そして甘くなる
*他サイトからの転載です。
傍らに眠る男前をじっと見つめながら、小さくため息をついた。
夕べはちゃんと帰ろうって思っていたのに。
もう、二度と会わないつもりでここに来たのに。
二人して裸のままベッドに寝ているのはいつもと同じ。
私の体に腕を巻きつけたまま寝入る様子も普段と変わらなくて、夕べ私が言いたかった言葉を忘れてしまいそうになる。
この一か月悩みに悩んで出した結論を、今更変える事はしたくないけど、いざとなったらやっぱりできなかった。
「創平……」
小さく呟きながら、目の前にある寝顔をじっと見てると、ぴくぴくとまぶたが動いてるのがわかる。
夢でも見てるのかな。
時計は明け方の5時。
ほんの少し前まで私を抱き続けていたから、まだ眠りから覚める事はないはず。
「誰の夢を、見てるの?」
思わず悲しい声が出てしまって、隠してる気持ちがあふれそうになる。
どうにか創平の腕から抜け出すと、その寝顔を忘れないように、しばらく見つめてた。
そして、散らばった服を身に着けて、創平の部屋をあとにした。
創平と付き合いだして5年くらいたつ。
大学時代サークルの先輩だった彼と恋人同士になって、お互い社会人になってもなお、気持ちは通じ合ってた。
二人とも一人暮らしで、休日にはどちらかの部屋を行き来しながら愛し合ってた。
世間的に名前の知られている会社で働く創平は忙しくて、なかなか平日に会える事はできなかったけれど、休日には優先的に私の為に時間を作ってくれていた。
金曜日の晩から一緒に過ごして、月曜日の朝まで、週末のほとんどは一緒にいた。
満たされていたし、それで幸せだった。
少なくとも、私は。
でも、
創平にとってはそれだけでは満たされる事はなかったのかな……。
私が傍にいるだけじゃ、だめだった?
私を抱きしめる腕の強さも、私を見つめる瞳の穏やかさも変わらないように見えるけれど、創平には、私以外に大切な人ができた。
私よりも若くてかわいい、華奢な女の子。
『創平さんと、別れてください』
かわいい外見とは違って、強い口調でそう言われたのは一か月前。
『創平さんと、ホテルに泊まりました』
言われた日は、確かに携帯もつながらなくてメールの返事すらなかった日。
はっと思い当った私に向ける彼女の強気な表情が、私を打ちのめした。
小さな頃から、大切なものができると、ひたすら溺愛してしまう私。
おもちゃでも文房具でも友達でも恋人でも。
一度愛情を注ぎ始めると止める事はできない。
ほんの少しずつ、愛情の勢いは減っていったとしてもなくなることはなく、絶えず穏やかに注ぎ続ける。
創平と付き合い出した時は、既に創平は卒業前で、内定をもらっていた今の会社への期待に満ちていた。
大学時代、ひそかに憧れていた創平からの告白から付き合い出した私達だけど、大学時代の思い出よりも社会人になって慌ただしく付き合っている時間の方が長い。
それが、だめだった?
創平の忙しさを理解しながら、私もできる限り愛情を注いできた。
私だって、創平から一年遅れて働きだしたから、社会人には仕方のないものがあるってわかってる。
会いたいとか寂しいとか、あまり言わずに我慢してたけど、つらくはなかった。
週末抱きしめてくれる温かさがあれば、平気だったのに、創平には、私だけじゃ、だめだった。
この一か月でかなり痩せるくらいに悩みながら何度も、彼女の事を聞こうとした。
毎週会えていた週末が、一週おきになって、電話もメールも減って。
私からかけた電話にも疲れた声でしか話してくれなくなって。
どう考えても、私への気持ちは離れてる。
馴れ合いと、一緒にいた長い時間だけが創平を私につなげてる。
『美依は強いもんな』
どういう会話の流れからかわからないけれど、そう私の事を呟いた電話の向こう。
創平は、どんな気持ちでそんな事を言うの?
私が強いなら、あの彼女は弱いの?
真面目な創平が、私の存在があるのにホテルに一緒に泊まるくらいに、彼女が好き?
その言葉で、私の心は崩れた。
創平が言う、強い私は、崩れて、壊れる前に逃げる事を決めた。
夕べ、創平にさよならを明るく言うつもりで会った。
久しぶりの創平の部屋は、妙に懐かしくて私の私物がいっぱいの空間に涙が出そうになった。
思わず彼女の痕跡がないか神経質になってしまうけれど、さすがにこの部屋にはなかった。
まるで同棲してるようなこの部屋に、新しい彼女。
それも私とはっきりと別れていないうちには連れてこれないよね。
全部を持って帰る事はできないけれど、創平がシャワーを浴びてる間に。
創平からもらった、大切にしていた靴だけをそっと鞄につめた。
お別れを言おうと、緊張していた私は、伸びてきた創平の手に気づかないまま、ベッドに倒された。
それまでと変わらない表情と温かさを与えてくれる創平に、涙が出そうになるのを必死にこらえた。
『なに泣きそうな顔してるんだ?そんなに寂しかったか?』
私の体に触れながらくすくすと笑って、私を抱こうとする創平の事、やっぱり好きで。
拒むなんてできなくて。
さよならを言うつもりが言えなくて。
その代わりに創平の首に腕をまわして、創平を体に刻みこんだ。
いつも以上に積極的な私に、創平も激しくて、本当の恋人同士のような最後の夜。
体中に赤く咲く花達が私の体から消える頃には、この夜の事を忘れられるといい。
* * *
昨日からずっと鳴り響く携帯。
近くに創平がいるかのように、携帯は私に鳴り響く。
昨日の明け方、創平の部屋を出た私は、そのまま飛行機にのって新しい街へと来た。
大学時代から住んでいた部屋は既に引き払っていて、この一週間はホテルに泊まっていた。
そんな私の変化にも気が付かなかった創平との距離を感じて切なくなる。
仕事は、パソコンさえあればどこででもできるから、離れた心だけじゃなくて、体も創平から離れてしまおうと決めていた。
新しく住む街は、創平と付き合い始めた時に初めての旅行で訪れた街。
海辺に立つ白いマンションを二人で気に入って、いつか住みたいなって言ってたのを、きっと覚えてるのは私だけ。
そのマンションに住める事になったのは偶然。
それなりに売れてる小説家の私。
新作の取材で編集の人と偶然来たこの街で、何年かぶりで見かけたこのマンション。
気に入ってるという私に。
『このマンション、俺の叔父のマンションですよ』
とんでもない偶然に驚きつつも、創平の傍を離れると決めてからすぐに空いている部屋はないかを確認してもらった。
新しく始める私の生活は、この部屋から。
運よく空いていた部屋に荷物を運び入れて、一晩中泣いたのは一週間前。
それからはホテルに泊まりながら、創平との別れの日におびえてた。
海が見えるこの部屋からは、創平と一緒に見た灯台も遠くに見える。
ベランダにぼんやりと立って、思いを馳せると涙が浮かぶ。
いつかは、創平の言う『強い美依』に成長できるのかな。
相変わらず鳴り続ける携帯。創平の名前が表示される画面。
手に取ってじっと見ながら、思い切って出た。
気持ちはまだ落ち着いていなくて、心臓は激しくうつけれど。
それでも、ちゃんと言わなきゃ。
さよならを。
「もしもし。創平……」
言い終わらないうちに、怒ったような創平の声が部屋に響く。
『どういう事だよ。今どこにいるんだ。部屋にもいないし。電話も出ないし一体何してるんだ?』
「創平……私、もう傍にいられないんでしょ?」
『は?どういう事だよ、傍にいられないって何の事だ?とりあえず、どこにいるのか言え』
叫ぶような創平の声。いつもの落ち着いた声とはまるで別人で、胸が痛い。
「私…もう帰らない。創平の傍にはいられない」
ようやく告げる事のできた言葉が、創平ではなく私に向かって突き刺さる。
こんなにも好きなのに別れなきゃいけないなんて悲しくてつらくて、その場にしゃがみこんでしまった。
溢れる涙と泣き声が創平に伝わるなんて気にせず、嗚咽を我慢できない。
「うっ…そう…へい…。彼女、私じゃない彼女、いるんでしょ?」
『はあ?何言ってるんだ?』
「彼女…創平とホテルに泊まったって…別れてくれって…」
『おい、美依、なんの事だよ。ホテルに泊まったなんて事ないぞ』
焦って叫ぶ創平の様子に、一瞬訳がわからないまま、涙は溢れたまま。
座り込んで泣きじゃくりながら、携帯を握りしめた。
『おまえじゃない彼女なんていないから。ホテルになんて泊まってないし。一体何を言ってるんだよ。
とにかくどこにいるのか言え』
まるで私が悪いみたいに、それでも焦りを隠せない声で創平は言葉をつなげる。
「でも、ずっと冷たかったし電話もメールもなくて…」
『そんなの仕事が忙しかったからだろ。わかってるって思ってたのになんなんだよ、勝手にいなくなりやがって。
だから早くどこにいるのか言え』
「じゃ、指輪は?創平のスーツのポケットから指輪が落ちてきたもん」
創平と離れる事を決定付けた指輪。
ダイヤと真珠が並んだ指輪は、私のものじゃなかった。
綺麗に輝くその指輪は私のサイズよりも小さくて、あの日あの彼女の指に輝いていた。
それが創平のスーツのポケットから、まるで宣戦布告のように零れ落ちたから。
私は決めた。創平から離れる事を。
『指輪…?もしかして、ダイヤの?』
はっと息をつめたのがわかる。創平が言葉を失って、無言になる。
やっぱり、彼女の指輪だったんだね。
ひっくひっくと泣き続けながら、創平とは終わったんだって体で感じる。
あの指輪に込められた彼女の創平への想いは、創平に伝わってるみたい。
「私、ほかの女の子と創平を分け合うのも、これ以上つらいのも嫌だから、逃げます。
私だけを愛してくれる人じゃなきゃ無理なの…」
そう言って、さよならを言おうとした時。
『ほんと、昔から思ってたけど単純な女だな。指輪ならあの女に突っ返した。もともと勝手に俺のスーツに入れやがったんだ。気付いてすぐにたたき返したから。
で?指輪が失踪の原因?なら解決済みだから。いい加減、居場所を言え』
低い声には本気の怒りが込められていて、電話の向こうにも関わらずすぐそこで怒っているように感じて怖くなる。
それに。創平の言う事が本当の事で、あの指輪には創平の感情も何も混じってなくて彼女が勝手にした事だとしたならば。
創平って、シロ?
続けざまに私の中に溢れるいろんな感情がどうしようもなく混乱を生む。
さよなら。
そう決めたのは、私で。
きっかけは彼女。
とどめはあの指輪。
えっと……。
「あの、彼女って一体……」
恐る恐るそう尋ねると、さっきよりも怒りを増した創平の声が届く。
まるで私を刺すように携帯から伝わってくる。
『取引先の会社の女。俺を気に入ってまとわりついてた。
美依の存在知ってるのにしつこい女。指輪突っ返した時にはっきり言っておいたから、もう寄ってくることはないはずだ。
で?あの女の事を疑って逃げたってわけか?
ふざけんな。そんな軽い気持ちで俺の傍にいたのかよ』
「あ、ごめんなさい……」
『何年俺といるんだ?俺が美依にどれだけ惚れてるかくらいわかってるだろ?
これ以上、お前しか考えられない俺にしないでくれよ。
昨日から、お前の事しか考えてないんだ。
いい加減、お前を抱きしめさせろ。これ以上離れてるなんて気が狂いそうだ』
うわ……。
付き合ってから今までで、一番甘くて嬉しい言葉だ。
いつも、二人で穏やかに。
それでも愛し合ってるってわかってたから安心しながら寄り添っていた。
あからさまに荒れる感情なんて創平から向けられたことはなくて、それは別に不満でもなかったけど。
こうして、現実に言われるって、こんなに幸せなんだ。
きっかけは誉められたものではないし、深く振り返るのも恥ずかしいくらいな私の思い込みと勘違いだけど。
今この瞬間だけを満ちていいなら、過去も未来も無視していいなら、今の私は初めて知る甘い幸せに浸っていたい。
いつの間にかとまった涙の代わりに溢れるのは、苦しいくらいに求める創平だけ。
創平の怒ってる声も、投げやりに聞こえる吐息も、私の不安を煽るけど、それ以上に創平が欲しい。
「呆れた?私の事、嫌になった?」
小さな声でささやくと、一番大きなため息が電話越しに伝わってくる。
『呆れたし、嫌にもなった。もっと言えば、男なら殴ってる』
「やっぱり……」
そうだよね。あたりまえだよね。創平だって感情あるもんね。
私のこの思い込みと単純な思考回路に呆れるし嫌になるよね。
「創平…ごめん…」
『謝るなら直接謝ってくれ』
「私から、離れるんじゃないの?」
『ふん。お前じゃないんだ。嫌な事があったからって簡単に離れるかよ。
そんな軽い気持ちで一緒にいるわけじゃねえし。嫌になっても呆れても腹が立っても離さねえ』
「創平……」
ずっと続く創平の荒い言葉に、ほんの少し胸は痛いけど、それ以上に感じる創平の甘い感情に嬉しくて嬉しくて、何も言えなくなる。言葉を失うくらいに幸せ。
『俺にちゃんと謝って、俺にお仕置きされろ。そうしたら、あんな指輪なんかかすむくらいの指輪をやるから』
とどめ。
甘い甘い創平の感情がむき出しのまま私の体に注がれて、ふわふわと浮いてしまう感覚。
創平に溺れそうになる。あ、もう溺れてるのかな。
早く早く会いたくて。
それでも今は離れてる。私のせいで。
「あの、白いマンションにいるから」
そう言った私の言葉に一瞬の沈黙。それでも、苦笑いしたような創平の声が聞こえた。
『やっぱり』
やっぱり?
嬉しそうな創平の声が電話の向こうから聞こえたけど、理解不能で、どう答えていいやら黙っていると。
『何号室かわかんねえから、ベランダに出ろ』
はっとして、慌ててベランダに飛び出した。もしかしてもしかして。
期待しちゃだめだって言い聞かせながらも鼓動はどんどん跳ねる。
はだしのまま、ベランダから下をのぞくと。
「創平だ……」
携帯を耳にあてたまま、にんまりと笑ってる創平が私を見上げてた。
『簡単に逃がさねえよ』
最上級に嬉しい言葉。
たくさんの聞きたい事も不安も全てを払拭してしまう甘い声に、私の体中が動けなくなって。
そして、創平の為に。
甘くなった。
【fin】