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俺は考える。例えば、将来のこと。丁度尽き掛けて来た小遣いの事や、目の前の問題の事。または、目の前にいる少し様子のおかしい幼馴染の事。
丁度こちらを向くと、怪訝な顔をされた。顔色を窺われたくないのだろう。「勉強は?」と少し低い声で聞かれ、勉強に復帰するしかない。これでも分かりにくいところは教えてくれるし、結構優秀な家庭教師だと思う。この間も色々と言ってしまったが、俺はとりあえず触れないことにしていた。
「試験、大丈夫そう……な訳無いよな……」
目の前の幼馴染、浦式柚香はそう一人で結論付ける。うんうんと頷く彼女の姿に若干苛立つが、もう慣れてきたというのが正直な心境だ。それに、勉強に疲れた自分の頭では言い返せない。いつかいい点を取って彼女の目を向かせてやろうかと目論むが、それが成功する日はいつになるのか、自身でも分からなかった。
彼女はジッとテーブルにある俺の問題集を手に取り、持っているボールペンで間違いを修正していく。それは数分で終わったが、それまで俺は柚香のその様子を眺めていた。
そして修正が終わると、その問題集ごとこちらに寄って来て、一問一問間違いを正していく。問題集にかかった長い髪を彼女は手で掃う。
「翔太は出来るのに。どうして自主学習しない?これじゃあ学習に追いつかなくなるぞ?」
「飽きるほど聞いたよそれ。大丈夫だよ。柚がいるからさ。」
そんな言い訳のような答えに、柚香は赤面する。返答は、睨むような彼女の視線だった。
柚香の家での勉強会の後の帰り道。静岡の夜空は星が見えない。東京の都心よりはマシなのかもしれないと思うが、小学生の時に行ったキャンプの夜空は星空が良く見えた。電灯の光が夜空を照らす。広い路面の道路。しかし車は一台も通る事はなく、辺りは自分の足音と虫の音に包まれている。
税金の無駄遣いとも思えるくらい、ここには一通りが少なかった。その中で、自分だけが歩く。
手に持った手提げ鞄。夜は日を経るごとに寒くなり始めていた。だが夜の寒さとは違う寒気を感じた。
悪寒と形容すればいいのだろうか。それに立ち止まって、後ろを振り返る。
そこには、数人の黒タイツ。驚いたのもつかの間、近づいてくる彼らから逃げるかのように前へ走り出す。しかし待ち構えていたのか、黒タイツの数人の戦闘員が道端から飛び出してくる。囲まれた。
真ん中に両手を広げて前に立ちふさがるのはライオンの頭の異形。ガードレールが邪魔だ。飛び越えたとしてもまだ稲刈りの終わっていないぬかるんだ田んぼでは、追いつかれるのが容易に想像できる。何しろ彼らの身体能力は自分より上だろう。万事休す。その結論に至って、身構えるしかなかった。
電灯に照らされた黒タイツの顔は窺えない。異形は口から涎を流し、此方に迫ってくる。口元がにやりと歪んだ。気味の悪い笑みと共に涎が路面にポタポタと垂れる。その笑みはまるで諦めろと忠告しているようで、胸糞が悪くなった。
一か八か。自暴自棄に陥ったのかもしれない。不意を突くかのようにライオンの元に走る。もっていた鞄はそのままに、ただただ全力で。一方的な展開を頭の中で思い浮かべていたのだろうか、虚を突かれた様な反応を彼らはした。予想通りだ。
しかしライオン頭の異形はこちらを追うように走り出す。その足の速さは想定通りだった。あっと言う間に追いつかれ、回り込まれる。そして押し倒される。鞄が路面に放り出された。アスファルトの路面が身を打った。背中を剣山で貫かれるような痛みに苦痛の声を上げる。肩を抑えられる。その余りもの力に、もがくにも激痛で体さえ動かない。何とか異形の股間に蹴りを入れる。異形はそれに股間を押さえよろめく。逃げようとするも、すでに戦闘員にこちらは囲まれていた。どうしようもない。異形がこちらに迫る。怒りに燃えるような表情。身がまるで金縛りにでも遭ったのかのように竦んだ。そして、目の前まで歩いてきた異形は何を思ったのかライオン頭の大きな口を開く。牙をむいたその口の中はおぞましかった。牙が見え、それは自らを誇示するのかのように濡れ光っている。暗い喉の奥はまるで見えない未来のようで。それを見た後で、何故自分が現在進行形でこんな目に遭っているのか。そんな事を考えてみた。けれど考えるには時間は短すぎたし、おまけに遅すぎた。
ああ、喰うつもりなんだ。そう思ったけれど、旨くないぞなんてそんなギャグをこの場で吐ける訳が無い。そしてその大口は迫り迫り迫り。全ての時間はスロー再生されたように見え、それでも自分の目は正確に自分が食われる前に、異形が崩れ落ちる光景を映し出し。
だからこそか。その光景が嘘の様に見えて。
長い髪が照らされていた。顔に被ったマスクでその表情は見えなかった。ボディスーツを纏った姿から、女性であることは分かった。その目はこちらを射抜いていた。両手にはナイフが握られていた。周りを一瞥すると彼女は異形と同じ位の速さで突進し、戦闘員を突き飛ばしていく。まるで舞踏でもするのかのように彼女は舞う。戦闘員は吹き飛んでは動かなくなる。
それに気づき憤慨したのか、異形はよたよたと起き上がり彼女に向かって腕を振るう。背中にはナイフが刺さっているのに気づいた。先ほどまで俺を押さえつけていた太く力強い腕が当たれば、ただではすまないだろう。その腕は振り下ろされ、空気を切り裂く鈍い音が耳に伝わる。彼女の長い髪の毛がパラパラと切れた。避け切れなかったのか。
彼女は舌打ちをする。苛立ちが含まれているように見えたそれは、同時に戦いの終わりを意味していた。ナイフが異形の首筋に刺さっていた。彼女はそれを引き抜く。血が勢いよく噴出して、異形はまるで糸の切れた人形のように崩れ落ちる。あっと言う間だった。
「えーと……ありがとう」
異形の背中に刺さっていたナイフを抜き取り、付着した血を拭き取る彼女。礼を言うと、小さく彼女は頷いて、すぐさま走り去ってしまった。その後で自分はある事に気づく。
彼女の服装は、どう見ても正義の味方には見えなかった。そう、まるで悪の組織のような。不可解。そんなことを思う前に体を襲ったのは、体中の痛み。起き上がった体は再び路面に倒れこむ。涙で目が滲んだ。上の電灯の光がまぶしいだけ。そう思おうとしたけど、ごまかせなかった。自分はまた、何も出来なかった。それだけでなく、悪の組織に助けられた。全身を虚しさと憤りが巡る。なんとかよたよたと起き上がって、鞄の中から出てしまった本を中に戻す。まともに歩けそうにも無かった。普段ならなんてことは無い鞄の重さがこの時だけは重く感じた。
翌日、とりあえず回復はして歩けるようになった自分は学校へ向かう。自分の教室に向かうと、いつものように柚香が待ち構えていた。
「おはよう」
歩み寄って来て挨拶される。そこで疑問に気づく。彼女の長い髪は、何故か短くなっていた。あれから髪を切りに行ったのだろうか。
「髪切ったのか?」
柚香はそれに頷く。違和感がある彼女の姿に、俺は無意識の内に何故か昨日遭遇した女性を重ね合わせていた。