科学部への来訪者
鍵谷が、科学部を見学に来たのは、部活終了時間を迎えるであろう6時過ぎ頃のことであった。ちょうど僕が、休憩がてらコーヒーを飲み終わり、作業再開のためPCの前に戻ろうとした、その時でもあった。
「科学部の見学がしたいんですが……部室はここで合うてますか?」
作業中だった部長が一瞬手を止め、眼鏡を直した。
そして部長が答えた。「見学か、終わりかけだけど良ければどうぞ。」
「ありがとうございます」と鍵谷も答えた。
僕は、鍵谷が一人で見学に来ていることに気が付いた。他の女子は時間的に帰り、鍵谷一人で残りの目当ての部活を回っているんだな、と一人で納得した。
そして僕はPCの前に戻る。ただでさえ遅れている作業の遅延を取り戻さなければならないからだ。
僕が作業を再開したころには、鍵谷は物理室を外周まわり、もう一周しようとしていたが、そんなことはあまり気にせず、英訳の修正を続けた。
それでも、何故か休憩前よりも少し効率が落ちた気がした。
そうこうしているうちに、部活終了時間になった。ファイルを上書き保存し、そのままPCを片付けに行った時には、鍵谷は部長と部活の内容について話しているようだった。
僕は荷物をまとめ、足早に部室を出る。
無意識に考え事をすることが、増えている。
部室を出ると、なんとなく気が楽になる。部活は楽しいし、集中できるのだが、なんとなく余裕のなくなる感じが、ここ最近はしていた。でも忙しい時期はいつもこうだったな、と思うと、そんな苦にもならないな、と思う。
部活にも広川みたいに仲のいい奴はいたのだが、でも最近は班が別だし、そもそも忙しすぎてあまり話せなくなっていた。
なんとなく日常に息苦しさを覚え、でもいつかそれは終わると思えば、なんて、思えば、思考が堂々巡りしていることに気付く。
昇降口で靴履き替えて、外を見る。昨日の夕焼けが嘘みたいな雨だった。いつも折り畳み傘をカバンに忍ばせているので、傘はあるが、気分は落ち込む。
ドアの近くで、鞄を下に置きの中の折り畳み傘をまさぐり取り出す。なぜか深いところにあって、取り出すのに手間取った。
傘をさして、外に出る。雨は一層強くなりつつあった。それは僕を少し駆け足で帰らねばならないと感じさせた。そうやって少し急ぎ足で出ようと思った、そのとき、ふと、声がした。
「筆箱、落としたよ。」
僕は急ぐ気持ちがあったせいで少しむすっとして振り向いた。広川だった。
「おっ、ありがと広川。おれ電車来るから明日な。電車間に合いたいならお前も急いだほうがいいぞ。」
と、急いでいた僕は言って、広川の反応を待つ間もなく筆箱を回収してまた走り出した。雨は、弱まることを知らず、勢いを増していた。
僕は走って駅まで行こうと思った。しかし、途中赤信号があって止まらざるを得なくなった。僕は少し濡れ始めていた。
赤信号を待っていると、同じように走って来る人がいた。そいつを見ているうちに、青信号になってるのを見て、尻目に僕は再び走り出そうとした。
そうして青信号の横断歩道を走り抜けたか抜けないかぐらいの時、後ろから大きな声が聞こえた。
「北沢君、忘れ物!、忘れ物!」
横断歩道の向こう岸で、僕はその声につられて振り向く。雨は気づかぬうちに止みつつあった。顔を見ると、鍵谷だった。
「ごめん、何忘れたんだっけ?」と聞く。鍵谷は息を切らしながら、ゆっくり、右手を差し出す。
「USB、メモリ。部長がPCに刺さっとったままやったん見つけて、届けてって。」
僕は少し驚いた。USBがなければ、自宅での作業ができない。最近の部活は疲れ気味だったけど、こんな大事なものを忘れるほど疲れているとは思ってなかった。しかし気が付けば時間が危ない。
「ありがとう、まじありがとう。これなかったら死んでたわ。あっ、俺電車乗り遅れそうだから急ぐわ」
「走らんとマズイ感じ?」と鍵谷も言う。そうか、同じ駅だから気になるんだな、と思う。忠告として
「今から走らないと次は30分待ちになるぞ」というと鍵谷は
「じゃあウチも走らんと」と答えた。
そして、二人で息を切らしながら駅まで走り出した。
鍵谷はとても体力があるのか、僕より早く駅に着きそうだった。さっきの息切れは演技かよ、と思った。
駅に着きつつある鍵谷は改札の前で歩き始めた。振り向いてこっちを見た。向こうの顔には余裕が感じられた。僕は負けず走り続けて改札に入る。 改札を出たところで鍵谷に再び追いついた。
電車はまだ来ないようだった。僕らは走った甲斐あって、少し余裕をもって着いたようだった。
ホームへ続く階段で傘を仕舞いながら、僕は、ふと気になったことを聞くことにした。
「鍵谷さん、部活ってもう決めたの?」
鍵谷は少し考えて、それから
鍵谷「科学部は部長がめっちゃ親切に話してくれたったしええ所やった。入ろっかな、って思うとる。」
僕は少し驚いた。見学には来たけど、部員はみんな作業に追われていたしそんなに良い部活だとは思わないだろうと思ったからだ。
「そっか。忙しいけど研究自体は面白いから頑張って。」
と伝えた。鍵谷はふーんという顔をして、それから何かに気付いたかのように少し駆け足になって階段を上がった。そう、電車の音がしていたのだ。遅れて僕も駆け足になって階段を上る。
ホームにつくと電車が到着してドアを開けていた。発車寸前のようで、鍵谷がどこに行ったかなんて確認する間もなく、電車に飛び乗りった。
息を切らしながら、車窓から見える完全に暗くなった空を見て、鍵谷が科学部に入ることの驚きを反駁した。そして、手にまだUSBメモリを握ってることを思い出し、僕はそれをかばんに仕舞った。
ふと、安心感が戻ったが、束の間、ふいに、完全に忘却の彼方にあった、中間テストを思い出した。そう地獄を。