ごめんな
魔王と約束を交わした日から、ちょうど一週間。
俺とアルトは草原に並んで立ち、その様子を後ろでトリデウスが見ている。
目の前にはトリデウスの遺跡に通じている転移の魔法陣が展開されており、これからここを通って魔王のもとへ赴くのだ。
この一週間で、出来る限りの準備はした。俺も多少は戦えるようにと、トリデウスにいろいろ用意してもらった武装もある。
それにアルトと俺の指には、催眠術を無効化する特殊な指輪がはめられている。元魔王軍幹部のお墨付きなので、これで魔王の催眠にかかる心配はない。
やれることはやった。
あとはアイツと戦うだけだ。
「……勇者、それにソルドット」
後ろにいるトリデウスが声をかけてきた。振り返れば、そこには不安げな表情の彼が。
俺は一瞬だけ隣のアルトと目を合わせ、トリデウスの傍へ近寄った。
目の前にいる幼い姿をした老人は、なおも不安感が拭い去れない表情のまま告げる。
「正直、勝算は五分五分……今の精神状態の勇者が扱う聖剣なら、確かに希望はある。でも、やはり相手は魔王。きっと無事では済まないのだ」
気を落としているように喋る彼の肩に、俺は手を置いた。
そしてトリデウスが顔を上げた瞬間、彼を優しく抱擁する。
そのまま友人の耳元で、俺は口を開けた。
「それでもお前は味方になってくれた。ありがとな、トリデウス」
「……礼はいらないのだ、友達なのだから」
そっと抱き返してくるトリデウスの背中を、優しくポンポンと叩いた。これで最後になるかもしれないので、彼を安心させてから行きたかった。
「気にしすぎなのだ、ソルドット。吾輩はとうに覚悟はできている、だから心置きなく行ってくればいい」
「……わかった。じゃあ、もう行くよ」
トリデウスから離れ、再び魔法陣の近くへと行く。
彼は俺たちとは一緒に来ない。あくまで俺が願ったのは手助けで、これ以上彼を巻き込む訳にはいかないからだ。
魔王軍から抜け、平穏な生活を送っている彼をこれ以上邪魔してはいけない。
もしまたこの隠れ家に来ることがあれば、それは俺たちが魔王を倒して無事に世界を修復した時だ。
覚悟の炎を心に宿し、アルトと頷き合う。
「行こう、ラル」
「ああ」
どうやらアルトはとっくに準備万端だったようだ。
その事に安堵し、俺たち二人はトリデウスに見送られながら魔法陣の中へと足を運んで行った。
★ ★ ★ ★ ★
かつて俺が命を落とした、遺跡の最奥に位置する大広間。
そこで繰り広げられているアルトと魔王の戦闘は、拮抗の一言だった。
魔王はアルトと同じような大剣を携え、接近戦で彼と戦っている。
剣の腕ではアルトに分があるように見えるのだが、魔王が不可思議な動き方で戦うせいか、未だ決定打を与えられずにいた。
俺はと言えば、魔王が空間内にいくつも展開した魔法陣から召喚される魔物たちと戦っている。
どいつもこいつも雑魚モンスターなのだが、些か数が多い。俺がコイツらを食い止めないと、魔物は一直線にアルトへ向かっていく。
彼ならばこんな魔物たちなど造作もないが、問題はそこではない。
いま魔王と真正面から戦っている彼が他の魔物に襲われてしまったら、アルトに明確な『隙』が生まれてしまう。
常に脳をフル回転させながらの状態で、やっと魔王と互角なのだ。そこに横槍を入れられて隙を見せてしまえば、それはすなわち死を意味する。
つまり今の俺の仕事は、なにがなんでも二人の戦いを邪魔させない事だ。
……なのだが。
「くっそ、数が多すぎる……!」
悪態をつきながら短剣を振るい、目の前のゴブリンを殺す。そしてすぐさま浮遊し、二人の戦いに割り込もうとする蝙蝠を捕まえて短剣で刺殺した。
なおも溢れてくる魔物たちに辟易しつつ、休む暇などないと大広間中を駆け巡る。
展開されている魔法陣は三つ。天井に一つ、入り口付近に二つだ。
地上に出現するゴブリンやオークを倒しつつ、空中に現れる飛翔生物にも対応しなければならないので、これじゃ体が幾つあっても足りない。
なんとか意地で持たせているが、このままじゃジリ貧だ。どう考えても此方の数が少なすぎる。
早めにアルトが魔王を追い詰めてくれれば、多少は希望が見えてくるのだが。
ゴブリンの首にまとわりついて短剣を首に刺し、懐から取り出した小型爆弾を空中に投げて飛翔生命体を一気に焼き尽くす。
そして少し魔物の侵攻が落ち着いた隙に、俺はチラリと二人の方を向いた。
そこではアルトが魔王を蹴飛ばし、彼女を壁に追い詰めていた。
ここぞとばかりに、アルトは剣を構えて彼女に向かって突進する。
「これでっ!」
「ひどいなぁ、女の子を蹴るなんて……!」
不敵に笑った魔王は臭いセリフを放つと、右手からエネルギー弾のようなものを発射した。
突進していたアルトはそれを避けることが出来ず、聖剣でそのエネルギー弾を弾き飛ばした。
──しかしその行動は、アルトに隙を与えてしまう。
「ほうらっ!」
「ぐっ!」
一瞬の虚を衝き、魔王は飛び膝蹴りをアルトの顎に浴びせた。
まともな攻撃をくらってしまったアルトは、蹴りの勢いに抗うことが出来ず後方に数歩後ずさってしまう。
その瞬間、怯んだアルトの右肩に向かって魔王が剣を振りかぶった。
何とかそれに気がついたアルトは防御魔法を右に展開し、魔王の剣をそれで受け止める。
しかし彼女の狙いはそこでは無かったのか、そのまま空いた手でアルトの右手を殴りつけた。
「なにっ!」
ガキンッ、と金属同士がぶつかり合ったような音が鳴り響いた。
すると、アルトの右手から何かが地面に向かって落ちていく。
あれはトリデウスに貰ったアンチ催眠の指輪だ。
アレを壊されてしまった今、アルトは魔王の催眠魔法に対して、あまりにも無防備。
それを理解した瞬間、俺はその場から超スピードで飛び出した。
「指輪が──」
「隙ありだよ」
勢いのある剣の攻撃で怯んでしまったアルトに向けて、右手を突きだす魔王。
そして魔王の右手に魔法陣が展開された瞬間───
「アルトっ!」
間一髪で間に合った俺がアルトに憑依し、思い切り地面を踏み込んで後方へ跳ぶことで彼女の催眠を回避した。
「あれま、ゴーストって飛行速度けっこう速いんだね」
残念ざんねん、などと呟いた魔王は、右手で展開した魔法陣を消した。
その様子を見た後、俺はすぐさま憑依を解除する。
アルトは汗をかきながら、隣にいる俺の方を向いた。
「ごめんラル、助かった」
「いいからこれ付けろ!」
俺は自分の指からアンチ催眠の指輪を外し、アルトに投げ渡した。離れて魔物と戦闘している俺はともかく、間近で魔王と戦闘している彼にとってこの指輪は生命線でもある。これが無い状態での戦闘などしてはいけない。
アルトが俺の指輪をはめたことを確認し、すぐさま俺は浮遊して天井の魔法陣へと向かっていった。
彼の助けに入った時間分、魔物がまた増えている。カバーできない事態になる前に片付けなければ。
──そう思いながら懐から爆弾を取り出した俺の脳内に、ふとトリデウスの言葉がよぎった。
一日に絶対三度以上の憑依をしてはいけない。
基本は一回のみで、どうしても緊急的に行わなければならない場合であろうと、許容範囲は最高で二回。
もし三度目の憑依をした場合、幽体として活動が出来るか分からなくなってしまう。
彼に念を押された部分を思い出し、焦りが生まれてしまった。
そう、先程使ってしまったのだ。一度目の憑依を。
本来ならこの戦いでは使いたくなかったのだが、やはり使用せざるを得なかった。
つまり俺は、後一度しか憑依できない。
その残りの一回ですら、体に大きな負担を与えるのだ。もう気軽にこの技を使うわけにはいかない。
……さっきアルトを助けたあの場面、よく考えれば彼を突き飛ばすだけでも良かった。
アルトのいた位置に俺が来ることになるが、指輪を付けていたから洗脳される心配もなかった筈。
「ほんっとに駄目だな、俺……」
溜め息を吐きながら、空中に爆弾を放り投げた。そして爆発と同時に、地上の魔物へと向かって飛んでいく。
なんというか、盗賊として極力戦闘を避けて生きてきたツケが回ってきたように思える。
そのせいで戦闘中の緊急的な判断に疎い、ということが分かった。これでは足を引っ張る一方だ。
「よーし、そろそろ本気出しちゃうね」
魔王が小さくそう呟いた瞬間、俺の目の前にいたオークが瞬間的に姿を消した。
「っ!?」
攻撃対象を失った腕は、短剣を持ったまま宙を切る。オークに突進する勢いだったので、目の前に誰も居なくなった俺はそのまま勢い余って転んでしまった。
「いてて……」
地面に強打した肘をさすりつつ、ゆっくりと立ち上がる。
魔王が喋った瞬間、唐突に魔物が消え去った。その因果関係が理解できず、俺は首を振って周囲を見渡す。
気がつけば、入り口近くにあった二つの魔法陣も、天井にあった召喚用の陣も、広場に大勢闊歩していた筈の雑魚モンスターたちも───その全てが姿を消していた。
「何が起きてんだ……?」
訳が分からず、呟きながら視線を魔王の方へと向けた。
広場の中央、そこにいる魔王は左手を真横に突き出しながら笑みを浮かべていた。
魔王の行動から来る嫌な予感はアルトも感じているようで、彼は既に防御用の魔法陣を前に展開している。
その様子を見ていると、アルトが俺に声をかけた。
「ラルもこっちに!」
「あっ、あぁ……」
小さな返事をしつつ、すぐに近寄ってアルトの背中に隠れた。魔法陣のシールドも展開してあるし、警戒態勢はこれでとりあえず大丈夫なはず。
二人して身構えながら魔王を警戒していると、彼女は俺たちを鼻で笑った。
「プフっ。別に範囲攻撃とかじゃないよ、これ」
「なに?」
アルトが怪訝な表情に変わった途端、魔王は真横に伸ばしている左手の先に魔法陣を展開した。
その大きさは、成人男性一人分。色からしてアレは召喚魔法だ。
「私の一番お気に入りの子を召喚するんだ。でも、この子燃費が悪くって。他の召喚陣を三つも展開してたら魔力が足りなくなっちゃうの」
そう告げる彼女の左手の先の魔法陣から、ゆっくりと何かが這い出てくる。
出てきた人型の生命体はその両足で立ち上がり、大きな眼で俺たちを凝視した。
武装をした、身長約3メートルの巨大オーク。その大きな影が俺たちにかかると同時に、その姿に既視感を覚えた。
アレは水上都市ゼムスで勇者パーティとゼムスの人々が総出で戦って、ようやく倒すことができた史上最大の敵。
……あの『タイタン将軍』と目の前の巨大オークが、瓜二つなのだ。
現れたオークの姿に目を奪われていると、魔王が突き出していた左手を下げた。
そして召喚したオークの体を少し撫でながら、此方へ首を向ける。
「ふふ、懐かしいでしょ。たった一週間前だけどね」
「……タイタンは僕たちで倒したはずだ」
「もちろんあの子じゃないよ? 隣にいるコレはただの模造品。戦闘能力で言えば私より強かった本物と比べると……まぁ、少し劣るね」
そう彼女が小さく呟いた瞬間───巨大オークが棍棒を手に持ってこちらに飛びかかってきた。
『グモォォッ!』
オークの棍棒はアルトが展開していた魔法陣を容易く打ち砕き、地面に激突する。
その場で踏みとどまったアルトとは反対に、その影響で生じた余波で俺は容易く後方へ吹き飛ばされてしまった。
「おわっ!?」
勢いよく壁に叩きつけられ、口から体内の空気が全て漏れ出るような感覚に襲われる。
「かっ、は……!」
目で追えない速度での、突貫。
あまりにも素早い不意打ちで、俺とアルトが切り離されてしまった。
「はい、二対一だね。勇者君が一人じゃ敵わなかった強敵のコピーと、私。まぁもしかしたらこの子単体なら負けちゃうかもしれないけど、そこに私が加われば負けないでしょ」
「くっ……!」
「よーし、いっくぞー!」
無邪気な声で叫んだ魔王がその場を駆け出し、棍棒と聖剣で鍔迫り合いをしているアルトとオークの間に割って入る。
魔王はそこから大剣をアルトの脇腹へ向かって突き出した。
「もーらい!」
「──まだだっ!」
アルトが叫んだ瞬間、聖剣の刃の部分が眩い光を発した。それと共に、魔王の剣がアルトの体に突き刺さる。
しかし、魔王は怪訝な表情に変わった。
「あれ、手応えがない」
「隙ありだ!」
固まってしまった魔王の横に、いつの間にかアルトがいた。
そのアルトが聖剣で魔王を斬りつけ──
『ブゴォォッ!』
その聖剣をオークが棍棒で防ぎ、そのまま魔王を抱えて後方に退避した。
よく見れば、魔王に刺されたはずのアルトが光の粒子となって消えている。……なんだあれ。
訳が分からず唖然としていると、魔王が手の甲で額の汗を拭いながらため息を吐いていることに気が付いた。
「ふう、冷や汗かいちゃった。まさかあの一瞬で粒子の残像を作り出すなんてね」
「簡単にやられはしない……!」
「……ま、見た感じその技、何度も使えるようなものじゃないし。今度は真正面から私たち二人の攻撃───受け止めてみて?」
すかさず魔王はその場を飛び出し、それと同時にオークも地面を揺らしながらアルトへ向かって駆け出した。
あっという間に彼との距離を詰めた二人は、大剣と棍棒による怒涛の攻撃を繰り出す。
「早い……!」
アルトは先ほどの粒子など出す暇もないのか、魔王の宣言通り二人の猛攻を正面から聖剣一つでいなすことになった。
しかし躱しきれない攻撃はアルトの二の腕や太ももなど、防ぎづらい箇所に届く。
今はまだ掠っているだけだが、それも少なからずダメージであることは間違いない。
「アハハッ、勇者君ったら本当に防いじゃってるし! すごいねぇ!」
「くっ、そ──!」
楽しそうに攻撃を繋げていく魔王とは対照的に、アルトの表情が険しくなっていく。
この状況はどう考えてもアルト側の不利だ。防ぐことで手一杯の彼とは違い、魔王は若干の余裕がある。
たとえアルトからのカウンター攻撃があったとしても、隣にいるオークが防ぐか庇うので自分の攻撃に集中できる……という余裕だ。
「はいそこ!」
アルトは重い攻撃の連続で若干怯んでしまい、その隙を狙って魔王が彼の胸を正面から蹴り飛ばした。
「ぐぁっ!?」
その一撃は先ほどまで振るっていた剣にも劣らない威力で、蹴られた衝撃によりアルトは後方吹き飛ばされ地面を転がる。
地面にうつ伏せなアルト。これは明確な隙だ。
「トドメいくよー!」
『ブブモゥ!』
そう叫んだ魔王と共に、オークまでもが倒れている彼のもとへ駆けていく。
アルトも聖剣をしっかりと握っているが、迎撃するには立ち上がらなければならない。
俺が今すぐこの場から超スピードであそこまで飛んで行ってアルトを突き飛ばせば、一応は助かるかもしれない。
しかし魔王は俺を視認できる。つまり彼女の剣は俺の体を切り裂くことができる、というわけだ。
……やっぱり、憑依するしかないか。あのオークの体を使って魔王の攻撃を防ぐことができれば、あるいは。
幸い、魔王が呼び出したオークは生物。つまり俺が憑依できないゴーレムのような無機物ではない。
見るからに知能といったものを持ち合わせているようには見えないし、となれば意志の力もそこまで強くはないはず。
タイタン将軍のように精神が強い人物の場合は憑依がはじかれてしまう可能性もあるのだが、あのオークはあくまで自我のない模造品。普通の人間に憑依するよりも簡単だ。
それに俺があのオークの体を自分のものにできれば、今度は逆にこちら側が数で優位に立てる。やらない理由などない。
「……っ!」
一瞬迷いが生じたが、なんとか噛み殺して俺はその場を飛び出した。
──北の町でファイアナイトと戦ったあの日、俺は四回も憑依を行った。
ファミィとアルト、魔物やリンちゃんの身体をあの日だけで全て行き来したことで、俺の幽霊としての寿命と能力は大幅に激減し、弱体化したのだとトリデウスは語った。
今の弱った俺の身体では、二回目の憑依すら出来るか怪しい。
……だけど。
「これしかない!」
「ラル!?」
突然魔王とオークの後ろに現れた俺に驚いているアルトを尻目に、そのままオークの体へと入っていった。
「わぁ、やっぱり来た」
辟易するように呟いた魔王がその場から離れた位置に跳んだことを確認し、そのままオークの意識乗っ取りに集中する。
水中に潜っているかのような感覚が、全身を包んでいく。それこそ呼吸ができなくて、苦しくなるような感覚すらも流れ込んでくる。
でも、ここで弾かれたら終わり。そう思った途端、体に力が入った。
憑依できるかを危惧していたが、これならいけそうだ。
俺の身体になりつつあるオークの傍にアルトが寄ってきた。そしてその様子を、離れた位置にいる魔王が眺めている。
「ラルちゃんって本当に憑依ばっかりだよね。一発屋って感じ」
困ったような笑みを浮かべながら肩をすくめる白髪の少女。
目は奴から離さないようにしつつ、しっかりと意識を保つ。
次第に四肢の感触が鮮明になってきた。試しに左手を握ってみれば、しっかりと握りこぶしができている。
どうやら憑依は無事にできたらしい。二回目の憑依もこれまで通りにできて、ひとまず安心だ。
「ラル、大丈夫?」
「あ、あぁ。とりあえず乗っ取りはできたみたいだ」
返事をしながら手足の感覚を確かめる。
もう思い通りに動かせるようだ。これなら俺も戦える。
体勢を立て直したアルトと、強靭な肉体を手に入れた俺。これで逆に二対一になったわけだ。
存分にこの身体を活かしきれるか、と言われてしまうと厳しいのだが、それでもあのままアルトの不利な状況が続くよりは断然マシなはず。
俺の乱暴な動かし方でも、有り余るこの体のパワーがあればそこそこ戦闘にはついて行ける。
アルトと魔王はタイマンでは互角。そこで俺が加われば攻撃の幅が広がるし、なにより数で有利。
文字通り、これで形勢逆転だ。
「アルト、ここから巻き返すぞ」
「うん……」
「───ぷふっ!」
俺たち二人を観察していた魔王が、唐突に吹きだした。
「な、なんだ……?」
急に彼女が笑い出したことに不安感を覚え、身構えるアルト。同様に、俺もこの巨体に力を入れた。
「くっふふ……! あっはは! あー、ちょっとやめて! ひひひ……っ! ほんとにお腹痛い!」
しかし、尚も魔王は笑い続ける。次第に小さかった笑い声は、涙が出るほどの抱腹絶倒に変わっていった。
その場で両膝をつき、腹に手を当てながら心底楽しそうに大笑いをする魔王。
今まで見たことが無いほどの彼女の奇行を目の当たりにして、悪寒が体中に走る。
なぜ、彼女はあんなに笑っているのか。一体何がおかしい?
「ねー、もうほんとにやめて! ひぃ、ひぃ……! こんなにっ、お、面白いことってあるかな!?」
今の魔王はまるで笑い上戸だ。訳も分からず一人で大笑いをしている。
しかしほんの少しだけ治まってきたのか、彼女は笑いをこらえながらゆっくりと立ち上がった。
その眼尻には涙が浮かんでいる。だが、あれはただの笑い泣き。
その様子が癪に障った俺は、魔王に向かって叫んだ。
「なに笑ってんだ……!」
俺の言葉を聞いた魔王は指で涙を拭いつつ、半笑いのまま返事をした。
「はは、いやーごめんごめん。流石にちょっと笑い過ぎたよ」
「そんな事を聞いてるんじゃ──」
「まぁまぁ、焦んないでよ」
宥める様に告げた魔王は、懐から小さな紫色の魔石を取り出した。
それを手のひらで転がしながら、彼女は言葉を繋ぐ。
「だってさ、こんなにも思い通りに事が運んだら……誰でも笑っちゃうでしょ」
「……は?」
「ラルちゃんって本当に単純だね」
怪しい笑みを浮かべる魔王はそう告げながら、掌の上にあった魔石を握りつぶした。
───その瞬間、俺の体が音を立てて爆発した。
体が分散するのではなく、それこそ爆弾と同等の火力を伴う『爆発』を。
「なっ──」
周囲を焦がすような熱気と音速の爆風が、アルトを襲う。
「おわっ!?」
それに伴い、憑依先の体を失った俺は強制的に弾き出され、爆風で後ろへ吹き飛ばされてしまう。
その勢いで頭から壁に激突し、力なく地面に倒れ伏した。
「やった、大成功ー!」
爆発に巻き込まれてその場に倒れた勇者を見ながら無邪気に喜ぶ魔王。
体が無くなって離脱した後に爆風で吹き飛ばされた俺とは違い、アルトは真正面から爆発を受けてしまった。
そのダメージは尋常ではなく、かろうじて意識は保っているものの、手足を痙攣させて立ち上がれずにいる。
「アルト……!」
痛む肩を押さえながら立ち上がる俺の顔を、魔王が嘲笑する様な瞳で見つめた。
「───ねぇラルちゃん、これで『二回目』も使っちゃったね」
「っ……!?」
魔王に指摘された瞬間、心臓が飛び跳ねた。
──なぜ、それを。
俺とトリデウスしか知り得ない事実を魔王が語ったことで狼狽してしまう。
息が荒くなり、手足が震え始めた。
俺のその様子を観察しながら、魔王は言葉を続ける。
「これでも魔物の王だし、ゴーストの状態なんて見れば分かるよ」
「……ま、まさか」
「うん、そう。ラルちゃんに二回目の憑依を使わせて、それから体を壊して戦えなくするためにコピーを作ったの。……ま、勇者くんを巻き込めたのは僥倖だったけど」
セリフの途中で視線をアルトの方へ向け、両手で大剣を構える魔王。
「じゃあ、今度こそトドメ!」
叫びながらその場を跳び、地面に伏しているアルトめがけて大剣を振り下ろした。
──しかし。
「……っ゛!」
声にならない呻き声を上げながら、アルトが聖剣を握り直した。
その瞬間、聖剣の刃が眩く光る。
ダンっ、と魔王の大剣が床に叩き込まれた。
しかし地面にめり込んだ刃の部分にアルトの姿はない。
それを理解した瞬間、魔王はすぐさま後ろを振り向いた。
「──わっ!」
それと同時に、彼女に光り輝く聖剣が襲いかかってきた。なんとか大剣の刃で防いだものの、そこから更にアルトの連撃が紡がれていく。
どうやらアルトは魔王の攻撃をあの粒子の残像で躱した後、彼女の後ろに瞬間移動して不意打ちをしたらしい。
肩の大きな火傷の痕や、額から垂れている血液が、彼はもう限界寸前だという事実を物語っている。
そんなボロボロで瀕死に近い状態だというにも拘らず、強烈な猛撃を叩き込んでいくアルト。
彼の異常なまでの執念と続いていく重い連撃に、あの魔王も焦りを見せ始めていた。
「うそでしょ、もう! ──いだっ!? ちょ、ちょっと勇者くん、好きな子の前だからって張り切り過ぎじゃないかな!」
「喚くなっ……!」
彼の音速に等しい連撃を防ぎきれず、まともなダメージを受けてしまう魔王。その肩や太股からは鮮血が飛び出し、彼女も余裕が無くなってきた事が分かる。
しかし、それはアルトも同じ。もはや流血する紅い液体は汗の如く額から流れ、火傷を負った右肩もビクビクと痙攣している。
「五月蠅いその口……今すぐ黙らせてやるっ!」
「あれ、勇者くんって本気になったら言葉が乱暴になるんだねぇ……アハハ! ようやくキミがちょっと分かってきたかも!」
殺意が迸る眼光で睨みつけながら聖剣を振るうアルトとは対照的に、魔王はいつの間にか楽しそうな表情に変わっていた。
二人の激しい攻防はアルトが優勢だ。しっかりと聖剣が魔王の体に届いている。
だが大剣での斬り合いを続けている中、次第にアルトの動きが鈍くなってきているのが分かった。
俺がそれに気がついた瞬間、当然目の前で戦っている魔王も彼の状態を見抜いていたようで。
「勇者くん大丈夫かなぁ! さっきより攻撃が軽いけど!」
「うっ、るせぇ……っ!!」
「体の心配をしてあげてるんだよ! ほら、例えば───」
アルトの大振りを躱した瞬間、魔王は両手で持っていた大剣を左手に持ち替え、残った右腕を握りこんだ。
そこから素早く拳をアルトに向かって繰り出す。
彼女が狙ったのは───大火傷を負っている右肩だった。
「こことかさぁ!」
繰り出された強烈な一撃はアルトの右肩に深くめり込んだ。
その瞬間、彼が激痛に顔を歪める。
「う゛ぅっ、ぐ……っ!」
殴られた右肩から指先にかけて激しい痙攣が起こり、震えるその手は聖剣を手放してしまった。
その瞬間、魔王が正面から彼を蹴り飛ばす。
「がぁっ!」
魔王の攻撃で勢いよく後方へ転がるアルト。
聖剣はなんとか左手で死守しているが、大火傷して更に強烈な打撃を受けてしまった右肩から先は、もう使い物にならない。
聖剣を片手で扱えないほどアルトは弱くないが、両手のパワーを込めてようやく魔王と互角だった彼が、片手だけで彼女の攻撃を防ぎきることは明らかに不可能だ。
「アハハぁ……流石にもう無理でしょ」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、片手で大剣を引きずってアルトに近づいていく魔王。
かくいう彼女もかなりのダメージを負っており、斬りつけられた体の節々や口元からも流血している。
アルトの怒涛の連撃は相当攻撃が入ったらしく、息も切らしている。
しかし、それでも足りない。どうしてもアルト側のダメージが多すぎて、あと一歩というところでそれが尾を引いている。
このままでは本当に、動けないアルトに最後の一撃が振り下ろされてしまう。
実力は拮抗していた。それどころか優勢だった。
じゃあ、なんでこんな事になっているんだ。
「くっそ……!」
理由を理解した瞬間、苛立ちの声が吐き出された。
……考えるまでもなく、俺のせいに決まっている。
俺が魔王の狙い通りの動きをして、貴重な憑依をあの爆弾に使ってしまったから。
短絡的な行動で、彼を巻き込んでしまったから。
じゃあ、どうすればよかったのか。反省するべき点など数え足りないぐらいだ。
最善の行動を取ったつもりで動いていたのに、目の前ではアルトが最悪の状況に陥っている。
抵抗することも出来ず、魔王に殺されてしまう。
──駄目だ。
駄目だダメだ。絶対にそんなことさせちゃいけない。
俺はユノアに託されたんだ。エリンとファミィの意志を継がなきゃならないんだ。
どんな事があっても、目の前の彼を死なせるわけにはいかないんだ。
そして何より、俺がアルトを死なせたくないんだ。
『──三度以上、憑依をしてはいけない』
初めて出来た魔物の友人である彼の言葉が、脳裏を過った。
三度目の憑依、それはつまり幽霊としての命を擲つ最後の選択肢。
してはいけない三度目とは、裏を返せば最後のチャンスでもある。
俺がこの命を賭してアルトの助けになれる、正真正銘最後の機会だ。
「……やるしか、ない」
言葉にして、改めて実感した。
己の愚かさを。『憑依しかない』という魔王の言葉を否定できない事実を。
だけど、やるしかない。俺にはこれしかない。
魔王の体に憑依して動きを止め、アルトに最後のトドメを任せる。これだ。
勿論、簡単に彼女の体を奪うことはできないだろう。運よく近づけて体の中に入れたとしても、魂を弾かれてしまっては無意味だ。
気を強く持て。精神力の強い魔王を、それでも乗っ取らなきゃならないんだ。
「いま助けに行くぞ、アルト」
そう呟いた瞬間、俺はその場を飛び出した。
「ん?」
接近してくる俺の存在に気がついた魔王は足を止め、体を此方に向けた。
そのニヤついた表情からは、彼女の俺に対しての慢心が見て取れる。
「ラルちゃーん……流石に悪足掻きだよ、それは」
侮っている。俺を。
それは逆に好都合だ。
ハッ! 調子に乗りやがってこの性悪女が!
一泡吹かせてやるから覚悟しやがれーっ!
「オラァっ!!」
「えっ?」
俺は懐から小型爆弾を大量に取り出し、その全てを前方にぶん投げた。
雑魚にしか通じないような威力の小型爆弾を投げられ、魔王はきょとんとしている。
「こんなの……!」
魔王は大剣を横に振り、小型爆弾を全て破壊した。その瞬間、小さな爆発が幾つも発生する。
それで生じた煙が辺り一面に広がった。
予想通りだ。小型爆弾はあくまで目晦まし。攻撃の意図はない。
「まだまだ見えるし! ラルちゃん私のことナメすぎじゃないかな!?」
「うるせぇバーカ!」
そこから更に、懐から取り出した数個の煙幕玉を地面に叩きつけた。
こんないわゆる『ラスボスとの最終決戦』的な場面で、まさか盗賊のチンケな道具を使われるとは思わなかったのか、魔王は少しばかり狼狽している。
「ケホっ! なにこれ、けむい……!」
煙幕玉は幼少期から盗賊時代にかけて、俺を救い続けてきてくれた相棒だ。その性能は熟知してるし、どこに投げれば効果的かなんてすぐに分かる。
いやー、トリデウスに頼んで大量に準備してもらっておいて正解だったな!
「こんなの、剣で払えば!」
魔王が大剣を振って風を起こした。そこから生じる突風があれば、確かにこんな煙は彼方に飛ばされてしまうだろう。
──だが、在庫はまだまだ残ってる。
「えっ! 今日はもっと煙幕玉を投げていいのか!!」
「ちょっとラルちゃん!?」
「おかわりもいいぞ!」
煙を払われてしまう前に更なる煙幕玉を投入していき、辺り一面を煙で充満させていく。
もはや魔王は俺の姿を見ることが出来ない。
ダメ押しにもっと煙幕玉を投げてみた。地面だけじゃなく、魔王本人にも。
「いたっ!? も、もういいって! 見えないから!」
「ヒャアッ我慢できねぇ! もっとだ!!」
「ちょ、ちょっとぉ゛! うっ、ゲホっ、ゴホっ!」
怒気を孕んだ魔王の叫びと咳が聞こえてくる。
はっはっは、そうだろう。生き物にとって、この煙は辛かろう。
煙が器官とか目に入って痛いでしょ。知ってる、俺も使い慣れてないガキの頃はよくそうなってたからね。
「ふっ、ふざけた事して……!」
「大真面目じゃーいっ!」
一瞬。
ずっと待ち望んでいた、一瞬の隙。
俺が突飛な行動に出たことで。
命のやり取りをしている場にふさわしくない、妙な雰囲気を醸し出したおかげで。
普段は楽しんで戦いながらも油断はしない魔王の、気が緩んだ。
油断したことで生じたその一瞬の隙を、逃しはしない。
「──っ!」
魔王の剣が巻き起こした突風で煙が晴れた、その瞬間。
背後から超スピードで距離を詰め、俺は魔王の体の中へと入っていった。
その瞬間、強烈な握力で首を絞められるかのような感覚が、俺を襲った。
「う゛ぅ゛っ……!」
トンカチで何度も頭を強打されるような、指の爪をゆっくりと剥がされていくような、ドリルで口の中を抉られるかのような───ありとあらゆる激痛と苦しみが全身を支配していく。
「ラルっ!」
状況を理解したアルトが右肩を押さえながら立ち上がり、俺に向かって叫んだ。
「アル──」
彼に返事をしようとした瞬間、強く脳が揺れた。
自分じゃない、別の誰かの思考が脳内に流れ込んでくる。次第に、俺の視界は片方が真っ暗に染まっていってしまう。
気がつけば、俺の右目は何も見えなくなっていた。
それだけじゃない。
体の節々が言うことを聞かない。それは痛みによる麻痺ではなく、体の半分を『誰か』が操っているかのような感覚だった。
それを理解した瞬間、頭の中で俺以外の声が響き渡った。
『は、は……! まさかっ、ひょう、い……されるなんてねぇ……っ!』
「まっ、お……!」
体を蝕む激痛に身を震わせながら、脳内で魔王が言葉を放つ感覚は、もはや形容しがたい『苦しみ』でしかなかった。
彼女が俺の中で喋る理由、そして体の半分が動かせない理由。
それは間違いなく、魔王が憑依を拒否しているなによりの証拠だ。
「てめっ……!」
『くっふふ、これっ、以上の……! 憑依は、無理っ、でしょ!』
魔王の叫び声が、脳味噌をグチャグチャにかきまわすかのような激痛を伴って頭の中に響いていく。
両膝を地面につき、抑え込むように右手を胸に当てた。しかしその手を、反対の左手が強く握ってくる。
体の半分が魔王に渡っている事は、もはや自明の理だ。
やはり、彼女は精神が途轍もなく強靭だ。
もし気を抜いたらその瞬間、俺はこの身体からいとも容易く弾き出されてしまうだろう。
必死に彼女を抑え込みながら、俺は口を開いた。アルトに伝えるためには、抵抗できている今しかない。
「アルト! 聖剣でトドメを刺せっ!」
「……ラル」
俺の叫び声を聞いたアルトは立ち上がり、左手で聖剣を構えた。
しかしながら、彼の表情は困惑そのものだ。
俺が憑依していることは分かっているが、このまま本当に聖剣で貫いてしまっていいのか──そんな思いが彼の眼差しから伝わってくる。
『ねぇっ、ラルちゃんも分かってるでしょ! 聖剣は相手がゴーストだろうと、その魂を斬ることが出来るんだよ!?』
「んなのっ、わがっ、てる!」
『それにこの憑依三回目だよね……! もしアレで貫かれたら、どうあっても魂の修復は間に合わない! 瀕死の状態で殴られたら誰だって死ぬんだよ!』
響き渡る魔王の叫び声。頭を揺らす激痛。
彼女の言葉は命乞いではなく、警告だ。
本当にそれでいいのかと、俺の覚悟を問いただしている。
これは止められていた三回目の憑依だ。そこにダメ押しで聖剣の一撃が加えられれば容易く死ぬことなんて、とっくに理解している。
けど、魔王に勝つためにはこれしかない。
アルトを生かして、世界を修復する為には俺の命が必要なんだ。
「分かってるよそんなこと! ウダウダ言ってねぇで───大人しく俺と一緒に死ね!!」
『……くっ、ふふ』
俺の言葉を聞いた魔王は、小さく笑った。
体から弾き出そうとする力は弱めていないのに、どこか悟ったような笑い方をしている。
構わず、アルトに向かって叫んだ。
今やらなければ、あと数秒後には憑依が解除されてしまう。
だからやれ、今すぐやれ。
───俺を殺せ。世界を救え。
そう、告げた。
「……っ」
それを聞いたアルトは俯いている。聖剣を握っている左手が、固く閉ざした唇が、その全身が震えている。
酷な事を言ってることは百も承知。彼にとって、今からする行動はあまりにも残酷なものだ。
でも、それしかない。もう時間もない。
彼を急かすように、もう一度俺は強く叫んだ。
「やれぇっ!!」
「───」
俺の言葉を聞いた瞬間、彼はその場を駆け出した。
左手で聖剣を構え、一直線にこちらへ向かってくる。
顔を歪ませながら、眼尻に涙を浮かばせながら、聖剣を魔王の体に突き立てる。
「うあ゛あ゛あぁぁぁ゛ぁ゛っ゛!!」
咆哮し、光り輝く刃で。
勇者は魔王の体を貫いた。
気がつけば、目の前には鮮血を帯びた聖剣を握っているアルトがいた。
そしてソレを手放し、両膝を地面につかせた彼を見ているのは、魔王ではなく俺の瞳だ。
下を見れば、腹部に風穴が空いている白髪の少女の姿がある。
俺の視線に気がついた彼女は、満足そうな顔をして小さく呟き始めた。
「……ハハっ、まけ……ちゃった……」
そう言葉にする彼女の表情は、敗北した者の顔とは思えないほど、清々しいくらいの笑顔だ。
そして、それを見つめる俺の顔は──
「おめで、と………きみたちの……」
──か、ち。
消え入る声で告げた彼女の瞳は、光を失った。
その虚ろな目は、もはや何も映してはいない。
しかし俺は、彼女のように遺言を告げることすらできないようだ。
「らっ、ラル!?」
叫ぶアルトの目の前にいるのは、既に下半身まで消滅している幽霊の姿。
体の崩壊するスピードが、あまりにも早い。もう腹から胸までも消え去った。
──大事な事を伝えて、ゆっくりと劇的に死ぬ。
そんな甘い現実は、ここにはなかった。
当然だ。なんせ今消える俺は、二度目の命なのだから。
魔石が目的でトリデウスの遺跡に赴いたあの日に、俺は『ばか』だなんて最低な遺言を残して彼の前で死んでいる。
これから、俺は死ぬんじゃない。
ただ、跡形もなく消え去るだけだ。
「待ってくれ! ラルっ!!」
体が崩れ去っていく俺に手を伸ばすアルト。
でももう遅い。もう口も無くなってしまって、彼に何かを告げることも出来ない。
だから、俺は微笑んだ。最後に残ったこの瞳で、優しく彼を見つめた。
しかし、きっと伝わらないだろう。
意思というものは、言葉にして初めて相手に伝えることができる代物だ。
微笑みだけでは、きっと、彼には。
ずっと、ずっと伝えたかった。
幽霊になって、初めてきみの前に現れたあの日から、ずっと言いたかったんだ。
でも、一度も言えなかった。結局、消えるまで言葉にできなかったな。
あぁ、アルト─────
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