弦月
月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知つて吠える。天を仰ぎ、真実に地面に生きてゐるものは悲しい。
―萩原朔太郎 詩集「月に吠える」序 北原白秋―
ぺたぺたと、アスファルトを舐めながら歩く。ランニングシューズは軽快な音など立てず、僕の背骨は曲がったままだ。夜更けの住宅街は、家々の灯りが賑わしくて、鬱陶しい。開いた窓から、テレビの音が聞こえる。軽薄な笑い声と、内容のない喋りのバラエティ番組なんだろう。
けっ、くだらねえ。
頭の中で毒づいても、それは自分にすら空疎な言いがかりだ。疲れた時に軽い笑いでリラックスするのは、必要なことだと知っている。僕は、何かに毒づきたいだけなのだ。他人に向ければ凶器になるような言葉を、吐きたい。もちろん、反撃されて息も絶え絶えになるのは、僕の方だけれど。
消えてしまえ。
何に向けての言葉だ。アスファルトを舐める足の速度は上がらず、下を向いたまま歩く。通り過ぎた街灯は電球が切れかけて、ウインクしている。一番に消してしまいたいのは、僕かも知れない。ぱっとね、跡形もなく。
鎖に繋がれた犬が、僕に向かって吠える。僕は君の家を、脅かしたりしない。だから君も、僕に悪意を向けたりしないでくれ。
川沿いの道に出る。暗い遊歩道に、水の流れる音が聞こえる。やっと僕は背筋を伸ばすことができる。
うるさい携帯電話は置いてきた。住宅の灯りも、ここには届かない。夕方に軽快な足取りで走っていくジョガーたちも、暗い道は走らない。
ここにいようか。
川に向かって、声を出さずに叫ぶ。僕を取り巻くすべてを罵倒し、足元の草を蹴り飛ばす。これが、僕の精一杯だ。欲しいものは山ほどあって、成績だとか気の置けない友達だとか、誰もが魅了される喋りだとか、それが手に入らないなら、生きることの意味はあるのだろうか。
川面に映った白い月には、手を触れることはできない。あれは「なりたかった僕」だ。見えるだけで、実体は何もない。
ぺたぺたと、アスファルトを舐めながら戻る。救急車のサイレンに、犬が呼応する。
fin.