私が嫉妬していた“元カノ”は、前世の私でした
「おはようございます〜」
「おはよう、桃ちゃん。今日もよろしくね」
大学に入ってすぐ、私はこの喫茶店でバイトを始めた。
駅から少し離れた場所にある、小さなお店。老夫婦がふたりで切り盛りしている。
マスターは無口だけど優しくて、奥さんはいつも朗らか。
手作りの料理と静かであたたかい空気が好きで、気がつけばもう二年、ここに通い続けている。
選んだ理由は単純だった。家から近くて、まかないが出るから。
私は奨学金で大学に通い、築50年は超えるボロアパートでひとり暮らしをしている。家賃はなんとか親が出してくれているけど、生活費はすべて自分持ちだ。
だから、“無料のまかない”は、何よりもありがたかった。
しかもこのご夫婦、私の事情を察して作り置きのおかずや生活用品まで分けてくれる。
どれだけ助かっているか、数え切れない。
ここはチェーンでも、人気のカフェでもないからほとんどが常連さんで、一日誰も来ない日だってある。
けれど、このゆるやかで穏やかな日常が、私はとても好きだった。
その日も、いつものようにテーブルを拭きながら一人目のお客さんを待っていた。
カランカラン。
「いらっしゃいませ〜」
ベルの音に顔を上げると、見知らぬ男性が立っていた。
くたびれた茶色のスーツに、少しうねった茶色い髪。
背は高くて、どこか影のある優しげな顔。見たところ二十代後半で、なかなかの男前。
知らない人。珍しく常連さんじゃない。
私はいつものように笑顔で案内しようと近づいたが、その瞬間、男性の目が驚愕で見開かれた。
「桃子!?……お前、大山桃子だろ!?やっと会えた……ずっと探してたんだ!」
男性は今にも泣きそうな顔で、私の腕をがしっと掴んだ。
……いや、誰よそれ。私は『大川桃』であって、『大山桃子』じゃないし、だいたいこんな人、見覚えもない。
こんなイケメンだったら、覚えてるわ。
「えっと……人違いです。私は大川桃っていいます。あなたのこと、知らないんですけど……」
すると、男性は一瞬ぼう然とし、それから肩を落とした。
「……そうか。覚えてないんだな……」
本当にがっかりした様子だった。
申し訳ないけど、私にはこの人と会った記憶がない。
そしてその人は時が止まったかのように硬直してしまい、まだ腕を離してくれない。
どうしよう……と戸惑っていたとき、奥から老夫婦の声が飛んできた。
「あらまあ、井上さん?どうしたの!?」
奥さんの驚いた声に、マスターも目を丸くしていた。
え、知ってる人なの?
奥さんによると、この人は井上京助さんというらしい。
昔はよく来ていた高校の歴史教師で、最近は忙しくてご無沙汰だったとのこと。
「へえ、先生なんですね。確かに、ちょっと賢そうな雰囲気ありますもんね」
「そうなのよ。井上さん、この子は桃ちゃん。大学3年生で2年前からバイトしてくれてるの。自分の学費を補うために他にもいろいろバイトをしている偉い子なのよ。栄養士を目指していて、うちのごはんにもよくアドバイスしてくれるの」
「そうか…頑張っているんだな。栄養士はどうして目指してるんだ?」
突然の質問に少し驚きながら、私は答えた。
「うちは貧乏だったんです。でも親はいつも、『子どもには栄養のあるものを』って言ってくれて、食事だけはきちんとしてくれたんです。そのおかげか分からないですけど、私はめったに風邪も引かないくらい元気で……。だから栄養って、すごく大事なんだなって思ったんです。それで……自分も子どもたちにはちゃんと栄養のあるごはんを食べさせたいなって思うようになって」
その言葉に、京助さんは少し目を伏せて、静かにうなずいた。
「そうか……やっぱり、そうなんだな……」
まるで、何か確信を得たような言い方だった。
でも、そんなに意外な話だっただろうか?
ちょっと不思議に思う。
その後、彼は何も言わず、静かにコーヒーを飲み干していった。
さっきのやりとりが夢だったかのように、一時間ほどゆったりと過ごし、やがて席を立った。
けれど——帰り際のレジで、突然話しかけられた。
「……さっきはすまなかった。知り合いに君がそっくりで」
「あ、いえ、大丈夫です。よくあることですし」
もう話しかけてこないだろうと油断していたので若干焦りながら、笑って返した私に、彼は急にまっすぐな目で聞いてきた。
「……次は、いつここにいる?」
「え、えっと……明後日ですけど……」
しまった。
焦って思考回路がおかしくなってたうえに、あの目に負けて答えてしまった。
……まあ、マスターたちの知り合いみたいだし、変な人じゃなさそうだけど。
「また来るよ」
そう言って一瞬だけ微笑んだ彼は、すぐに店を出ていった。
その直後、奥さんがカウンター越しに心配そうに声をかけてきた。
「桃ちゃん、大丈夫だった?普段はあんなふうじゃないのに……」
「びっくりはしましたけど、大丈夫です。私と似た人がいたみたいで、勘違いだったみたいです」
「そうだったのね。てっきり桃ちゃんに無理やり言い寄ってるのかと思って、びっくりしちゃったわ」
奥さんは、口元に手を添えて苦笑いを浮かべる。
「井上さん、昔からイケメンで優しくて頭もいいのに、誰とも付き合ったことがないのよ。だから私たちてっきり女性に興味がないのかと……」
……女性に興味がない?
それなのに、どうして次のシフトを聞いてきたんだろう。
やっぱり変な人だ。
でも、それよりもおかしいのは、私のほうかもしれない。
さっき掴まれた手のぬくもりも、まっすぐな視線も――不思議と、嫌じゃなかったんだから。
***
それからというもの、京助さんは私のシフトに合わせて、必ず店に来るようになった。
「また夜ごはん、カップラーメンだったんですか?」
「いやぁ…バレたか」
「この前、レシピ教えたじゃないですか!ほら、材料も少なくて簡単なやつ」
「言われてもなぁ…時間がなくてさ」
「言い訳は聞きませ〜ん」
なんだかんだで、店に居座るようになった京助さんとは自然に仲良くなっていった。
「井上さん」って呼ぶと嫌がるから「京助さん」と呼ぶようになり、彼も「桃」と呼ぶようになった。
もう、店員と客って距離じゃない。
最初は警戒していたけど、話してみるとノリが良くて、完璧そうに見えて生活力はほぼゼロ。
そんなギャップも面白かった。
マスター夫婦も最初は心配していたけれど、今では「仲が良いわねぇ」と、ほほ笑んで見守ってくれている。
……ただ、ひとつだけ悩みがある。
「なぁ、そろそろ連絡先、教えてくれないか?」
「またですか……」
「頻繁に連絡したりはしないから。困らせる気もない。ただ、知っておきたいんだ」
またその目…。
この人の真剣な目には、なぜか逆らえない。
普段はフワッとしているのに、ズルいんだから。
結局、折れて連絡先を教えてしまった。どんなイケメンにバイト先で連絡先を聞かれても断ってきたのに。
京助さんは、交換した瞬間にほとんど泣きそうな顔で喜んだ。
さっきまであんなに真剣だったのに、交換した途端これなんだから。こういうところが憎いわ…。
今までの京助さんの行動がもし他人なら、間違いなくストーカーとして警察に訴えている。
でも、私の些細な言葉や行動ひとつで一喜一憂している京助さんの姿を見ていると、どうにも悪い人には思えないし、まぁいいかと許してしまう。
連絡先を交換してからは、京助さんのアプローチはますます加速した。
「たまたまチケットをもらってな〜」なんて、見え透いた嘘をついて遊園地や水族館に誘ってきたり、大学の試験が近いと話すと、栄養学は専門外なのに、わざわざ勉強して私の対策をしてくれたり。「明日はラストまで働く」と何気なく言っただけで、「夜は危ないから迎えに行く」と言って、本当に来てくれた。
ここまでされると、さすがに私も――
京助さんと一緒にいる時間が、心地よく思えてきていた。
私はそこそこ見た目はいい方だと思う。
だからこれまで、それなりにモテてきた。
でも、いざデートの話になると、たいていバイトがネックになる。
「バイト多すぎじゃない?」「会う気あるの?」
そんなふうに言われて、結局はフェードアウト。
……もう恋愛なんて無理なんだろうなって、半ばあきらめていた。
でも、京助さんは――これまで出会ってきた男性たちとはまるで違った。決して強引じゃない。かといって遠慮しすぎるでもない。いつだって、私のペースを大事にしてくれた。
それに、彼自身も決して恵まれていたわけじゃない。
お金があるわけでもなく、地道に、静かに努力を積み重ねている人だった。
そんな生き方を知って、私はますます惹かれていった。
似たような環境に育って、年齢は離れているはずなのに、不思議と話が合う。
……こんなふうに誰かと自然に心を通わせられるなんて、思ってもみなかった。
そんな私の変化に気づいたのか、ある日、バイト帰りに二人でいつもの公園のブランコに座っていたとき、ふと会話が途切れた瞬間、京助さんは真剣な顔で、突然こう言った。
「死ぬまで一緒にいたい」
まるでプロポーズのようなその言葉に、私は何の迷いもなく頷いていた。
京助さんはよっぽど嬉しかったのか、「やったー!」と深夜の公園で万歳して叫んでいた。
いつもなら「やめてくださいよ〜」とたしなめるのに、その日は私も舞い上がっていたのか、黙って笑っていた。
「一生、大切にするからな!」
「……プロポーズみたいですね」
「それでもいい。俺はずっと一緒にいたいんだ」
恋人同士になった私たちは、すぐに同棲の話になった。
さすがに早すぎると思って渋ったものの、「家賃と光熱費は出す」と言われてしまっては、断れなかった。
大学の長期休暇にあわせて引っ越しを終えたとき、どうなることかと思ったけど、驚くほど居心地が良く、私はすぐにその生活に馴染んでいった。
――ただし、京助さんの生活力は、私の想像の100倍くらい無かった。
同棲初日、あまりの部屋の汚さに思わず叫んだのは、今ではいい思い出。
他にもハンバーグを作れば炭ができるし、掃除をすればなぜか新しい汚れが増える。
アイロンをかけてもシワは伸びない。……最初に会ったときスーツがよれていたのも、ただの疲れじゃなくて、きっと洗濯が下手だったのね…。
家事はまるでダメだったけれど、私が家中を勝手にいじっても一切文句を言わず、むしろ嬉しそうに「おまえはやっぱりしっかり者だなぁ」と言ってくれたのはありがたかった。
生活能力こそ壊滅的だったけれど、京助さんは決して“頼りにならない”人ではなかった。
就職先で悩んでいた時は、「お前が将来どんな大人になりたいか考えて選びなさい」と、真正面から向き合ってくれた。
面接練習も付きっきりでしてくれて、専門外の資格試験の勉強まで、全面的にサポートしてくれた。
そして、第一志望の小学校に就職が決まった時、泣いたのは私ではなく京助さんだった。
大号泣する彼を前に、私はなぜか涙が引っ込んでしまったのを覚えている。
***
「今日は職場の歓迎会だったな?駅まで迎えに行くから連絡しろよ」
「京助さんも忙しいでしょ?そんなに遠いわけでもないし、もう社会人なんだから迎えなんていらないよ」
「駄目だ。女性が夜道を一人で歩いてたら、何が起こるかわからない。ちゃんと待っていなさい」
——そういうところがある。
心配性すぎるというか、やたらと過保護というか。
毎日のように最寄り駅まで迎えに来るし、ちょっと行き先を伝え忘れただけで、着信やメッセージが何件も届く。
最初は戸惑ったし、友達からも「束縛キツくない?」と心配されたけど、報連相の習慣に慣れてしまえば、思ったより負担にはならなかった。
むしろ、そこまで心配してくれることが嬉しかった。
大切にされている実感があったし、何より、幸せだった。
決して裕福な暮らしではなかったけれど、一緒にご飯を食べて、買い物に行って、お風呂に入り、眠る。
そんな平凡な日常が、宝物のように思えた。
——だけど。
幸せであればあるほど、心の片隅に引っかかる名前があった。
“大山桃子”。
私たちがまだ恋人ではなかった頃から、京助さんがどこかで“大山桃子さん”の影を見ている気がしていた。
たとえば、進路を決めるとき。「子供と関わりたいから、小学校の先生がいい」と言ったとき、あるいは「泳ぐの苦手だから、海はあんまり行きたくない」と言ったとき。
そんなふとした言葉に、京助さんの目が一瞬だけ遠くを見るように揺れる。
懐かしさと、何か言いかけて飲み込んだような光。
それに気づいていないふりをした。私をちゃんと大切にしてくれていることは、痛いほど伝わっていたから。疑いたくなかったし、何より——信じていたかった。
けれど、恋人になって、一緒に暮らし始めてから、その違和感は次第に無視できなくなっていった。
京助さんは「今が一番幸せだ」って笑ってくれるけど、本当に私は“選ばれた”のかな。
私じゃなくて、彼がずっと探していた“桃子”さんだったら、もっと喜んでいたんじゃないかって。
——その不安が、ある日、爆発した。
大雨の夜。
「残業で遅くなる、今日は迎えに行けない」と京助さんから連絡が入り、私は一人で帰宅した。
いつもより静かな部屋。テレビもつけず、ただ、なんとなく視界の端で点滅する留守電に気づいた。
何も考えずに再生ボタンを押す。すると――
「京助、元気ですか? 美代子です。十年ぶりくらいかしら。お父様がお見合い相手に製菓会社のお嬢様を選んだのに、あなたったら断って『大山桃子』さんを探すと言い出して…。それで、お父様に勘当されて以来ね。『大山桃子』さんは見つかったかしら?そろそろ、あなたとその方に会いたいと思ってるの。もし見つかっていなければ、あなたにぴったりなお嬢さんを紹介したいと思ってるのよ。お電話、待ってます」
……録音が終わると同時に、身体が勝手に動いた。
傘をつかみ、靴を履き、玄関の扉を開ける。
考えるより先に、とにかくこの場所から逃げたかった。
気づけば、近所の公園にいた。
大粒の雨が傘を叩き、冷たい風が肌に沁みる。
唯一屋根のあるベンチに腰を下ろし、俯いたまま動けなかった。
――あの留守電はきっと京助さんのお母さんだ。
……お坊ちゃんだったんだ、京助さん。
そんなこと聞いたことなかったな…。考えてみれば、社会人になってからの話しか京助さんはして来なかった。
学生時代、よっぽど嫌なことがあったのかなって思って、遠慮して聞かなかったけど、そういうことだったんだ…。
そんな人が、勘当されてまで探していた『大山桃子』さん。それほどまでに、大切だった人。特別だった人。
一瞬で、今まで見ていた世界が灰色に染まっていく気がした。思えば最初からおかしかった。ろくに私のことを知らないのに、あんなにも急に距離を詰めてきて。
大人があそこまで取り乱して、恥も外聞も捨てて、年下の貧乏小娘に猛アタックしてきて。
本当は私じゃなく、“彼女”を愛していたんだ。
「……でも、いいじゃない」
心の中のもう一人の私が冷たくささやく。
「たとえ身代わりだったとしても、愛されてるのは事実でしょ。こんなに大事にされて、今も一緒にいられるんだから」
……たしかに。どんなに傷ついても、事実を知ってしまっても、私はもうこの生活を手放せない。気づいたときには、もうどうしようもなく、彼を愛してしまっていた。
京助さんが、本当は違う誰かを愛していたとしても——
私は、京助さんを愛している。
それは揺るがない。これからもずっと一緒に暮らして、同じ時間を重ねていきたい。
……でも、それで本当にお互い幸せになれるの?
もし私じゃなくて、本当に愛していた人と出会えていたなら。
あるいは、お金持ちのお嬢さんと一緒になっていたら……。
京助さんの人生は、もっと穏やかで、豊かで、幸せだったんじゃないの……?
そんなことを考えたくない。
考えたくないのに、思考がどんどん濁っていく。
……でも、京助さんとお別れなんて、考えるだけで息が詰まる。そんなの、耐えられない。
どうすればいいの……?
ふと外を見ると、公園の水たまりがどんどん広がっていた。
まるで川の濁流に飲み込まれるかのように、地面がじわじわと水に飲み込まれていく。
……あれ、ここに川なんてあったっけ?
そんなはずないのに。なのに、なぜか「濁流」という言葉が脳裏をよぎって離れない。
……おかしい。
どうしてそんなことを思うんだろう。
考えすぎて、頭がおかしくなったのかな……。
思考が霞みはじめたそのとき――
冠水した道路の向こう側に、小さな傘をさして立ち尽くす子どもがいた。
その先には、猛スピードで突っ込んでくるトラック。
「危ない!!」
反射的に傘もささずに駆け出した。
胸が張り裂けそうなほど叫びながら、子どもの背中を突き飛ばす。
入れ替わるように、私の体がトラックの進路に――
……ああ、これでいいのかもしれない。
私なんか、もういない方がいいのかもしれない。
京助さんは、きっともっと幸せになれる。
本当に愛していた人と出会える未来を、私が壊しちゃいけない。
目を閉じ、死を受け入れた、その瞬間――
誰かの手が、強く私の腕を引いた。
私は後ろへ倒れこみ、その体をしっかりと抱きとめてくれたのは——
「……京助さん…? どうして……?」
「どうして、じゃないだろ!! 何やってるんだ、轢かれるところだったんだぞ!!」
確かに今日は残業のはずだった京助さんがそこにいた。
見たことのないような必死な顔で、よほど急いだのか、肩で大きく息をしている。新調したスーツも泥だらけだ。
「ご、ごめん…子どもがトラックに引かれそうで、助けようとして……」
「……子どもを庇って……」
「…助けてくれてありがとう…」
「……でも……よかった……今度は――間に合った……」
その声は震えていた。
抱きしめる腕に、骨が軋むほどの力がこもる。
思わず顔をしかめる。
――今度?
今度って、どういう意味?
「……京助さん、それ、どういう……」
雨の音が、頭の奥でざあざあと鳴り響く。
泥に濁った流れ、泣き叫ぶ子どもの声。
冷たい水に包まれながら沈んでいく感覚。
そして、あの必死な顔。
脳裏に焼きついていた断片が、一つに繋がる。
ぱちん。
頭の中で、何かが弾けた。
そうだ、全部――
私は、思い出した。
脳裏に、遠い昔の記憶が溢れるように蘇ってくる。
***
私は、生まれて間もなく親に捨てられた。
大きな山のふもと、一本の桃の木の下で泣いていた私を拾ってくれたのは、町外れで小さな食堂を営む老夫婦だった。
老夫婦は、私を「大山桃子」と名付けてくれた。
苗字の「大山」は、私が見つかった山の名前から。
名前の「桃子」は、私がいた桃の木にちなんで――。
町の中心から少し離れた、のどかな場所にある食堂。
決して裕福ではなかったけれど、老夫婦はいつも優しかった。
困っている人がいれば、無料でご飯をふるまい、見返りも求めなかった。
その食堂には、あたたかい匂いが満ちていて、やさしい笑い声と、心をほっとさせる湯気があった。私はそこで、静かで、穏やかで――かけがえのない幸せを知ったのだった。
ある日、その店にやって来たのが――呉服屋の若旦那、井上京之助。武士や役人たち御用達の格式ある店の跡取り。そんな人が、どうしてか私を気に入り、何度も店に足を運んでくれるようになった。
身分の差があるとわかっていても、心は惹かれ合い、やがて私たちは想いを交わすようになった。
でも、彼には政略結婚の話があった。
武家の娘との縁談――それが、彼の幸せだと、私は思っていた。
なのに、お見合いの前日、彼は私に駆け落ちを持ちかけてきた。
「君と生きたい」と、真剣な迷いのない目で言った。
私は……抗えなかった。手紙と少しの金を食堂に残し、彼と逃げた。
辿り着いたのは、名もない小さな村。
そこで私たちは、貧しい子供たちに向けて無料の「陽だまり」という寺子屋を開いた。
子供の未来を明るく照らしてほしいという意味が込められている。彼は学を教え、私は台所に立った。京之助さんは本当に幸せそうで、私も毎日が愛おしかった。
――あの日が来るまでは。
彼の家の者が、私たちの居場所を突き止めたのだ。
京之助さんが不在のとき、使者が寺子屋に現れた。
「別れろ。今ならまだ許してやる。さもなくば――あの老夫婦、どうなっても知らんぞ。第一、お前のような貧しい小娘と、京之助さまが釣り合うと思ったのか?」
半ば脅迫のような言葉を残し、使者は去っていった。
背筋がひやりと冷える。
子どもたちが心配そうに「先生?」と声をかけてくるけれど、声が出なかった。口が動かない。胸の奥で、何かがじくじくと痛んでいた。
京之助さんと別れるなんて、考えたくもない。
でも……あの使者の言葉は、どこか正論に聞こえてしまう。確かに、私は貧しくて、学もなくて、何も持っていない。それに、あの老夫婦に迷惑をかけるわけにはいかない。私のたったひとつの帰る場所を、壊したくない。
――頭ではわかっている。
どうすればいいかなんて、とっくに答えは出ている。
それでも、心が拒絶する。叫ぶように、嫌だと泣き叫んでいた。
ぐらぐらと視界が揺れて、足元が崩れていく。
呆然と立ち尽くしていると、京之助さんが帰ってきた。
子どもたちを優しく奥の部屋へ行かせたあと、私は必死に気持ちを押し殺しながら――言った。
「別れたい」
心臓が張り裂けそうだった。震える唇を噛みしめて、吐き出すように。
「どうして突然……?俺、何かしたかな。悪いところがあれば、ちゃんと直すから……」
彼の声は優しかった。傷つきながらも、私を想ってくれている声だった。だからこそ、その優しさに甘えてはいけなかった。
私は心を振り絞って――そのすべてを断ち切る言葉を選んだ。
「嫌いになったから!」
そう言い残して、私は寺子屋を飛び出した。
最後に見えたのは、ひどく傷ついた彼の顔だった。
雨の中、川辺にしゃがみこんで泣いた。大声で泣いても、誰も気にしない。むしろ、大粒の雨がすべてを洗い流してくれるようで、少しだけ救われた気がした。
――私は、なんて酷い女なんだろう。
あんなに優しい人に、思ってもいないことをぶつけて、傷つけて。
……もう、いられない。
今夜、そっとここを出よう。
一緒にいたかった。心から、ずっと――そう思ってた。
どれくらい泣いていただろう。
「先生!」という1人の子供の声がした。きっと心配して探しにきてくれたのね。私は必死に笑顔を作り顔を上げた。
その瞬間、轟音とともに、川が牙をむいた。
濁流が、子供を攫っていく——!
考えるより先に体が動き、私は川に飛び込んだ。
泳ぎは苦手だけど、そんなこと言っていられない。
必死に手を伸ばし、なんとか子供の体を抱き寄せた。
冷たい水が肌を刺す。苦しい…!
でも、岸へ向かわなきゃ……!
どうにか子供を岸に押し上げ、私も上がろうとしたけれど、もう体が動かなかった。
体力の限界のようだ。腕も、脚も、重くて仕方がない。
目の前にあるはずの岸が、遠ざかっていく。
どうしよう…!
もたつく私を、次の濁流が容赦なくさらっていった。
冷たい……苦しい……息が、できない。
視界がぐらつく。世界が暗く、遠くなる。
——意識が、途切れた。
***
ふと、微かなぬくもりを感じた。
目を開けると、私は京之助さんの腕の中にいた。
彼はずぶ濡れで、顔をくしゃくしゃにして、泣いていた。
「桃子……! 桃子……!」
その声は、悲鳴のように震えていた。
——助けてくれたんだ。ありがとう。
でも、もう……ダメみたい。
腕が動かない。声も出ない。体から寒さが抜けない。
「大丈夫だよ」って、言ってあげたいのに。
その涙を拭ってあげたいのに。
ごめんね……寺子屋のみんな、食堂のご夫婦、本当にごめん……。
そして——京之助さん……。
あの言葉は、嘘だったの。
「嫌い」なんて……そんなはずない。
本当は……大好き。誰よりも、大切で大好きだったの。
あんなこと言わなければよかった。
こんなことになってしまうなら、いっそ全部話してしまえばよかった。
……今世では、一緒になれなかったけれど。
もし——もし、また巡り会えるなら。
来世では一緒にいたい——
***
ふっと——意識が浮かんだ。
重たかった瞼をゆっくり持ち上げると、先ほどの屋根のある公園のベンチに移動していた。
目の前には、今にも泣き出しそうな京助さんの顔。
「……桃…!」
掠れた声が震えている。
私はずっと眠っていたらしく、何度呼びかけても応えない私を見て、死んでしまったと思ったのだと、京助さんは泣きそうに言った。
——ああ、まただ。私を見つけたあの時と同じ。
絶望に染まった、苦しくて、見ていられない顔。
私はそっと手を伸ばし、京助さんの濡れた頬に触れた。
そのぬくもりを、確かめるように。
「……ごめんなさい。また、あなたを泣かせてしまった…」
「……も、桃……?」
「見つけてくれて、ありがとう。……京之助さん」
私の口からその名がこぼれた瞬間、彼は目を見開き、しばらく固まったように動かなかった。
けれど次の瞬間、堰を切ったように、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
ほんと、昔から変わらない。
感情が顔に出やすくて、不器用で、でも——そんなあなたが、愛おしい。私の視界も、じんわりとにじんでいく。
「……ただいま、京之助さん」
「……おかえり……桃子……!」
***
時計の音だけが、静かに響く部屋の中。
少しでも隙間ができないように、手も足も絡め合い、ぎゅっと抱きしめ合う。
今までも「世界で一番大切な人」だったけれど、前世の記憶を思い出した今は、もう言葉にできないほどの愛しさが胸にあふれてくる。
しばらく沈黙を味わったあと、京助さんがぽつりぽつりと、自分の過去を語り始めた。
お嬢さんとの縁談が決まった頃、突然前世の記憶がよみがえったこと。
それ以来、ずっと私のことを探していたこと。
教師になったのは、やっぱり子どもたちに何かを教えるのが好きだったからだということ。
「……あれ? そういえば、このアパートの名前って……!」
「……気がついたか?『陽だまり荘』だよ。ここにいれば桃に会えるんじゃないかって、そう思ったんだ」
「……ごめんなさい。こんなに思い出すのが遅くなって…」
「いいんだ。こうして、生きていてくれるだけで」
私の胸に顔をうずめた京助さんの髪を、そっと撫でる。
繰り返し、何度も、鼓動を感じるように。
今世では、ずっとこの人のそばにいたい。
一秒でも長く、生きていたい。一緒に、歩いていきたい。
「…ってか、私お腹空いた。何か食べよ? 疲れたし、京助さんの大好きなカップラーメンでもいい?」
「……こんな時に嫌味を言うなよ。ていうか……桃、何か思い詰めてたんじゃないか?今日、家に帰ったら電気も点けっぱなし、鍵まで開けっ放しだったし……まさか、別れようとしてたんじゃ……?」
「……あ、あーーー……」
京助さんの言葉で、ずっと記憶の片隅に押しやっていた出来事の発端を思い出した。
でも今にして思えば——「元恋人の身代わりにされている」と思って嫉妬に駆られていた相手が、まさか前世の自分だったなんて……恥ずかしすぎて身悶えしたくなる。
あの時は完全に、思い込みと嫉妬で突っ走っていた。
今になってようやく、自分の行動の幼さに身震いしてしまう。
そんな私の内心など知るはずもなく、京助さんはまるで捨てられた子犬のようにしょんぼりして、ちらっとこちらを上目遣いで見ている。
もう三十近い大人のくせに……ほんと、こういうところがズルいんだから。
「……嫉妬してたの。——桃子に」
「は?それって、どういう意味……?」
「京助さん、たぶん無意識だったと思うけど……ときどき私を見ながら、桃子のこと思い出してたでしょ?それで……私は、元恋人に似てるから付き合ったんだって、勝手に思い込んでた」
「ち、ちがう! 俺は……俺は、桃が“桃子”だから……!」
「もう、わかってるよ。でもね、たとえ身代わりだったとしても、別れたくなかった。それくらい愛してたの」
「桃…!!」
思い切り抱きしめてくる京助さんの背中を、私もぎゅっと抱き返す。
その温もりが、胸の奥にじんわり沁みてくる。
そして、もうひとつ気になっていたことを、ぽつりと口にする。
「そういえば……お母さんの留守電、聞いた?」
「……ああ、聞いたよ。——だからさ、今度うちに来てくれないか?……“結婚相手”として、紹介したいんだ」
「……え……?」
「残業って言ってたの、実は嘘なんだ。今日、本当はこれを買いに行ってたんだ」
そう言いながら、京助さんはそっと私の薬指に指輪をはめた。
それは、紛れもなく結婚指輪だった。
胸の奥が熱くなって、思わず涙がこぼれそうになる。
そして私は、前世で言えなかった言葉を、ようやく彼に伝える。
「京助さん……ありがとう。大好き。ずっと、一緒にいよう……」
「……俺もだよ。今度こそ、ずっと一緒だ」