わってはくれないか。
「……駄目よ! 駄目。2歳の女の子に、私は何をさせようとしているの」
フィーは、そっと襟を摘んだ。数週間前から、胸元にちりちりと違和感があった。やがてその違和感が形を持ち始めたときの震えを、今でも鮮明に思い出せる。フィーの視線の先では、妖精の証とされる小さな痣が、きらきらと光を帯びていた。
フィーが翌日の授業の準備を始めた頃、カイがひょっこりと顔を出した。机に広がる教材を見て、目を丸くしている。
「驚いた。結構本格的なんだな」
「学があれば、孤児でも生きていけるから」
フィーが、もし妖精だったとして。自分が姫様のように、己の身を捧げてまでこの国を守れるかと聞かれたらすぐには頷けない。だからフィーは、違う形で国を守ることはできないかと考えたのだ。その手段の一つが、勉強を教えること。飢饉も病も、妖精の力に頼らなくったって、人々の力で防ぐ方法があるはずだ。姫様が居なくなる前は、孤児は珍しい存在ではなかったという。フィーもその1人で、この孤児院で育った。15までは保護される側として、16になった今は子ども達を導く側としてここに置いてもらっている。幸いなことに、ここは人に勉強を教えられる環境が整っている。
「学があればねえ。その口調、母さんそっくりだ」
「あら、院長様に光栄だと伝えてね」
フィーの言葉に、カイは肩を竦めた。彼の母でもある院長は、なぜこんな田舎に、と思うほど豊かな教養を身につけた人だ。教育にも熱心で、国から福祉施設に割かれる寄付金を真っ直ぐ子ども達に注ぎ込んでいる。
「なあ」
「何?」
「なんで、嘘ついたんだ」
「嘘?」
思いがけない言葉に、フィーは手を止めた。
「ごめんなさい。心当たりがないわ」
「俺のこと、大切な『友人』って言った」
どきりとして、フィーは固まった。なぜそれを知っているのか。彼の友人達には口止めを頼んだのに。動けずにいるフィーから、彼は気まずそうに目を逸らした。
「俺はこの数ヶ月の間に、おまえに嫌われるようなことをしたのか?」
「……え?」
「小さい頃から一緒にいるんだ。フィーが嘘をつくときの癖は分かる。俺を、友人とは思えなくなるくらいに酷いことを、おまえにしたのか?」
真剣な眼差しに、フィーは唇を震わせた。彼の友人達は、きちんと約束を守ってくれたのだ。彼は、フィーの嘘には気づいた。けれど、意味を取り違ったのだろう。
「いいえ。酷いことをしたのは私の方」
「……何を?」
「言いたくない」
フィーの頑なな態度に、彼は片眉を上げた。言葉を探すように、目線を彷徨わせている。
「それじゃ、俺がおまえの嫌がることをしたわけじゃないんだな?」
「カイは私が嫌がることなんて、一度もしなかったわ」
「わかったよ。ならお前の言う酷いことを俺は全部許す、って言うのも変だけどさ。仲直りしてくれよ。ずっと、変に距離を置かれてるのは辛い」
「距離を、置いてたかしら」
「何か、諦めたような目で俺を見てた」
そんなことない、と言おうとして、フィーは口籠った。ここで上辺だけの否定をしても、それが嘘だとバレたら彼との溝は深まるばかりだ。だから代わりに、フィーは笑ってみせた。
「じゃあ、カイ。お友達に戻ろう。……今までごめんね」
差し出した手に、彼はぱっと笑って触れた。その様子を見てほっとする。フィーとて、万が一、この身を捧げないとならなくなったときのことを、考えていないわけではない。数週間前フィーに痣が出現したことを知った彼は取り乱した。必死に妖精について調べてくれて、何か手がかりを見つけたと深い森に飛び込んで行って、帰ってきたときには記憶を失っていたのだ。これ以上、彼を巻き込むことはできない。そして今度こそ、自分の言葉に嘘は含まれていないらしい。これでやっと、彼を解放できる。
あれからカイは、周囲の助けを借りながら、記憶を取り戻すことに専念し始めたようだ。過去の記憶から順に並べて、書き出していく。記憶を取り戻そうとしている彼には申し訳ないけれど、生活に差し障りがないのならこのままでもいいんじゃないかと思わずにはいられない。仮に記憶が戻ったら、また友人と言ったことを問い詰められるだろうし。そうしたら、みっともなくていいから、無理に付き合ってもらったことを謝って。痣のことも、自力でなんとかするからと笑って。それから今度こそ、ちゃんとお別れをして。フィーがぐるぐると考え込んでいる間にも、彼は順調に記憶を辿っていった。
「『姫様が見てる』ってさ、俺が4歳くらいの頃までは『妖精が見てる』だったんだ」
「そうなの?」
「ああ。皿が割れたり、洗濯物を落とした時には、妖精の悪戯に違いないって」
「とばっちりだわ」
「今よりマシだろ? 皆が言う、姫様のせいだ! ってよりも」
「きっとどっちも、本人が聞いたら怒るわね」
そう言って、フィーは小さく笑った。フィーは完全に『姫様が見てる』と嗜められて育った世代だ。その言葉は、高潔な姫の話を元にした寝物語と共に伝えられる。きっと、これからの子どもたちにとっても、印象深く残るだろう。そう思いを馳せていると、カイはふと真顔になった。
「まるで、人間みたいに言うんだな」
「え?」
「いや、姫様のことも妖精のことも、みんな超次元的に扱うだろう? 怒ってるから雷を鳴らす、とかじゃなくて。なんだかフィーが、人みたいに彼女達の感情を思い浮かべてるのが新鮮で」
「不敬だったかしら」
「いや、フィーならいいんじゃないかな」
「何よそれ」
ふと、カイの手が止まった。覗き込むと、彼が10歳になったところだ。
「そういえば俺、初恋は姫様だったんだ」
「……ふうん?」
思わずむっとして、フィーは拳を握った。彼が誰を好きでも、もう何も言えないけれど、と思いつつ力が籠る。
「あれ? カイは姫様と2つ違いでしょう?」
「ああ」
「なのに10歳の頃に、姫様に恋をしたの?」
だって、その頃には彼女はもう。フィーが言い淀むと、カイは小さく笑った。
「そうだな。忘れてくれ」
「う、うん」
「……フィーは、成人まであと2年か」
「そうだけど、急に何?」
「いや。成人しても、俺のこと覚えててほしいなって。心の隅の、どこかでいいから」
「何言ってるのよ。幼馴染を忘れるわけないじゃない」
「ごめん。変なこと言った」
「全くだわ」
「ちょっと疲れたみたいだ。今日は休むよ」
姫様の話をしてから、カイは少し様子がおかしい。叶わなかった初恋に、思いを馳せでもしているのだろうか。
「何なのよ。もう」
カイが去った部屋で、フィーは小さな嫉妬心に唇を噛んだ。
1人の部屋で、カイはぼんやりと記憶を辿った。妖精は、この国を守護している。だから始まりの妖精のように、何かの手違いで人の子として生まれてきたときには、我らの手で還して差し上げる。そうして国は安寧を保つ。そんな噂が、今まで国に危機が訪れた時には幾度となく広まったらしい。姫様に妖精の印があらわれたとき、国は災害に苦しんでいた。そんな噂が民の心を動かすのも時間の問題。そんなときだったそうだ。カイの母が姫を逃すように頼まれたのは。
『ソフィア。君が大人になるまでに、人の手で必ず事態を収めてみせる。だからその時まで、どうか穏やかに』
そう言って国王夫妻は、ソフィア姫の――フィーの額に接吻を落とした。母から繰り返し聞かされたせいで、まるでこの目で見たかのようにその光景が思い浮かぶ。
『いいこと? カイ。今後妖精の痣をもって生まれた子が命を奪われぬように、陛下方は奇跡などでなく、政治で国を守らなければいけないの。今は、みんな姫様が国を守ったと思ってる。でも実態は、絶え間ない人々の努力の成果。彼女が成人した頃に、痣の封印は解かれるはず。それまではくれぐれも、彼女に妖精の記憶を取り戻させないように』
今カイが住んでいるこの地には、妖精を封じる花が咲く。噂によって命を狙われながら、それでも実際に死んだ妖精が少ないのは、この花のおかげだ。花を一本使うと、完全に妖精の力を失う。その代償として妖精の記憶も失うが、命を失うよりはと何人もの妖精が花を求めてやってきたのだ。フィーにも、この花が使われた。姫としての記憶をなくし、安全な少女時代を過ごすために。とはいえ、彼女に与えられた花はごく少量。ちょうど成人に合わせて封印が解けるように用意されたのだ。なぜ完全に封じてしまわなかったのかと、カイは昔母に聞いたことがある。
『狙われるくらいなら、完全に封じたほうがいいんじゃないの?』
『そうね。生まれてきた妖精への根も葉もない噂についても、いざとなれば花があるから問題ないと言う人もいるけれど。勝手な悪意を向けられて、記憶を手放さざるを得ないということが、本来ならあっていいはずないの。だから、噂を根本から正すためには。妖精の証を持った姫様が身を捧げずとも、この国はやっていける。彼女は生きて、そのことを証明しなければいけない。それが、姫様の役割なのよ。私達は、この国の将来のためにも、姫様のためにも、彼女をお守りするの』
カイは、母からそう言い聞かせられて育った。言われずとも、守ってみせるつもりだった。フィーは覚えていないだろうけど、両親と弟と引き離されて、彼女は大泣きした。そんな小さな彼女を、どうにか泣き止ませてあげたくて。手を伸ばした時に、カイは覚悟を決めたのだ。
「それで満足してたらよかったのに。不相応な望みを持ったから、天罰が下ったのかもな」
与えられた部屋で、カイは自分に言い聞かせるようにして呟いた。