第105話「秘密決意!愛情?祈願?」
教国との間に結ばれた一時的な休戦協定により、アスパルテーム伯爵家の領地には、戦火の影を感じさせない穏やかで平和な時間が流れていた。
血で血を洗うような凄惨な最前線から帰還した私は、マルチトールの献身的な看病の甲斐もあって、すっかり体調を取り戻していた。
あの日、陣幕で大量に吐血したのが嘘のように、今は胸の痛みも動悸も治まっている。
「パルスエット。
お茶が入りましたよ。
今日は、心臓の負担を和らげる薬草に加えて、安眠効果のあるカモミールを少し多めにブレンドしてみました」
本邸の裏庭、心地よい風が吹き抜ける木陰のベンチ。
いつものように、私の愛する夫――マルチトールが、真っ白なティーセットを運んできてくれた。
「ありがとう、マルチトール。
アンタのお茶は、本当に世界一美味しいわ」
私が微笑んでカップを受け取ると、彼は少しだけ照れくさそうに目尻を下げ、私の隣に腰を下ろした。
「あなたの体が楽になるなら、いくらでも淹れますよ。
……顔色も、だいぶ良くなりましたね。
本当に、一時はどうなることかと……」
マルチトールは、私の頬にそっと手を伸ばし、愛おしそうに撫でた。
その手は温かく、そして、私を失うことを誰よりも恐れているような、微かな震えを帯びている。
「もう大丈夫よ。
アンタが毎日、こんなに過保護に世話を焼いてくれるんだもの。
私みたいなポンコツな体でも、まだまだ長生きできそうよ」
私は強がって笑ってみせ、彼の手を自分の両手で包み込んだ。
(……長生き、か。
お前のその心臓で、よく言うものだ)
ふいに、私の脳内に重々しい思念が響いた。
知性を持つ魔法の鎧、私と魂のリンクを繋いでいる相棒――『絶鎧アスラムテイル』だ。
彼は現在も、幻影のような姿で私の背後に浮かび上がり、周囲を警戒している。
彼には私の体調の真実が、誰よりも正確に分かっているのだ。
(マルチトールの薬草茶で表面上の痛みは散らせていても、お前の命のろうそくが確実に短くなっていることは、私には痛いほど伝わってくる。
……パルスエット、これ以上は決して無理をするな。
次、あのような戦場に出れば、お前の心臓は耐えきれんぞ)
アスラムテイルの声には、強力なインテリジェンスウェポンでありながら、契約者の病一つ治せない己の無力さに対する深い悲哀が滲んでいた。
(わかってるわよ、アスラムテイル。
でも、今は平和だもの。
休戦協定が結ばれている間は、大人しくしてるから安心して)
私は脳内で相棒にそう返しつつ、手元の紅茶をゆっくりと喉に流し込んだ。
「……パルスエット?
どうかしましたか?
また、アスラムテイルが何かお小言を?」
マルチトールが、私が虚空を見つめて黙り込んだのを見て、苦笑しながら尋ねてくる。
彼にはアスラムテイルの姿は見えても、その声は聞こえない。
「ええ。
『お前は無理をするな、大人しくしてろ』って、相変わらずの過保護ぶりよ」
「ふふっ。
アスラムテイルの言う通りですよ。
彼があなたの外側を守ってくれるなら、私はあなたの内側を守る。
そう約束したではありませんか」
マルチトールは私の肩を抱き寄せ、穏やかな声で言った。
彼のその不器用で、けれど真っ直ぐな愛情が、私の胸をギュッと締め付ける。
私は、彼の肩に頭を預け、目を閉じた。
(……ごめんね、マルチトール。
アスラムテイル)
私は心の中で、誰にも聞こえない謝罪の言葉を紡いだ。
二人は、私の命を少しでも長く引き延ばすために、これほどまでに必死になってくれている。
私のために、全ての時間と労力を捧げてくれている。
でも、私は知っている。
今回の戦いで、私の命の限界はハッキリと見えてしまった。
このポンコツな心臓は、確実に終わりへと近づいている。
それが数年後なのか、あるいは明日なのかは分からない。
だが、私がいなくなった後、この優しくて不器用な夫は一体どうなってしまうのだろうか。
公爵家の三男という立場を捨て、私のためだけに生きることを選んでくれた彼。
私を失えば、彼は生きる意味そのものを失ってしまうのではないか。
彼を一人ぼっちにしてしまう。
それが、私自身の死への恐怖よりも何百倍も恐ろしく、そして悲しかった。
(……だから、残したい)
ベッドでの療養中に感じた思いが、私の中でかつてないほど強烈な根源的な願いとなって燃え上がっていた。
私がこの世界に、一人の人間として生きたという『証』。
そして何より、私が死んだ後も、彼を決して一人ぼっちにさせないための……。
彼と私の『結晶』を。
(……子供が、彼との子供が欲しい)
それは、私の体にとって、文字通り「命を削る」選択になる。
私の心臓は、妊娠や出産という巨大な負担に耐えられるようにはできていない。
確実に、死期を早めることになるだろう。
だからこそ、誰にも相談することはできない。
もし「子供が欲しい」などと口にすれば、お父様も、マルチトールも、そしてアスラムテイルも、絶対に猛反対するに決まっている。
彼らは私の命を第一に考えるからだ。
だから、私はこの決意を、誰にも言わず、密かに実行に移さなければならない。
既成事実を作ってしまえば、もう彼らも反対することはできないはずだから。
「……パルスエット?
本当に大丈夫ですか?
少し、体が強張っているような……」
マルチトールが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「ううん、何でもないわ。
ちょっと、風が冷たくなってきたかしら。
……ねえ、マルチトール。
お部屋に、戻りましょう?」
私は彼を見上げ、わざと甘えるような、艶のある声で囁いた。
マルチトールは一瞬驚いたように瞬きをし、そして、みるみると顔を赤く染め上げた。
「あ……ええと。
は、はい。
そうですね、湯冷めしてはいけませんし……。
……お部屋に、戻りましょうか」
彼は少ししどろもどろになりながら、私の手を取って立ち上がった。
私は彼に手を引かれながら、密かな決意を胸に、館の奥へと向かった。
◇
夜。
自室のベッドルーム。
窓の外はすっかり暗くなり、部屋には淡い魔石ランプの灯りだけがともっている。
分厚いカーテンが引かれ、外の音は一切聞こえない、二人だけの密室だ。
「……パルスエット」
フカフカのベッドの上。
マルチトールが、私の上に覆い被さるようにして、優しく私の名前を呼んだ。
彼の銀色の髪が、私の頬をくすぐる。
その瞳は、熱を帯びながらも、どこまでも優しく、私を壊れ物のように大切に扱おうとする気遣いに満ちていた。
「無理は、しないでくださいね。
少しでも胸が苦しくなったら、すぐに言ってください。
私は……あなたに触れられるだけで、十分に幸せですから」
彼は私の体を気遣うように、とても慎重に、そしてゆっくりと指先を這わせた。
彼のその優しさが、私にはたまらなく愛おしく、そして少しだけ、もどかしかった。
「……バカね、マルチトール」
私は、彼を包み込むようにして、その背中に両手を回した。
そして、彼を強く、私の方へと引き寄せる。
「パルスエット……?」
「そんなに遠慮しないで。
今の私、すごく元気なんだから。
……もっと、私を愛して」
「パルスエット……愛しています。
誰よりも、何よりも……。
あなただけを」
「私もよ……マルチトール」
交わり合う息遣い。
重なり合う肌の熱。
ベッドの軋む音が、静かな夜の部屋に響き渡る。
私の心臓は、激しく脈打っていた。
それが発作によるものなのか、それとも彼との愛の営みによる高鳴りなのか、もう私にもわからなかった。
ただ、この瞬間だけは。
病のことも、短い命のことも、忍び寄る戦争の影のことも、全てを忘れて。
私は一人の女性として、彼という存在の全てを、私の体の奥底へと受け入れていた。
(……どうか。
どうか、私の命と引き換えにしてでも)
波のように押し寄せる快感と、彼への深い愛情の中で。
私はただひたすらに、秘密の祈りを捧げ続けていた。
◇
……数時間後。
情熱的な嵐が過ぎ去り、部屋には再び静寂が戻っていた。
隣では、マルチトールが心地よさそうな寝息を立てている。
彼は私の手をしっかりと握りしめたまま、穏やかな、子供のような寝顔を見せていた。
普段の彼が背負っている気苦労や不安が、この時ばかりは全て消え去っているように見えた。
「……ふふっ」
私は、彼を起こさないようにそっと手を引き抜き、静かにベッドの上に上半身を起こした。
窓から差し込む青白い月明かりが、部屋の中を微かに照らしている。
私は、彼に背を向けるようにして座り、そして……
そっと、両手を自分のお腹に当てた。
まだ平らで、何の変化もないお腹。
だが、今夜の確かな営みが、ここに新しい『命の種』を蒔いてくれたと、私は信じていた。
「……ごめんね、マルチトール。
また、アンタに心配かけることになっちゃうわね。
でも……」
私は眠る彼の銀髪を、指先で優しく梳いた。
「私は、アンタを一人にはしない。
私がこの世界からいなくなっても。
私とアンタの半分ずつを持った子が、きっと、アンタの生きる希望になってくれるはずだから」
それは、究極の自己満足であり、私の最後で最大のワガママだった。
私という人間の生きた証を。
愛する人との結晶を、何としてもこの世に残したい。
「……どうか。
私たちの未来が、授かりますように」
私は静かな夜空に向かって、己の命を懸けた、強烈な祈りを捧げた。
心臓が、微かに痛んだような気がした。
だが、その痛みすらも、私にとっては愛おしい未来への代償のように思えた。
忍び寄る王家の影と、再び迫り来る戦火の気配。
そして、私自身の命の限界。
限られた時間の中で、私は自らの命を懸けた、新たな未来を紡ぐための『秘密の決意』を固めたのだった。
この祈りが現実のものとなり、やがて来る残酷な宣告と、三人の強い絆による闘いが始まるのは、もう少しだけ先のお話である。




