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第100話「運命転機!初恋?鈍感?」


 その日、私――パルスエット・アスパルテームは、父であるアスパルテーム伯爵と共に、広大な大地を走る馬車の中にいた。


 向かっている先は、我がアスパルテーム家の大寄親にあたる、アセスルファム公爵家が治める領地の本邸である。


 平和と交易を重んじる鳩派の筆頭であり、この国の重鎮。

 その財力と権力は王家に次ぐとも言われ、所有する領地の広さや影響力は計り知れない。

 窓の外に広がる、どこまでも続く豊穣な麦畑や、活気にあふれた街並みを見るだけでも、その圧倒的な経済力が窺い知れる。


 そんな大貴族の本邸への定期的なご挨拶は、寄子である我が家にとって、決して失敗の許されない重要な政治的行事である。

 バルスエットが、そのような重要な行事同行する事は初めてであり、普段のお転婆な様子を間近で見ている父のアスパルテーム伯爵や、契約を結んでいる絶鎧アスラムテイルは気が気ではなかった。


「いいか、パルスエット。

 公爵閣下の御前では、くれぐれも粗相のないようにな。

 お前はアスパルテーム家の顔として行くのだ。

 普段のようなはしたない真似は、絶対に、絶対に慎むように」


 向かいの席に座るお父様が、ハンカチで額の汗を拭いながら、すがるような目で私に念を押してくる。

 その顔色は少し青白く、極度の緊張のせいか、しきりに胃のあたりを押さえていた。


「わかっておりますわ、お父様。

 私だって、それくらい弁えられますもの。

 公爵家の方々の前で、いきなりモーニングスターを振り回したりなんていたしませんわ」


 私は手にしたレースの扇子を静かに開き、口元を隠して完璧な淑女の微笑みを作って見せた。

 だが、その私の言葉に反応したのはお父様だけではなかった。


(……その言葉、そっくりそのままお前に返してやりたいものだな。

 そもそも、令嬢がモーニングスターを所持している時点で異常なのだ。

 頼むから、今日という日だけは徹底的にお淑やかに、猫を被り続けろよ)


 私の脳内に、直接重々しい声が響く。

 アスパルテーム家の至宝にして、私と魂のリンクを繋いでいる知性体、『絶鎧アスラムテイル』だ。

 彼は現在、霊体のような思念となって私の周囲を漂っており、私にしかその姿は見えず、声も聞こえない。


(うるさいわね、アスラムテイル。

 心配しなくても、私の『擬態』は完璧よ。

 温室育ちの可憐な令嬢を演じきってみせるわ!)


 私は脳内で力強く宣言し、馬車の窓から外の景色を眺めた。

 やがて、美しく整備された並木道の向こうに、ひと際巨大な門構えが見えてくる。

 アセスルファム公爵家の本邸だ。


 巨大な鉄門をくぐり、綺麗に敷き詰められた白亜の石畳の車寄せへと滑り込む。

 馬車から降り立った私は、目の前に広がる圧倒的なスケールの邸宅を見上げ、小さく息を吐いた。


「……すごいわね。

 お城みたいじゃない」


 白亜の外壁に、美しい彫刻が施された柱の数々。

 無数にある窓ガラスは塵一つなく磨き上げられ、広大な前庭には、見たこともないような珍しい色合いの花々が計算し尽くされた配置で咲き乱れている。

 物怖じするどころか、私の心には純粋な好奇心が湧き上がっていた。


「こら、パルスエット。

 口をぽかんと開けない。

 さあ、行くぞ」


 お父様に促され、私は背筋をピンと伸ばし、優雅な足取りで公爵邸の玄関へと足を踏み入れた。


     ◇


 通されたのは、天井に巨大なクリスタルのシャンデリアが眩いばかりに輝く、豪華絢爛な応接間だった。

 足が沈み込むほど分厚く織り込まれた絨毯の上を進み、私たちはこの館の主であるアセスルファム公爵と対面した。


 柔和な顔立ちの中にも、長年巨大な領地を治めてきた知性と威厳を感じさせるロマンスグレーの紳士。

 それが、現在のアセスルファム公爵であった。


「よく来てくれた、アスパルテーム伯爵。

 そして、そちらが噂のご令嬢かな」


 公爵の温和な視線が、私へと向けられる。

 私はドレスの裾を静かにつまみ、計算し尽くされた完璧な角度と優雅さで、流麗なカーテシーを披露した。


「お初にお目にかかります、公爵閣下。

 アスパルテーム伯爵家の娘、パルスエットにございます。

 本日はお招きいただき、光栄の至りに存じますわ」


 伏し目がちに、鈴を転がすような可憐な声で挨拶をする。

 どこからどう見ても、非の打ち所のない深窓の令嬢だ。


「おお……!

 これはまた、愛らしく立派なご令嬢だ。

 伯爵、貴殿は素晴らしい宝を持っておられるな」


 公爵は相好を崩し、私の完璧な所作を大いに称賛してくれた。

 横に立つお父様も、ホッと胸を撫で下ろして安堵の表情を浮かべている。


(……よし。第一関門は突破だな。

 その調子だぞ、パルスエット。

 くれぐれもボロを出すなよ)


 脳内でアスラムテイルが安堵の息を吐くのが聞こえた。

 私も内心で「チョロいもんね!」とVサインを決める。


 だが、私の「完璧な擬態」の試練はここからだった。

 挨拶が終わると、大人たちはすぐさま難しい顔をして、政治や領地経営、さらには『四大至宝』の維持管理費や、国境付近の防衛ラインについての密談を始めてしまったのだ。


「……近頃の王家の動きは、少々強引が過ぎますな。

 国境付近への唐突な軍備増強も、他国を無用に刺激しかねない」

「ああ、我が家が管理する『滅杖』の運用規定についても、王家から見直しを迫られている次第でな……」


(……退屈。

 死ぬほど退屈だわ)


 私はソファに浅く腰掛け、微動だにせず微笑みを浮かべながら、心の中で盛大な欠伸を噛み殺していた。

 こんなジメジメとした難しい政治の話を聞いているくらいなら、裏庭でモーニングスターを振り回して大岩を砕いている方が、よっぽど有意義だ。


 私が退屈で死にかけているのを察してくれたのか、それとも、これから先は子供には聞かせられない裏の話に入ったからか。

 公爵がふと、私の方を見て優しく微笑んだ。


「パルスエット嬢。

 このような退屈な話に付き合わせるのも酷だろう。

 うちには君と同年代の三男がいるのだ。

 よければ、彼に屋敷の庭でも案内してもらってはどうかな?」


「まあ!

 よろしいのですか?

 とても美しいお庭でしたので、ぜひ拝見したいと思っておりましたわ」


 私は待ってましたとばかりに立ち上がり、再び優雅に一礼した。

 お父様が「くれぐれも……粗相のないように……」と目で訴えかけてきたが、私はにっこりと笑って応接間を後にした。



 公爵家のメイドに案内されてやってきたのは、本邸の裏手に広がる広大な庭園だった。

 幾何学的に配置された噴水から水が心地よい音を立てて弾け、手入れの行き届いた色とりどりの花々が咲き誇る、まさに地上の楽園のような場所だ。


「当家の三男にあらせられますマルチトール様は、いつもあちらの木陰で本を読んでおられます。

 私はここで失礼いたしますね」


 メイドが深々と一礼して去っていく。

 私は彼女が示した方向――巨大な樫の木が作る、涼しげな木陰へと歩を進めた。


 初夏の陽光が葉の隙間から差し込み、芝生の上に光の斑点を作っている。

 その柔らかな木漏れ日の下、真っ白なベンチに座り、分厚い本に顔を埋めている一人の少年がいた。


 私と同い年くらいだろうか。

 アセスルファム公爵家の特徴ともいえる、色素の薄いサラサラとした銀髪に、少しだけ細身で華奢な体つき。

 身なりこそ上等だが、どこか線が細く、賑やかな社交界よりも、静かな図書室が似合いそうな雰囲気だ。


(あの子が、公爵家の三男さんね)


 私が近づく芝生を踏む足音に気づいたのか、少年はゆっくりと本から顔を上げた。


 そして。


「……っ」


 彼は、私を見た瞬間、息を呑んで完全に固まってしまった。


 少年の視界には、どのように映っていたのだろうか。

 初夏の眩しい陽光を浴びて、ふわりと輝くピンク色の髪。

 健康的に少し日焼けした肌と、活気に満ちた赤い唇。

 常に病の影を背負いながらも、それを跳ね除けるように燃え盛る、圧倒的なまでの「生命力」と「屈託のない笑顔」。


 静かで、閉じた本の世界だけで生きてきた文学少年の彼にとって。

 目の前に現れたパルスエットという少女は、まるで暗い部屋に突然差し込んだ強烈な『太陽』のように眩しく、鮮烈だったに違いない。


 彼が生まれて初めて、文字通り「一瞬で心を奪われた」瞬間であった。


 だが、そんな彼の劇的な内面の変化など、脳筋令嬢である私に分かるはずもない。


「ごきげんよう!

 アスパルテーム家の、パルスエットと申します。

 公爵閣下から、お庭を案内していただくよう言われて来たのだけれど……」


 私が明るく気さくに声をかけると、少年はビクッと肩を跳ねさせ、顔を真っ赤にしてしどろもどろになり始めた。


「あ、え、そのっ……!

 ぼ、僕は、マルチトール……アセスルファム、です……。

 お、お庭の案内……!

 は、はい、もちろんですっ、喜んで……!」


 彼は慌てて立ち上がろうとして、手元の分厚い本を落としそうになり、それを不器用に抱え直す。

 私の元気すぎるオーラと、初恋という未知の感情による極度の緊張で完全にテンパっていた。


 私はその様子を見て、内心で容赦のない第一印象を下していた。


(……なんだか、ヒョロくて気弱な男の子ね。

 声も細いし、動きもどんくさいし。

 うちの裏庭の岩なんて、この子が十人いても砕けないわね)


 脳筋基準での冷酷な評価である。

 隣でアスラムテイルが「おい、人を岩を砕く強度で測るな」とツッコミを入れてきたが、無視した。


     ◇


 沈黙が落ちる。

 マルチトールは顔を真っ赤にしたまま、俯いてモジモジしている。

 このままでは案内どころではない。


「あの、マルチトール様。

 先ほど読んでらしたその本、とても分厚いですけれど、どんなお話なのですか?」


 私は沈黙を破るため、彼が抱えている本に話題を振ってみた。


「え?

 あ、これ、ですか……?」


 マルチトールは本を見つめ、少しだけ目を輝かせた。

 緊張はしているようだが、自分の好きな領域の話を振られたことで、少しだけ落ち着きを取り戻したらしい。


「これは……建国記の原典の、そのまた注釈書のようなものでして。

 かつての魔法の成り立ちや、失われた古代文明の歴史が、とても詳細に記されているんです。

 例えば、このページの魔法陣の記述なんかは……」


 彼は訥々と、しかし確かな熱量を持って語り出した。

 その知識量は本物で、同年代の子供が読むような内容ではない。

 非常に博識で、頭の回転が速いことが伺える。


「へぇ……。

 なんだか難しそうですけれど、すごいですね。

 マルチトール様は、歴史がお好きなのですね」


 私は相槌を打ちながらも、内心ではやはり全く違うことを考えていた。


(うーん……。

 文字がいっぱいで、見てるだけで眠くなりそう。

 やっぱり私は、こんな分厚い本を読むより、この本と同じ重さのモーニングスターを振っている方が百倍好きだわ)


 知性へのリスペクトは皆無である。

 だが、彼の語る声は穏やかで、聞いていて不快なものではなかった。


「あ、ご、ごめんなさい!

 僕ばかり、つまらない話をしてしまって……!」


 マルチトールがハッと我に返り、慌てて口をつぐんだ。


「いいえ、そんなこと……」


 私が笑顔で答えようと立ち上がった、その時だった。


「……っ」


 ふいに、胸の奥がキュッと締め付けられるような、不快な痛みが走った。

 心臓が、不規則なリズムで早鐘を打ち始める。

 微かな息切れと、視界の端が白く明滅する感覚。


(……やば。

 発作の、前兆……)


 完全に倒れるほどの強い発作ではない。

 だが、立っているのが少しだけ辛い、微小な不調の波が私を襲った。

 私が顔をしかめ、無意識に胸元へ手をやろうとし、小さく息を荒げた瞬間。


「パルスエット様!

 大丈夫ですか!?」


 アスラムテイルが私の異変に気づいて騒ぎ出すよりも早く。

 目の前にいたマルチトールが、信じられないほどの素早さで動いた。


「ここは日差しが強すぎます。

 無理をしないでください、こちらの木陰のベンチへ!」


 彼は先ほどまでのしどろもどろな態度が嘘のように、的確かつ迅速に私の背中を支え、木陰の最も涼しい場所にあるベンチへと私を誘導した。

 そして、自分が着ていた上等な上着を躊躇うことなく脱ぎ、ベンチの硬い背もたれにクッション代わりとして敷き詰めたのだ。


「さあ、こちらに寄りかかってください。

 呼吸をゆっくりと……」


「あ、ありがとう……ございます」


 私が驚きながらも上着に背を預けると、彼はすぐに近くに控えていた公爵家のメイドに向かって、鋭い声で指示を飛ばした。


「そこの者!

 すぐに温かいハーブティーを用意してくれ。

 動悸を鎮める効果の高いカモミールがいい。

 それと、冷たいおしぼりもだ。急げ!」


「は、はいっ! ただいま!」


 メイドが慌てて走っていく。

 マルチトールは私の顔を覗き込み、心配そうに、けれど決して私を不安にさせないような穏やかな表情を作っていた。


「……少し、動悸がするのでしょう?

 無理にお話しされなくて大丈夫です。

 落ち着くまで、ここで休んでいましょうね」


「…………」


 私は、目を丸くして彼を見つめ返した。


 微かな息切れ。

 自分でも上手く隠したつもりだった、ほんの僅かな不調のサイン。

 それを、出会ったばかりのこの少年は、誰よりも早く察知し、完璧な配慮を見せたのだ。


 お父様やアスラムテイルのような、「大丈夫か!?」と大騒ぎして私を病人扱いするような『過保護で口うるさい優しさ』とは違う。

 私のプライドを傷つけず、ただそっと寄り添い、必要なものだけを的確に提供してくれる。

 どこか不器用だけれど、真っ直ぐで、温かい優しさ。


(……なんだ。

 ただの、ヒョロ気弱君じゃないのね)


 私は彼を見る目を、少しだけ改めた。

 腕力はないかもしれないけれど、この気遣いと視野の広さは、間違いなく彼の強さだ。


(ふむ……。

 我が主の些細な異変に気付くとは。

 この少年、ただの軟弱者ではないようだな)


 脳内で、アスラムテイルも少し感心したように呟いている。


「……ごめんなさい、マルチトール様。

 少しだけ、立ちくらみがしてしまって……。

 もう大丈夫ですわ。

 とても素早いご対応、感謝いたします」


 私が微笑んでお礼を言うと、マルチトールの顔が再びボフッと音を立てて真っ赤になった。


「い、いえ!

 とんでもないです!

 パルスエット様がご無事で、本当によかった……!」


 彼は照れ隠しのように視線を彷徨わせている。


 ……実際のところ、彼がこれほどまでに私の一挙手一投足に集中し、些細な変化に気づけたのは、単に彼が私から片時も目を離せないほど『強烈な恋心』を抱いていたからに他ならない。

 一目惚れした相手だからこそ、息遣いの一つにまで全神経を集中させていたのだ。


 しかし。

 これまで色恋沙汰には一切無縁で、頭の中は「どうやって重い鈍器を振り回すか」でいっぱいだった生粋の武闘派令嬢である私に、そんな甘酸っぱい少年の心理など理解できるはずもなかった。


(ふふっ。

 なんだかちょっと変わってるけど……すごく親切で、いいお友達ができたかもしれないわね)


 そんな、盛大な勘違いと鈍感さを発揮しながら。

 私は運ばれてきた温かいハーブティーを、心地よい木漏れ日の中で、彼と共に美味しくいただいたのだった。


 これが、後に私の伴侶となり、そして愛娘パルスイートの父親となる、文学少年マルチトールとの、運命の――そしてどこまでも噛み合わない――出会いであった。

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