第078話「番外編『戦場の魔狼』:魔狼過去!戦火?拾子?」
迷宮都市メレンゲを治めるビアンコ男爵邸。
その地下深くにある広大な倉庫には、ひんやりとした静寂と、カビと古い鉄が混ざったような独特の匂いが立ち込めていた。
「……ゴホッ。
まったく、少し掃除を怠るとすぐにこれだ。
使用人たちには、この奥の区画にはあまり入るなと言い含めてあるからな」
薄暗い魔石ランプの灯りの中、恰幅の良い、しかし一切の贅肉を感じさせない引き締まった体躯を持つ初老の男――ウルファング・ビアンコ男爵は、むせながらも木箱の蓋を開けた。
ロマンスグレーの髪をオールバックに撫でつけ、顔には歴戦の猛者であることを示す無数の古傷が刻まれている。
その太く節だった指先が、埃を被った数々の武具や魔導具を愛おしそうに撫でていた。
「仕方ありませんよ、あなた。
ここは私たちにとって、色々な思い出が詰まった『宝物庫』のようなものですから。
……ふふっ。ほら、ここを見てくださいな」
ウルファングの傍らで、ランプの灯りを掲げるひとりの女性が優しく微笑んだ。
彼女の名前はメリア。
ビアンコ男爵の正妻であり、かつてウルファングが冒険者だった頃から苦楽を共にしてきた、かけがえのない伴侶である。
年齢を重ねてなお、その立ち振る舞いには凛とした気品があり、若き日にはさぞかし腕の立つ冒険者であっただろうことを窺わせる、しなやかな身のこなしを保っていた。
メリアが指差した先。
そこには、かつて木箱が積まれていたであろう隙間に、小さな子供が潜り込めるほどの空間と、クズ魔石を削ったような細かい破片が散らばっていた。
「……ああ。
あいつの、秘密基地だった場所だな」
ウルファングは目を細め、その小さな空間を見つめた。
愛娘、ロザリオ。
王家からの理不尽な重圧から逃れるため、彼女がこっそりとこの倉庫に忍び込み、換金用のクズ魔石を漁っていた場所だ。
「本当に、あの子は昔からお転婆で、すばしっこくて……。
私たちに内緒で、こんな所でこっそり資金稼ぎをしていたなんてね」
「全くだ。
俺の目を盗めると思っていたのだから、大した度胸をしている。
……もっとも、あいつがここでガラクタを漁っていることなど、最初の数日でとうに気付いていたがな」
ウルファングは苦笑を漏らしながら、手近な木箱に腰を下ろした。
ロザリオの横領。
家出の資金繰り。
元S級冒険者であるウルファングの索敵能力や情報網をもってすれば、そんな子供の浅知恵など、手に取るように分かっていた。
それでも彼があえて黙認し、時には気付かないフリをしてクズ魔石の入った箱を手の届く場所に置いてやったのは――彼なりの、不器用な『親心』に他ならなかった。
「……あいつに、窮屈な思いばかりをさせてしまった。
父親らしいことなど、何一つしてやれなかったな」
ウルファングの呟きに、メリアは静かに首を横に振った。
「そんなことはありません。
あなたは、誰よりもあの子を愛していました。
あの子も、きっとそれは分かってくれているはずです」
メリアの優しい言葉に、ウルファングは目を閉じ、遠い過去の記憶へと意識を沈めていった。
◇
ウルファング・ビアンコ。
かつての彼は、貴族などという堅苦しい身分とは無縁の、荒くれ者の冒険者だった。
異名は『戦場の魔狼』。
彼が率いたパーティー『フェンリルの牙』は、冒険者ギルドにおいて最高峰のS級に君臨し、その名を知らぬ者はいないほどの生ける伝説であった。
ウルファングの戦闘スタイルは、極めて特異で、かつ破滅的なものだった。
『強化系・外纏魔法』
自身の肉体に限界を超えた魔力を纏わせ、あらゆる武具に魔法を乗せて魔剣・魔鎧化して戦うエンチャンター。
それは、己の命と引き換えに爆発的な身体能力と破壊力を引き出す、諸刃の剣であった。
心臓を強制的に早鐘のように打たせ、筋肉の繊維が引き千切れるほどの負荷をかけながら、敵陣のど真ん中へ単騎で突撃する。
その姿はまさに、血に飢えた魔狼そのものだった。
転機が訪れたのは、隣国からの大規模な侵攻作戦が勃発した時だった。
劣勢を強いられた正規軍の崩壊を防ぐため、傭兵ギルドから冒険者ギルドへと緊急の救助要請が下った。
その時、たまたま手が空いていたというだけの理由で、ウルファングたち『フェンリルの牙』は戦場へと駆り出された。
圧倒的な暴力の渦。
泥と血に塗れた最前線で、ウルファングは自身の限界を突破する魔法を起動した。
全身から赤い蒸気を噴き出しながら、数千の軍勢を単騎で蹂躙し、敵将の首をその大剣で刎ね飛ばしたのだ。
周囲の期待を遥かに超えるその武勲により、侵攻は完全に阻止された。
結果として、侵略を受けていた領地の宗主である公爵家から、ウルファングに対して破格の恩賞が与えられることとなった。
それが、魔物流出が激しく開発が手付かずだった『辺境のダンジョン領地』の割譲と、男爵への叙爵であった。
「貴族なんて柄じゃねぇ」と最初は断ろうとしたウルファングだったが、長年の無理がたたり、パーティーメンバーたちも満身創痍であった。
仲間たちの安住の地を作るため、彼はその土地を受け入れた。
そして、己の力でダンジョンを踏破し、魔物の流出を完全に制御下に置いた。
そのダンジョンの周囲に切り拓かれた街こそが、現在の迷宮都市メレンゲの始まりである。
領主となったウルファングは、パーティーの癒やし手であり、長年彼の無茶な戦いを背後から支え続けてくれたメリアを妻に迎えた。
叙爵の時には既に婚姻関係にあったため、貴族特有の面倒な家格問題などに巻き込まれることもなく、二人は静かで平穏な生活を手に入れたはずだった。
だが、運命は彼らに残酷な試練を与えた。
待望の、第一子の妊娠。
ウルファングは天にも昇る気持ちでその日を待ちわびた。
しかし、過酷な冒険者生活でメリアの体には見えない毒や呪いのダメージが蓄積していたのだろう。
冷たい雨が降る夜。
生まれたばかりの小さな命は、産声を上げることもなく、静かにその灯火を散らした。
死産だった。
ベッドの上で、動かない赤子を抱きしめながら、声も出さずに涙を流し続けるメリアの姿を、ウルファングは一生忘れることができなかった。
さらに残酷なことに、その時の母体へのダメージにより、メリアは二度と子供が産めない体になってしまったのだ。
『男爵様。
永代貴族となられたからには、跡継ぎが必要です』
『ご身内から養子を取るか、あるいは……側室を迎えられるべきかと』
周囲の貴族や家臣たちは、正論という名の刃で彼らを切り裂いた。
だが、ウルファングは激怒し、彼らを怒鳴り散らした。
『ふざけるな!!
俺が愛しているのはメリアだけだ!
跡継ぎがいないなら、俺の代で男爵家など潰れても構わん!
側室などというふざけた真似を抜かす奴は、この俺が斬る!!』
かつての戦場の魔狼の凄まじい殺気に当てられ、それ以降、二度と側室の話を口に出す者はいなくなった。
ウルファングは、メリアただ一人を愛し抜くことを誓ったのだ。
だが、メリアの心の傷が完全に癒えることはなく、広すぎる男爵邸には、常に拭いきれない寂しさが漂っていた。
◇
それから、数年の月日が流れた。
王国から、再びウルファングに対して出兵の勅命が下った。
今度の標的は、隣国である『聖リプトーン教国』。
武闘派であるソーヴィニオン王国の高圧的な対外政策の一環であり、別ルート侵攻の先陣として『戦場の魔狼』の部隊が投入されることになったのだ。
戦況は凄惨を極めた。
教国側の国境の砦を陥落させ、衛星都市への侵攻ルートを確保する途中。
たまたま駐留していた教国の精鋭部隊と激突し、熾烈な攻防戦へと発展してしまったのだ。
放たれた無数の火矢や、攻城兵器による容赦のない投石。
泥沼の乱戦の末、ウルファングたちは敵部隊を村の奥へと追い詰めた。
だが、防衛戦の末に窮地に立たされた教国軍は、侵略者である我々に拠点や物資を奪われまいと、苦渋の決断を下した。
足止めと徹底した焦土作戦――彼らは、自国民が残るその村に、自ら火を放ったのだ。
「……自国民ごと焼き払ってでも、我々を止めるというのか」
火の粉が舞う夜空の下。
ウルファングは、祖国防衛のために手段を選ばなくなった敵の凄絶な覚悟と、燃え盛る村を見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
どれだけ綺麗事を並べても、戦争を仕掛けたのはこちらの国だ。
我々が侵略者である以上、彼らをそこまで追い詰め、この惨劇を生み出した罪は、間違いなく自分たちにある。
焦げた匂いと、血の匂い。
自らの業の深さに耐えながら、瓦礫の山と化した村で生存者の捜索を指示していたその時だった。
『閣下!
こちらへ!
生存者が……奇妙な赤子がおります!』
瓦礫の捜索にあたっていた配下の兵士から、切羽詰まった、そして何かに怯えるような声で報告が上がった。
ウルファングは直ちに駆け寄り、兵士たちが跳ね除けた分厚い石壁の残骸の下、奇跡のように出来た空洞を覗き込んだ。
そこで泣き叫んでいたのは、淡い、神聖な光に包まれた、ひとりの赤子だった。
兵士たちが恐れおののくのも無理はない。
周囲の業火や熱を一切寄せ付けないほどの、純粋で温かい光をその身から放っていたのだから。
それは、教国に生まれるはずだった『聖女』の魔力そのものだったのかもしれない。
だが、その時のウルファングは、ただその異常な力と存在の意味を瞬時に理解していた。
(この力……他国に渡してはならん。
だが、我が国に知られればどうなるか……)
血と泥に塗れた巨大な手で、ウルファングは兵士に代わって自らその小さな命をそっと抱き上げた。
赤子はウルファングの顔を見ると、ピタリと泣き止み、ふにゃりと無邪気な笑顔を見せた。
その瞬間、ウルファングの胸の奥で、冷たく凍りついていた何かが熱く溶け出していくのを感じたが、それ以上に、戦士としての直感が彼に危険を告げていた。
「お前たちは引き続き生存者を探せ。
俺は、事の次第を上層部に報告してくる」
ウルファングは赤子を外套に包み込むと、部隊の指揮を副官に任せ、休むことなく王都へと早馬を飛ばした。
この特異な力を持つ赤子をどう扱うか、それは一介の男爵が決められることではない。
◇
夜を徹して駆け続け、たどり着いたのは王都ブランの王城の奥深く。
黄金の玉座から見下ろす国王デラウェアの瞳には、冷酷なまでの計算と、軍事力への貪欲な執着が渦巻いていた。
『ウルファング・ビアンコよ。
卿が戦火の中で拾ったというその赤子……報告通り、極めて稀少な聖属性の使い手であるようだな』
玉座の間に響く王の声は、一切の感情を排していた。
『我が国にとって、特記戦力たり得る至宝だ。
その赤子をビアンコ家の養女とし、出自を隠して育てよ。
そしていずれ我が王家へ輿入れさせ、国の切り札とするのだ』
それは提案ではなく『絶対の勅命』だった。
この赤子を、王家という黄金の鳥籠に閉じ込め、国の兵器として、あるいは血を残すための道具として献上しろというのだ。
『……陛下。
承知いたしました。
このウルファング・ビアンコ、命に代えましても』
ウルファングは床に額を擦り付け、深く頭を下げた。
戦火の中で拾った奇跡の命は、この瞬間から「いずれ奪われる運命」を背負わされたのである。
◇
領地であるメレンゲへと帰還したウルファングは、長旅の疲れもそのままに、妻メリアの元へと向かった。
外套に包まれた小さな膨らみを、そっとメリアの腕の中に抱かせる。
『あなた……
その子は……?』
メリアが驚いたように瞳を丸くする。
ウルファングは、奥歯を噛み締めながら、真実を告げた。
『……侵略した村の最後、焼け落ちた家屋から救い出された孤児だ。
王命により、我々の養子とする。
……だが、いずれは王家に差し出さねばならんのだ。
国の切り札としてな』
その非情な運命を聞いて、メリアの目から大粒の涙が溢れ出した。
だが、彼女は腕の中の温かい命の重みに歓喜し、泣き笑いのような表情で赤子を強く抱きしめた。
死産を経験して以来、彼女が初めて抱く「生きている赤子」の温もりだった。
『……いずれ奪われるとしても。
せめてその日が来るまでは、自由に、愛されて育ってほしい……』
『ああ。
俺たちの子供として、ありったけの愛情を注ごう』
二人はその赤子に『ロザリオ』という名を与えた。
神への祈りのような、その名を。
ロザリオは活発で、泥だらけになって遊ぶのが大好きな、太陽のような少女に育っていった。
ウルファングもメリアも、ただ彼女が健康で、笑顔でいてくれるだけで良かった。
貴族の令嬢らしくなんてなくてもいい。
ただ自由に生きてくれれば、それでいいと。
二人は心からそう願っていた。
だが、王命という名の呪縛は、確実に彼女の自由を奪い去ろうとしていた。
◇
ロザリオが成長するにつれ、彼女には苛烈な『淑女教育(妃修行)』が強制されるようになった。
王族の妃となるため、完璧な作法、知識、教養を身につけさせなければならない。
それは、活発なロザリオにとって、地獄のような苦痛だった。
『お父様……!
嫌です、私、こんなことしたくありません……!』
泣きながらすがりついてくるロザリオの小さな手を。
ウルファングは、心を殺して、冷たく振り払わなければならなかった。
『……泣く暇があるなら、机に向かえ。
お前はビアンコ家の令嬢として、完璧でなければならないのだ』
氷のように冷たい態度で接するたびに、父親としての心は音を立てて千々に砕け散った。
もっと自由に遊ばせてやりたい。
泥だらけになって笑う顔を見ていたい。
だが、王命を果たせなければ、彼女の命すらないかもしれないのだ。
ウルファングは知っていた。
厳しい教育のストレスから、ロザリオが深夜、裏庭の古びた倉庫で、庭師から貰った丸太(木人)を殴り飛ばして粉砕していることを。
元S級冒険者の気配察知能力からすれば、夜な夜な響く打撃音や気迫など、手にとるようにわかっていた。
(すまない……
すまない、ロザリオ……)
娘の苦しみを知りながら、止めることができない無力感。
ウルファングは自室の暗闇の中で、血を吐くような思いで拳を握りしめることしかできなかった。
◇
そしてロザリオが10歳になった年。
ついに絶望の顔合わせの日がやってきた。
王都へ呼び出され、王族一家との対面の場に引き出されたのだ。
国王、王妃、第一王子キャンベル、そして第二王子アーリー。
キャンベルからは家格を理由ににべもなく拒絶された。
それだけならまだ良かった。
だが、第二王子アーリーの口から出た言葉は、ウルファングの尊厳を根底から踏みにじるものだった。
『私がハーレムを作ってそこに入れるのではどうですか?
もちろん側室としてです。
それならば、まあ、置いてあげてもいいですよ』
屈辱だった。
愛する娘を、ただの側室として扱うような言い草。
だが、国王はそれをあっさりと承諾してしまった。
(……俺は、無力だ……!!)
どれほど強大な魔法を操ろうとも。
何千の敵兵を薙ぎ払う力があろうとも。
『国家』という巨大な機構の前では、一個人の力など無に等しい。
愛する妻と娘を守るためには、この理不尽な命令に従う以外の選択肢は、どこにも残されていなかった。
王都からの帰りの馬車の中で、ウルファングは一人、血の涙を流した。
そして屋敷に戻った後、書斎にロザリオを呼び出した。
『……お前に、拒否権はない』
ウルファングは、震える声を必死に抑え込み、冷徹な父親の仮面を被って娘に告げた。
『既に話はついている。
お前が物心つく前にだ。
まずは近々入学する学園で、第二王子アーリー様との縁を作りなさい』
絶望に染まる娘の顔を見つめながら、彼は心の中で血の涙を流し続けた。
『とにかく、言う通りにするのだ。
これは王命でもある。
逆らえばビアンコ家は終わりだ』
(許してくれ……ロザリオ……!
お前を生かすためには……こうするしか、なかったんだ……!!)
喉の奥から込み上げる血を飲み込みながら、ウルファングは非情な宣告を下した。
それが、彼にできる唯一の、そして最も残酷な『父親としての役目』だったのだ。
◇
「……あなた?」
不意に、優しく肩を叩かれる感触に、ウルファングはハッと我に返った。
地下倉庫の薄暗い灯りの中、妻のメリアが心配そうに彼の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫ですか?
酷い顔色ですよ。
また、昔のことを思い出していたのですね」
「……ああ。すまない、メリア。
俺は、本当に駄目な父親だった。
あいつを王家から守ることもできず、ただ苦しめることしかできなかった」
ウルファングが自嘲気味に笑うと、メリアは静かに寄り添い、その大きく分厚い手を両手で包み込んだ。
「いいえ。
あなたは、私たちの家族を、領民を守るために最善を尽くしました。
あの子に厳しく当たらなければならなかったあなたの心が、どれほど血を流していたか……私には、痛いほど分かっていますよ」
メリアの温もりと言葉が、ウルファングの冷え切った心を少しずつ溶かしていく。
「それに……」
メリアはふふっと小さく笑い、倉庫の片隅に散らばるクズ魔石の残骸を見つめた。
「あの子は、私たちが思っている以上に、ずっと逞しく育ってくれましたからね。
自らの力で、運命を切り拓くくらいには」
ウルファングもまた、妻の視線を追い、フッと口元を緩めた。
そうだ。
彼らの愛娘は、ただ絶望に打ちひしがれるだけの、か弱いお姫様などではなかったのだ。
※2026/03/16
微修正




