円環の空の向こうに
「ほらこれ、指輪。環ちゃんにあげるね」
「はあ? ……って、おい、ぶっかぶかじゃねーか、この指輪」
もはや日常となった円との外食。こいつとは学生時代からの長い付き合いで、天然記念物級の天然の性格にも慣れっこになってしまった。会社帰りのSNSから「たまにはプレゼントしなきゃ」とメッセージが来たものだが(より稼いでいる私が多く払っているのだ)、こいつの発想はつくづく度し難い。まあ、いちいち驚いてたら付き合うなんてとてもできないだろうけど。
「こういうのは、ちゃんとサイズを計ってから買うもんだろーが。だいたいもらっておいてアレだが、つくりも宝石も安っぽいし……」
私は安物と思しき指輪を中指に通す。ストンと滑り、根元に落ちてもまだガバガバに感じられた。
悪意ある私の仕草に、円が頬をぷーっと膨らませる。
「えーっ、せっかく取ったのに。こういうのは気持ちが大事なんだよう」
「何の気持ちだよ。指輪なんて……ちょっと待て、取っただと?」
「うん。ゲーセンの景品。だからサイズなんて決めようがなかったの」
500円で取れたの~と胸を張る円。私はふうと溜息を吐いた。
こいつはいちおう自由業というやつをやってるから稼ぎはともかく時間にゆとりは大いにあるのだ。暇つぶしにゲーセンに行ったところで罰は当たらないだろうが……
「ぶかぶかの指輪を渡されてもなあ……」
しかも安物の指輪では迂闊につけたら周りに苦笑されるのがオチだ。間違っても大事な取引ではつけられない。
円が自分が寄こしてきた指輪をまじまじと見つめ、それから頭に豆電球がともったようだ。
「そうだわ! 環ちゃんがぶら下げてるネックチェーンにその指輪を通したらオシャレじゃない? 色の相性もよさそうだし……」
「金と銀でかー?」
私は懐疑的だった。仮に事実だとしても、こいつが口にするとどうにも信憑性が欠けているように思われる。
一方、円はすっかり自分の考えに酔ったらしく「貸して」とばかりに私の指輪とネックチェーンをぶんどろうとする。やめんか酔っ払い。私は掴み合いになる前に、ネックチェーンを外して円に差し出した。
頼むから傷めないでくれよと思いつつ、私は指輪を通す円を見つめた。ほろ酔いの顔に小学生みたいな喜びの表情が浮かんでいる。そう思っているうちに終わったらしい。まるで花冠を差し出すように渡してきたので、私は首を伸ばしてネックチェーンをかけてもらった。
その後、お手洗いに向かって鏡で自分の姿を確認してみたが、思ったほど悪くないような気がしてきた。さすがに至近距離では安っぽさがバレるだろうが、遠目からでは銀のチェーンと金の指輪はいい雰囲気を出している。宝石の赤い輝きも小さいのが幸いして、よほど凝らしてみなければ景品とは気がつかないだろう。まぐれだとしても、いいものをもらった……と考えるあたり、私もなかなかに酔っているのかもしれない。
……
勘定を済ませて店を出る。夜の街に初夏の訪れを告げるような生ぬるい風が吹いていた。
「環ちゃん、ちょっと止まって」
いきなり円が言い出した。また突拍子のないことをしでかすつもりか。
その通りだった。円は私のチェーンを手に取り、指輪の穴から私の顔を覗き込んでいたのだ。
「おい、少しは周りを気にしろっての」
「こうすると環ちゃんの顔だけが映って見えるね」
いや、そうじゃないほうがおかしいだろ。指輪の穴に壁でも張られてたら、そもそもどうやって私は指輪を通せたんだっつーの。
「気が済んだならさっさと歩きな。私は暑いんだ」
「環ちゃんもやって」
「頼むから話を聞いてくれ」
だが経験上、こいつの言うとおりにしたほうが疲労が少なくて済む。酔いと暑さもあって私は観念して指輪の穴を円に向けることにした。
穴の向こう側だけに集中する。そこには狭い視野の中心にいる腐れ縁の姿があった。背景などほとんどあってないようなものだ。
唐突に、円が酔いを感じさせないような声で言う。
「環ちゃん。おしごと頑張ってるでしょ」
「お前も同じだろ」
「うん、それでね。どうしても疲れたときは環ちゃんのことを考えると元気が出るの」
「そうかい」
わざとぶっきらぼうに私は答えることにした。このやろう。
指輪の向こうの円が大きくなった。うわ、何も見えねえ。私は指輪越しから見るのを諦めて、疲れたように接近した円と正対した。
「こうすれば、指輪の向こうに環ちゃんしか映らなくなる」
「…………」
「ここに環ちゃんが居なくても、指輪の向こうに環ちゃんのことだけを思うことができる。刷り込みってやつなのかな? でも、気晴らしにはちょうどいいかなって思ったの」
円の距離がはなれる。りんごのように赤くなった頬と照れくさそうなはにかみが夜の街頭に彩られた。
「環ちゃんもそう思ってくれるといいな」
「どうだかな」
……
多少の変化はあれど、私と円のやり取りは当たり前のように繰り返されている。
私のもとには様々な仕事が舞い降りて割としんどいこともあったが、そういうときはハンドバッグから安っぽい金の指輪を取り出し、誰もいない場所でそっと穴から空を見つめるのだった。