あたしとあいつ 4
目が覚めると真っ白な空間にいた。
「……雪?」
じゃないようだ。
触ってみたが冷たさも熱さも感じない。凹ませることもできない。白い地面というのが一番近い表現にだろうか。
「起きたかね?」
呆然と地平線まで続く白い空間を見つめていると、後ろから声が掛かった。あたし以外にも人がという理解と、そもそも何故ここにいるのかという疑問が同時に湧いてきたが、前者の誘惑に勝てず振り向く。
そしてやはり夢なのかもしれないという結論に至った。
パイプ椅子に脚を組んで腰掛ける壮年の紳士が、青い瞳に深い知性を感じさせる光を称えてそこにいた。
おじさんというよりはオジサマという感じだ。
乱暴な印象はない。
撫で付けられた茶色い髪も整えられた髭も膝の上に載っていて分厚い洋書も、その雰囲気を醸し出すのに一役買っているが、やはり一番印象が深いのは『目』だろう。
穏やかさを通り越して、何処までも続く海のように……引き込まれそうになる瞳だ。そこに雑然とした思考や想いはなく、ただただ事実のみを見つめる……こちらの全てを見透かす……。
神のような瞳。
「気分は? 体に変調をきたしてはないかな? 君を呼び立てるのに部下が乱暴な手を使ったようだ。一先ず謝罪させて欲しい」
圧倒されていた意識が、その言葉の意味を飲み込んだことで帰ってくる。
そうだ。雪崩が。雪が。
不思議な緑色の光に包まれて、軽いパニックを起こしていたバス内で、あたしもその流れに乗りつつも妙な安心感があったことを覚えている。
これは大丈夫だと。
しかし説明するのも難しく、あの変な既視感にも似た映像もあって、結局は大人しく席に座っているだけだった。パニック時に騒ぎ出すのも、変な子扱いされるのも嫌だったし。
だからなのか。
一手遅れたのだと、どうしようもなく理解した時には既に遅かった。
再び突然の揺れがバスを襲い、あたしの座っていた席の窓ガラスが粉々に砕けた。秋口さんがビックリする反射神経を見せてあたしを庇ってくれて……なんか朝からピリピリしていたので話しかけ辛かった。
でも、そう。大丈夫だった。その後で……。
暗くてよく分からなくなったのは、あの緑色の光が消えたせいか、あたしの意識が飛んでしまったのか……。
「……ここ、どこ?」
「あたしは誰? ってね? 今から教えてあげるよん」
「リーザ」
あれ、いつから?
白いだけで何もない空間なのに、紳士然とした男の隣にはいつの間にか金髪碧眼の綺麗な子が立っていた。
革ジャンにキュロット、ニーソにブーツと隣に座る紳士とは相対的な格好に見えるが、その一つ一つのブランドが不思議な調和を醸し出している様は少女の雰囲気を高貴な物に押し上げて存在を並び立たせる事に成功していた。
不思議で納得がいかない理不尽な空気。
夢であるような雰囲気。
しかしこれは現実だろう。
似たような人物に心当たりがある。
あの酷く眠そうな瞳を思い浮かべるだけで、少し落ち着けた。
不思議だ。
「あの、あたしって今、修旅の最中なんですよね? 多分最後の思い出作りでー。残りの一泊で意中の彼との距離が縮められるかどうかの瀬戸際なので、帰りますねー?」
なんとなく、こんな感じだろうか?
ふてぶてしく媚びた笑みを浮かべて明後日の方向に歩き始めれれば完璧かもしれないが、あたしにはそこまでは無理だ。
とりあえず何が起きてもいいように立ち上がっておく。いつでも逃げられるように。
誰かさんが飛び込んできてもいいように。
「へえー、いいじゃん。根性あるね! あたしは好きだよ」
「どーも。あたしは嫌いみたいです」
この状況で好かれて嬉しいと思えるとでも?
頭のネジが抜けてそうな少女を放っておいて、紳士の方に向き直る。
「帰して貰えます?」
「君を連れ出すのに多大な労力を使った」
質問の答えなのか、話し掛けてきているのか、ただの呟きなのか、どれでもあるようなないような中途半端な視線と間で紳士が声を放ってくる。
しかしそれは聞くことを強制されているようで、魅了されているようで、盗み聴いているようで、遮ることができない。
「葵ノ上の守護が効いているところで、コンタクトを取ることは難しかった。我々は君が守護の範囲から出るのを二年待った。君は己の力をよく抑えていたと思う。少なくとも理外の理となる存在に触れるまでは、我々も察知できなかったのだから。物事とはやはり思うように進めることが難しい……この『抵抗』すら決められていることなのではないかと疑ってしまうぐらいには。しかし彼らも君を見誤った。報告に上がっているのは、事象観賞程度の能力。つまり『未来視』もしくは『透眼』と予測していたのだろう。これは幸運だった」
……ひどく嫌な予感がする。
何を言っているのか分からない……分からない筈だ。少なくともまるで聞いたことのない話だ。
なのに。
何故か。
――――理解できてしまう。
ひどく嫌な予感がする。
「我々は待った。予定に沿って。しかし時間というのは誰にでも味方をするらしく、その中で我々にも複数の派閥が育ってしまった。人は全能から程遠い。未来に立てた予定を完遂するだけだというのに、その一歩すらままならないのだから。抑えられなかった派閥の者が、早々と葵ノ上に反旗を翻した。老人達はそれを笑っただろう。私も素直に負けを認められるほど、愚かだった。そこで修正がなされてしまった。本当は国外の旅行であった筈だ」
そう。ヨーロッパのどこか、もしくはオーストラリア。
ただ修学旅行先が海外じゃない年も何回もあったので、今年がハズレ年なんだと生徒間ではボヤキが漏れていた。
「年単位の雌伏など、連ねられた歴史には一瞬でしかない。既に負けは認めている。しかし運とは……いや『運命』とは振り子のようなものなのだろう。好きな言葉ではないのだが、覆せるのなら些末なことだ。真田との連絡が活きた。我々は予定を決行するに至った。綻びが出てしまった後だ。既に予定は予定でなくなっていた。『一鬼』を抑えるのに多大な犠牲を払った。厄介な存在だ。どちらかと言えば我々の側であるのに。しかし……」
青い瞳に貫かれる。
……ああ、そうだ。
「我々は勝った」
でも……。
そこで紳士が溜め息を吐いた。初めて見せる人間臭さに、それだけ警戒していたのだと知る。
「ここでアンノウンか。なるほど。一人越えて来たというのなら、その存在には意味があるのかもしれない……。『雷神』持ちを打ちのめしたとは聞いていたが……」
逡巡は僅か。
しかし状況をコントロールしたいのなら……。
あたしと紳士の考えは同じ結論をみた。それは負けを意味する。
「よろしい。招待しよう」
紳士の言葉と共に、あいつが降ってきた。
ズドンと、あたしの目の前に。
どれぐらいの高さから飛び降りたのだろう。
「んん? んー……あー。……あ、すいません。なんかお邪魔してしまったみたいで。直ぐに退散しますねー? あ、国道ってあっちですかねえ?」
キョロキョロと周りを見渡して、ヒョイっとあたしを小脇に抱えて頭をヘコヘコと下げながら明後日の方向を指差す。
――――いつもなら、その振る舞いに安心を覚えたのだが…………。
ダメだ。
何故だろう。
嫌な予感は消えてくれない。




