後編
「サラ」
闇がサラの頭まで覆い尽くそうかという時。マークのやさしい声が降り注いだ。
「ごめん。サラ。言い過ぎた」
「……マーク?」
サラは、はっ、と正気に返り、ぶんぶんと頭を振った。
一体、自分は、何、を? 何か、とてもおそろしい事を、考えていなかったか。
歯の根がかたかた震えて噛み合わない。口の中が、からからに乾いていた。
家族を愛している。いつでも、温かく支えていたかった。それなのに、いつからかずれていた心の歯車は、サラを真逆へと加速させた。
これこそ、悪魔の仕業か。心が蝕まれていた事に、サラはようやく気が付いた。
「君も一人で頑張っていたんだよな。ありがとう、サラ」
けれどマークはサラのずれた歯車を、あっさりとはめ直した。カチリ、と音を立ててぴたりとはまった新しい歯車は、小気味よく回って、サラの冷えた心を温めた。
「頑張って……。いいえ、マーク。私は良い母親ではなかったわ」
マークの言葉に、サラは自分を思い返す。
子供が自分たちに似通っていない事がおそろしかった。誘拐だとでも言われて、だれかに子供を奪われてしまうのではないかと。実際に、疑われた。あまり外にも出ず、人と関わるのを極力避けていた。
どうしたの、と聞く子供の耳をやさしく塞ぎ、なんでもないわ、と応えた。いわれのない中傷を、子供の耳に入れたくなどなかった。けれど子供は、かえって不安になっていたかもしれない。
教師からの電話を受けて、サラは蒼白になった。同級生の怪我は気がかりだったが、何よりも、子供が同級生に傷つけられてやしないかと心配でたまらなかった。何故体格差も考えず、高等部になんて入れてしまったんだろう。
学校が惨事に見舞われた時、子供が無事でどれだけ安堵したことか。子供がそれを感じとり、ふだん表情の動かない顏に笑みを浮かべる程に、愛情を込めて抱きしめた。
それなのに、何故か、子供が悪魔だなどと、おかしな思考に走るようになった。
サラは考えを巡らせる。
心を蝕む歯車――言葉で、姿で、サラを惑わせて。初めに、ずらしたのはだれだった?
「サラ……」マークは小さくため息を吐き、ことさら明るい声で言った。「どうやらみんな、気晴らしが必要だね。……よし! みんなでバカンスに行こう」
「えっ」
「なあ、いいアイディアだと思わないかい?」
「……っ!」
マークの声にサラは思考を中断させ、マークの視線を追って後ろを振り返り。
息を飲んだ。
寝ていたはずの子供が、起きてきていた。
「おとうさん……おかあさん……」
子供は、氷のように無表情な顔で、両親を見ていた。
一体、いつから聞いていた?
サラは、血の気がざっと引き、温められたばかりの心が冷えていくのを感じた。
けれど。
「こっちへおいで」
マークは子供を引き寄せると、サラと自分の間に挟み、ふたりをぎゅっ、と抱きしめた。
「いいかい? 僕らは家族だ。どんな時でも、一緒だ。嬉しい時は、たくさん笑おう。悲しい時や苦しい時は、こうしてみんなで温めあえばいい。周りが何を言っても、僕らは強く結ばれているんだよ」
「マーク……」
「悪魔なんてものは、目に見えない心の闇みたいなモノなんだと僕は思う。きっと、誰もが飼ってるんだ。だから、こうして愛情で照らしてやれば、いくらだって、救ってやれると思ってるよ。悪いモノは、光ってるもんには寄り付かないものさ」マークは、くしゃくしゃと子供の頭を撫でて言った。「もちろん、僕も堕ちてしまいそうなときは、君たち、大切な家族に助けてもらうけどね」
慣れない事言うと照れるなあ、と鼻をかくマークに、サラはどろどろと淀んでいた心が浄化されていくのを感じた。
「……そうね。私たちは、大切な、家族だわ。二人とも。居てくれて、本当にありがとう」
心からの笑顔で、マークと子供に微笑みかける。
すると。
ずっとずっと喜びも悲しみも凍りついたかのように表情を変えなかった子供が、マークとサラの笑顔に心を解かすように、ふわり、と微笑んだ。
「おとうさん、おかあさん。バカンス、楽しみだね」
それから。
周りを警戒するばかりだったサラは、傲慢にならない程度に、自慢の子供なのだと胸を張って町を堂々と歩くようになった。
サラというより、サラのびくびくした様子を不審がっていた町の人間は、徐々に態度を軟化させ、挨拶を交わすようになっていった。
そして、あの老婆は、実はずっと以前から、小さな子供ばかりを狙って何かを言い、一時的に表情をなくす子供が出るほど怯えさせる不審者として、町の人間から警戒されていたのだと分かった。
周囲との交流が希薄であったサラには知る由もない事だった。
警察が動き出すと行方をくらまし何もできなかったが、最近また姿を見かけるようになり、警戒していたのだという。サラが笑って過ごすようになってからは、家の周りでは見かけなくなったが。
老婆が初めてあらわれたのは、子供が3歳になる頃だったそうだ。子供も、被害者の一人だったのだ。そして、小さな子供のように弱っていたサラもまた、目をつけられた。
子供の回復が遅れた原因は、サラにあった。
子供は親の鏡という。
いつも周りを警戒し、笑顔を忘れたサラの顔を、子供は自分の顔に、忠実に映していた。
子供は、表情には出せないながらも、勉強を頑張れば、運動を頑張れば、マークが喜んだようにサラも喜ぶと思ったが、やればやる程、母は表情を無くしていった。昼間からカーテンを閉める真っ暗な部屋の中で、子供の心は凍っていった。
しかし今、家族がそろい、自分を見返したサラは笑顔で過ごすようになり、子供も徐々に笑顔を取り戻していった。
そんな中、骨を折った同級生とその親がやってきて、払った慰謝料を返してきた。
訳を尋ねるサラに、泣きながら謝罪に来た全く別の生徒が、階段から落としたのは自分で、偶然通りかかった子供に濡れ衣を着せた、と言ってきたそうだ。もともと、小さな子供にできる事かと疑問に思ったサラや同級生の親が、見た者がいないか学校に調査を依頼しようとした矢先だった。
ここにも謝罪に来るだろう。同級生はそう言った。
報復が怖かったのだろう。子供はあれからも口止めされた通り、頑なに口を閉ざしていた。
その生徒と折り合いをつけ、怪我の回復を待っていた為来ることが遅くなった事を詫び、同級生たちは帰って行った。
マークとサラは、くすぐったがる子供を、やさしく抱きしめてやった。
バカンス先で、仕事の疲れか、熟睡するマークの傍ら、子供が聞いた。
「ねえ、おかあさん」
「なあに?」
「ボクは、悪魔の子供なの?」
サラは、一瞬、全身が固い金属のようにこわばるのを感じたが、ふうーっと深く息を吐くと、子供の目を見て言った。
「おかあさんも、おとうさんと同じ。悪魔は、人の心の弱いところ。誰もが持ってる、ずるくて、罪深い心の事だと思うわ。だから、誰でも簡単に悪魔になれてしまうの。私も、悪魔になりそうになったわ。そういう意味では、あなたも、いいえ。人はみんな悪魔の子かもしれないわね。……けれどね」
子供の頭を撫でながら、サラは続けた。
「弱いところがあるから、強くもなれるのよ。だから、まだまっさらな、あなたのような子供たちや、大人だって、誘惑に勝てた人は、みんな天使にもなれるのよ。それに、何よりも」サラはふわりと子供を抱きしめた。「あなたは間違いなく、マークと私の大切な子よ。もし悪魔の心があったって、その心を強さに変えてあげるくらい、まるごと、愛してるわ」
サラの言葉を聞いて、子供は心がふわふわと軽くなるのを感じた。
知っていたのだ。
異様に覚えのいい自分を、町の人がどんな目で見ているか。父や母がどんないわれをしているか。
世間で言うところの悪魔とは、どんなものなのか。
おそろしい形相でお前は悪魔だ、愛されなどしない、と繰り返す老婆に恐怖し、麻痺していた心がとくん、と音をたてた。
子供の頬を、温かい雫がぽろぽろとこぼれ落ちていった。
サラはやさしく子供の背中を撫でて、「愛してるわ」と繰り返した。
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