第106話「生命神秘!覚悟?宣告?」
ブォンッ!! ブォォォォォンッ!!
「ふっ!
はぁっ!
せいりゃぁぁぁぁっ!!」
ドゴォォォォォォォンッ!!!
気合の入った掛け声と共に、巨大な岩石が木っ端微塵に粉砕され、土煙が舞い上がる。
いつもの日常。
いつもの裏庭。
いつもの、モーニングスターによる日課の岩砕きだ。
ソーヴィニオン王国と聖リプトーン教国の間で休戦が締結されてから、数年の月日が流れていた。
私は早々にお父様から当主の座を受け継ぎ、アスパルテーム伯爵家の現当主として、マルチトールの妻として、昼夜ともに忙しくも充実した日々を送っている。
愛する夫の献身的なサポートのおかげで、懸念されていた心臓の発作もすっかり鳴りを潜め、こうして毎日元気に鈍器を振り回すことができるまでに体調は安定していた。
「ふぅ……!
今日もいい汗かいたわね。
やっぱり、運動はこれに限るわ。
さて、そろそろシャワーでも浴びてこようかしら」
私は額の汗を拭い、心地よい疲労感と共に日課の運動を切り上げることにした。
◇
場面は変わり、アスパルテーム家の静かで広大な書庫。
高い天井まで届く本棚に囲まれたその空間は、インクと古い紙の匂いに満ちており、外界の喧騒から切り離されたような落ち着きがあった。
運動を終えてシャワーを浴び、さっぱりした私がソファでくつろいでいると、分厚い本を抱えた夫――マルチトールが足音を忍ばせて近づいてきた。
彼は結婚してからというもの、少しだけ背が伸びて大人の顔つきになったが、その穏やかな雰囲気は出会った頃のままだ。
「パルスエット。
たまには読書もいいですよ。
いつも外で運動ばかりでは、日焼けもしてしまいますし、少しは静かな時間を過ごすのも健康に良いかと」
「え〜、本なんて見ると目が滑るのよね……。
それに、日焼けなんて健康の証じゃない」
私がソファに寝転がりながら文句を言うと、マルチトールは苦笑しながら私の隣に腰を下ろした。
「そう言わずに。
この本、物語としてもとても面白いんですよ。
ほら、昔の童話集です」
マルチトールが差し出してきたのは、美しい意匠の装丁が施された、少し古びた童話集だった。
私はその表紙の模様を見た瞬間、ふと懐かしさに目を細めた。
「……あ。
その本、小さいころに亡くなったお母様が、よく私に読んでくれたものだわ」
「お義母様が……?」
「ええ。
私がまだ幼い頃だったから、お母様の顔はうっすらとしか覚えてないんだけど。
寝る前にその本を優しい声で読んでくれたことだけは、はっきりと覚えてるのよ」
私は本を撫でながら静かに語った。
私のお母様。
先代の『絶鎧アスラムテイル』の契約者であり、凄腕の魔法戦士だった。
私を産んだ数年後……出先で突然倒れ急死したとのことから、彼女も私と同じように心臓に爆弾を抱えていた可能性がある。
心筋梗塞か脳卒中か。
いずれにせよ、お父様が駆けつける間もなく、回復魔法での治療すら間に合わないほどの唐突な死だった。
「お母様は出先で突然倒れてそのままだったそうだし、私みたいに心臓が弱かったのかもしれないわね。
やっぱりうちの家系なのかな〜」
私が軽く笑いながら言うと。
「……ッ!
パルスエット。
縁起でもないことを言わないでください」
マルチトールが、いつになく厳しい顔で私の言葉を遮った。
その顔には、隠しきれない不安と恐怖が浮かんでいる。
出会ったあの日から、私の病状を誰よりも深く知り、あらゆる知識を総動員して私を死の淵から遠ざけようとしてくれている彼だからこそ、その言葉は冗談でも聞きたくなかったのだろう。
「あはは、ごめんごめん!
冗談よ!
今の私はマルチトールのおかげでピンピンしてるもの!
まだまだアンタを置いて死んだりしないわよ」
「……当然です。
私が、そうはさせません。
あなたの傍には、私がいるのですから」
マルチトールはホッとしたように息を吐き、私の手を優しく握りしめた。
「でも、やっぱり文字見ると眠くなっちゃうのよね。
……マルチトール、読んで〜」
「もう、仕方ないですね。
少しだけですよ」
マルチトールは呆れながらも嬉しそうに本を開き、落ち着いた、心地よい声で朗読を始めた。
「むかしむかし、あるところに……」
私は彼の方に身を寄せ、静かに目を閉じる。
彼の穏やかな声と、微かに聞こえるページをめくる音。
インクの匂いと、彼の温もり。
平和で、穏やかで、満ち足りた幸せな時間が流れていた。
――だが。
その平穏は、唐突に破られた。
「……っ」
ドクンッ、と。
心臓が、今までとは違う、不規則で暴力的な脈打ちをした。
全身の血の気が一気に引いていく感覚。
胸の奥をギリリと雑巾のように締め付けられるような、鋭く重い痛み。
「あ……ぅ……っ……」
「パルスエット……?
パルスエット!!」
私は胸を両手で強く押さえ、ソファからずり落ちそうになる。
バサッ、とマルチトールの手から本が床に落ちる音がした。
マルチトールが弾かれたように本を捨て、必死に私を抱きとめたのだ。
息ができない。
空気を吸おうとしても、肺が拒絶しているように酸素が入ってこない。
視界が白く明滅し、耳鳴りが大きくなっていく。
久しぶりの、そして今までで一番重い発作だった。
「誰か!
すぐに医師を呼べ!!
早く!!
しっかりしてください、パルスエット! 私を見て!!」
マルチトールの悲痛な叫び声が、書庫に響き渡る。
私は彼の必死な顔を見つめながら、暗い意識の底へと沈んでいった。
◇
「……ん……」
気がつくと、私は自室のフカフカのベッドの上に横たわっていた。
窓からは西日が差し込んでおり、どうやらあれから数時間が経過しているようだった。
微かに漂う薬の匂い。
「パルスエット!
気がついたのですね……!」
ベッドの傍らで私の手を強く握りしめていたマルチトールが、涙ぐんだ目で身を乗り出してきた。
その顔色は青白く、彼自身が倒れてしまいそうなほどに憔悴している。
そして、部屋には彼だけではなかった。
「おお……!
パルスエット……!
よかった、気が付いたか……!」
急を聞いて隠居先の別棟から飛び込んできたのだろう、お父様(前伯爵)が、目を真っ赤に腫らして私の足元にすがりついている。
さらに虚空には、知性を持つ魔法の鎧――アスラムテイルの幻影が、激しく揺らめきながら私の無事を確認するように浮遊していた。
「マルチ、トール……。
お父様も……。
ごめん、なさい……ちょっと、立ちくらみが……」
私が弱々しく微笑んで身を起こそうとすると、部屋の隅に控えていたアスパルテーム家お抱えの老医師が、静かに進み出てきた。
「こんなもの『立ちくらみ』ではありませんよ。
……先生、パルスエットの容態はどうなのですか。
心臓に、何が起きているのです」
マルチトールが医師を促す。
老医師は私を見つめ、いつになく酷く重い表情で、ゆっくりと口を開いた。
「……当主様。
お知らせすべきことが二つございまして…
まずは、お喜び申し上げます。
当主様は、ご懐妊されております。
新しい命が、そのお腹に宿っておられるのです」
「……えっ」
マルチトールが息を呑む音がした。
お父様も目を見開き、アスラムテイルの幻影も一瞬だけピタリと動きを止めた。
「か、懐妊……?
パルスエットが……私の、子供を……?」
マルチトールの瞳に、一瞬だけ、信じられないほどの歓喜の光が宿る。
だが、老医師の言葉は、その喜びを無残に打ち砕くものだった。
「ですが……
二つ目として同時に、最悪の宣告をしなければなりません」
老医師は悲痛な面持ちで、私とマルチトール、そしてお父様を交互に見つめた。
「当主様の心臓は、ただでさえ日常の負担に耐えるのが精一杯の状態です。
そこに、『出産』という母体への想像を絶する巨大な負担が加われば……」
老医師は言葉を区切り、重く告げた。
「心臓が耐え切れないかもしれません。
お腹の子が大きくなるにつれて血流の負担は増し、それにより心不全を引き起こす可能性も極めて高い。
……最悪の場合、出産前に命を落とすことになります」
静寂。
部屋の空気が、完全に凍りついた。
「……い、命を……落とす?」
マルチトールの手から、力が抜け落ちる。
彼は信じられないものを見る目で、老医師を凝視した。
「な、なら……どうすればいいのですか!
魔法で……回復魔法で、心臓を補強することはできないのですか!?」
「そうですとも!
金に糸目はつけん!
国で一番の神官を連れてくれば……!」
マルチトールとお父様が必死にすがるが、老医師は深く頭を下げた。
「マルチトール様も、前伯爵様もご存知の通り、当主様はあらゆる聖属性の治癒や加護を無効化する『アンホーリー属性』をお持ちでございます。
高位の神官の回復魔法も、高価なポーションも、当主様の体には一切の効果を発揮いたしません。
……我々の医学と魔法では、どうすることもできないのです」
「……そんな……」
マルチトールは膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。
お父様もその場にへたり込み、「なんということだ……」と天を仰いだ。
私は、黙ってその様子を見つめていた。
驚きはなかった。
恐怖もなかった。
「……先生。
ありがとうございます。
もう、下がっていただいて結構ですわ」
私が静かな声で告げると、老医師は一礼し、足早に部屋を退出していった。
部屋に残されたのは、私と、泣き崩れる家族たち、そしてアスラムテイルの幻影だけ。
「……マルチトール。
お父様、それにアスラムテイルも」
私がそっと呼びかけると、彼らの視線が私に向いた。
「実はね。
私、少し前から気付いていたのよ。
自分の体に、新しい命が宿っていることに」
「気付いて……いたのですか?」
「ええ。
でも、言えなかった。
……言ったら、アンタやアスラムテイル、それに過保護なお父様が、絶対に反対するって分かっていたから」
私の告白に、マルチトールは弾かれたように立ち上がった。
「反対するに決まっているでしょう!!」
普段は温厚な彼が、かつてないほどの大きな声で叫んだ。
「出産があなたの命を奪うというのなら……私は、そんなもの望みません!
私は、あなたに生きていてほしい!
子供を諦めてでも、あなたの命を優先したいのです!」
彼は私の肩を掴み、ボロボロと涙をこぼしながら訴えかけてくる。
「マルチトールの言う通りだ!
パルスエット、お前の命が第一だ!
お前が死んでしまっては、元も子もないではないか……!」
お父様も、顔をくしゃくしゃにして泣き崩れている。
さらに、アスラムテイルの思念波が、部屋中に響き渡った。
(パルスエット、馬鹿なことは考えるな!!
お前の『アンホーリー属性』を忘れたのか!
産前産後のダメージを、回復魔法で癒やすこともできないのだぞ!
絶対防御の私であっても、『出産』による心臓の負担という内部の事象からはお前を一切守れないのだ!
死ぬ気か、パルスエット!!)
夫と、父と、相棒。
私を誰よりも愛し、誰よりも心配してくれる三人からの、決死の猛反対。
彼らの言うことは、何一つ間違っていない。
合理的に考えれば、私の命を優先するのが当然の選択だ。
だが。
「……みんな。
私のことをそこまで大切に想ってくれて、本当にありがとう」
私はベッドからゆっくりと体を起こし、真っ直ぐに三人を見つめ返した。
「でもね。
自分の体が普通じゃないことくらい、私が一番よくわかってるのよ」
私は、そっと自分のお腹に手を当てた。
まだ膨らみもない、平らなお腹。
だが、そこには確かに、小さな、小さな命の鼓動が感じられるような気がした。
「私の命が、普通の人みたいに長くないかもしれないことは、最初から分かっていたことだわ。
どんなに気をつけていても、明日、心臓が止まってしまうかもしれない」
私はマルチトールの頬に手を伸ばし、その涙を指で優しく拭った。
「私の命が長くないなら、なおさらよ。
なおさら私は、私が生きた証を……愛するあなたとの結晶を、この世に残したいの。
……絶対に産むわ」
私の声は、静かだった。
けれど、そこにはいつものような強がりや、お転婆な我儘は微塵もなかった。
あるのは、一人の女性としての、そして『母』としての、揺るぎない強さと覚悟だけだった。
「私の命と引き換えになったとしても。
この子だけは、絶対にこの世に産み落としてみせる。
それが、私の選んだ生き方よ」
圧倒的な生命力。
そして、燃え盛るような決意。
それを前にして、マルチトールもお父様もアスラムテイルも、完全に言葉を失っていた。
彼女の魂の輝きが、彼らの理屈や懸念をすべて吹き飛ばしてしまったのだ。
やがて。
「……負けました」
マルチトールは深く息を吐き、そして、私の手を両手で強く、力強く握りしめた。
その瞳から迷いが消え、確かな覚悟の光が宿る。
「あなたがそこまで覚悟を決めているのなら……。
私はもう、何も言いません。
その代わり、私の全ての知識と、私の命を懸けて、あなたと子供を守り抜きます。
絶対に、二人とも死なせはしない」
「マルチトール殿……。
……わかった。私も、全力で当家を挙げてサポートしよう。
どんな薬草でも、どんな腕利きの医師でも連れてくる」
お父様も、涙を拭って力強く頷いた。
アスラムテイルもまた、深くため息をつくように揺らいだ。
(……本当に、どうしようもない主だ。
お前のその頑固さは、岩よりも硬い。
だが、お前がその道を選ぶというのなら、私も最後まで付き合おう。
内部の事象は防げずとも、外からの如何なるストレスも、私が完璧に弾き返してやる。
安心してお産に臨むがいい)
「ふふっ、ありがとう。
みんな、頼りにしてるわよ」
私は三人に向かって、最高に幸せな笑顔を向けた。
新しい命を守るための、私たちの闘いが始まったのだ。
◇
一方、その頃。
重い足取りで隠居先の執務室へと戻った、前アスパルテーム伯爵は、眉間に深い皺を寄せて、デスクの上に広げられた急報の書類を睨みつけていた。
「申し上げます、前伯爵閣下!!」
扉が乱暴に開かれ、泥だらけになった早馬の使者が飛び込んでくる。
「隣国『聖リプトーン教国』との国境付近にて、小競り合いが激化!
敵軍の動きが著しく活発化しており、大規模な武力衝突は避けられない情勢です!
……全面戦争の気配が、強まっております!!」
「……ついに、動き出したか」
前伯爵はギリリと奥歯を噛み締め、その顔色を土気色に変えた。
ソーヴィニオン王国の鷹派が望む戦争。
そして、それを迎え撃つ聖リプトーン教国の狂信的な軍勢。
娘パルスエットの妊娠という、命を懸けた決意の裏で、世界は着実に、そして確実に、血なまぐさい戦乱の渦へと引きずり込まれようとしていた。
忍び寄る戦争の影は、母となる覚悟を決めたパルスエットの運命を、さらに過酷なものへと変えていくことになるのである。




