無能だからと家を追放されたわたしが、この度龍のお嫁になりまして、溺愛されています
「梨々香、その書簡を読め」
わたし──蔵前梨々香へとお父様が久しぶりにかけた言葉は、ひどく事務的で冷たいものだった。
いつも通りのことだ。
この蔵前家に──いや、生まれ持った異能こそが全てを支配するこの世界に、わたしの居場所などというものはないのだから。
「……拝読します」
「……」
「……『この度、蔵前家と東雲家の間に縁談の機会を設けたく』」
「もうよい、それでわかっただろう」
お父様は、腕を組んで深く溜息をついた。
縁談を申し込んできた東雲の家は、「四摂家」と呼ばれる帝都の守り刀で、その異能は対外的な抑止力にもなりうるくらい強力なものだということは知っている。
同時に、東雲家の現当主にはよくない噂がいくつも付き纏っていることも。
そして、お父様の隣で呑気にわたしを蔑むような笑みを浮かべている妹──蔵前麗香を見れば、言いたいことは大体察しがついた。
「東雲家との縁談という千載一遇の機を逃す選択は我々にない。だが、あの家の当主は極めて女癖が悪いと聞く。今まで数知れない良家の令嬢が籍を入れて一年も経たずに逃げ出してきたと聞けば、そんな男に可愛い麗香を嫁がせるわけにはいかぬ」
「だからぁ、お姉様には私の身代わりになってほしいの」
くすくすと嘲笑を浮かべながら、麗香はわたしの顔を覗き込んでくる。
よく手入れの行き届いた桜色の髪。そして着物がよく似合う慎ましくも美しい曲線を描く肢体は、社交界で多くの殿方を魅了してやまないらしい。
でも、納得がいく話だ。わたしの痛みきった亜麻色の髪や、さらしを巻いていないと着物がとても似合わない鳩胸と比べれば、その差は歴然だ。
「……承知いたしました。このお話を謹んでお受けいたします」
選択肢など初めからないと知りながら、その申し出を承諾する。
蔵前の家は今でこそ政財界に深く食い込んではいるけれど、その基盤はまだ脆弱だといってもいい。
なぜなら、この家で突出した異能の才を開花させたのは、麗香が初めてなのだから。
一方でわたしはといえば、なんの異能も持たずに生まれてきた、出来損ないだった。
人類にとって不倶戴天の敵である怪異が闊歩するこの世界においては、それを調伏できる異能の有無こそが、人間の価値を決めるといってもいい。
麗香の異能は「焔」。霊力が形作る炎を自在に操ることができる強力なそれだ。
だからこそ東雲の家は麗香を欲していたのだろう。
異能者は強い血を残すために、強い異能を持つ人間と婚姻関係を結ぶのが、この世界では当たり前のことだから。
それなのに、嫁いできたのは異能の才を持たないわたしだと知れば、東雲の家からも遠からず追い出されるか、下手をすれば首を刎ねられるか。
どちらにしたってろくな選択肢じゃないけれど、異能があって当たり前の世界で、それを持たないわたしに、生きる権利などというものは初めからないのだ。
「可哀想なお姉様! 東雲の御当主様はひどく残酷なお方だと聞いているわ、異能を持たないお姉様が嫁いだと知れば、さぞかしお怒りになることでしょうね!」
「……」
「なに、その目は? 私は本当のことを言っているだけよ? 異能を持たないお姉様が最期にお嫁に貰っていただいただけでも、私に感謝すべきでしょ?」
ぱちん、と麗香が指を鳴らすと、わたしの左頬に小さな火球が押しつけられた。
──熱い。
いつものことだとわかっていても、麗香の言っていることこそが正しいのだとわかっていても、わたしは涙をこぼしてしまう。
「……っ、く……っ……!」
「感謝の言葉は?」
「……ありがとう、ございます……」
わたしのお母様が病に倒れてからは、いつもこうだった。
家同士が組んだ縁談で蔵前の家に嫁いできたのが前妻に当たるわたしのお母様だったけど、お父様はその話をひどく嫌がっていたと聞く。
だから、お母様が病に倒れてから迎え入れた後妻に当たるお義母様と、その娘である麗香は目に入れても痛くないほど、お父様から可愛がられていた。
お義母様とお父様は元々恋仲だったらしく、前妻の子であるわたしをひどく疎んでいた。
だから、わたしは日常的にお義母様からも麗香からもいじめられていたし、使用人たちからも距離を置かれていたから、身の回りのことは全て自分たちでやらなければいけなかった始末だ。
もしもわたしが異能の才を持って生まれてきたのなら、お母様は苦しまずに済んだのだろうか。
座敷を去っていくお父様と麗香を三つ指をついて見送りながら、ぼんやりと考える。
『異能の才を持たない娘になんの価値がある! 今すぐここで殺してしまえ!』
『梨々香を殺すというのなら、今ここで美羽も死にます……!』
いつも決まって思い出すのは、七歳になった頃、異能の才を計る儀式を受けたときのことだった。
お母様が身を挺して庇ってくれたおかげでわたしは生きながらえたけど、その代償として、お母様とわたしは狭い離れに押し込められることになったのを、覚えている。
今もわたしの部屋として充てがわれている、狭く日当たりの悪いあの離れに押し込まれたせいで、病弱だったお母様は。
「……お母様……梨々香もすぐに、お側に参ります……」
お母様がその命を賭してまで助けていただいた命だったけれど、それもどうやらあと少しでおしまいみたいだ。
せめて。
せめて、ただ生きることを許してほしいと願うのは、贅沢なのだろうか。
ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を拭いながら、わたしは軽い火傷を負った左の頬を押さえて立ち上がる。
生きていたい。
それしか、望むことはなかった。
「……ぐすっ……お母様……おかあさま……」
だけど、それが叶わないこともわかっていたから、わたしは声を涸らして泣き続けることしかできなかった。
◇
嫁入り道具と、そして衣装として渡されたものはお母様が使っていたものだった。
わたしなんかのためにわざわざ新しいものを買い与えてやるつもりはない、ということなのだろう。
だけど、お母様を近くに感じられる。それだけで鉛のように重たい心が、少しは軽くなったような気がする。
「……それでは、行ってまいります」
わたしの言葉に、返事はなかった。
使用人たちが渋々といった様子で人力車を引き、わたしと嫁入り道具を東雲の家へと運んでいく。
帝都を東西南北の四つに分けたうち、東側の要石となる霊脈の地に、東雲家は居を構えていると聞いている。
蔵前家は帝都の西側にあるから、この分だと、辿り着く頃には夜になっているだろう。
夜は、怖い。
人と人ならざるものの境界が揺らいで曖昧になる時間。それが夜──「逢魔が時」だ。
怪異はそこに姿を現す。
怪異を退ける力を持つ異能者であれば、夜を恐れることはないのだろう。
だけど、わたしにその力はない。
だから、できる限り早く着くことを、そして怪異と出会わないことを祈ることぐらいしかできなかった。
もっとも、怪異と出会わなくたって命が危ないのは変わらないのかもしれないけれど。
そう考えるとわたしの人生はあんまりにもあんまりすぎる。どこにいっても袋小路だ。
「……お願いですから、逢魔が時には迷い込まないでください……神様……」
小さく呟いて祈り続ける。
帝都の中心では最近出回り始めた自動車なるものが何台か行き来していて、あれがあったらもう少し早く東雲の家に着くことができるのかもしれない。
と、思ったけれど、そもそも自動車があったとしても、お父様はわたしになんて貸し与えてくれないだろう。
あるいは、道中で怪異に襲われて死ぬことを期待されているのかも。
どっちにしても、わたしは蔵前の家から放逐されたようなものなのだから、変わらないか。
そんな諦めにも似た感情を抱いていたのがよくなかったのか、それとも単純に運が悪かったのかはわからない。
帝都の東に辿り着いた頃には空が夕焼けに染まっていて、黄昏時になってしまっていた。
「うっ……!」
「どうかなされましたか、お嬢様」
車夫を務めていた使用人が、そう問いかけてくる。
「……ひ、ひどい目眩がします……」
「はあ……」
どうせ仮病だろう、とばかりに、使用人はこれ見よがしに溜息をつく。
だけど、この感覚は紛れもなく現実のものだ。
なにか、嫌なことが起ころうとしている。理屈じゃなくて、本能がわたしにそう訴えかけていた。
「な、なんだ!? なにが起きてるんだ!?」
「……逢魔が、時……!」
程なくしてその予感は現実に変わる。
使用人も感知できるほど明確に、空間と時間が捻れていく。
そう、人と人ならざるものの境界が曖昧になって、世界の結び目が解けていく──わたしたちは、不運にも「逢魔が時」に迷い込んでしまったのだ。
迷い込んだのは、色彩が反転したような世界。
わたしたちが生きる世界の裏側。
そして、反転した世界で色彩を持つわたしたちを喰らうために、「それ」は姿を現した。
『クク……久しぶりの生娘じゃ……思いもよらぬ馳走にありつけたわい……』
ごわごわと掠れ、ぎりぎりと硝子同士が擦れたような老人の声。
目の前にいる悍ましい見た目をしたそれこそが「怪異」であり、わたしたちを喰らおうとしているのだ。
「……食べ、られる……」
『そうじゃ、そうじゃ……お前さんがたはワシの血肉になる、恨むのならば「境界」を跨いだ己を恨むのじゃな……!』
ひどく不愉快な掠れ声で老人らしきなにかは雄叫びをあげて、地面にへたり込んでしまった使用人へと襲いかかる。
「た、助け──」
断末魔を上げる間もなく、不揃いな牙を剥いた怪異が、使用人の喉笛を食いちぎった。
そして、輪郭が曖昧に揺らいでいた怪異が色彩と存在の輪郭を取り戻していく。
魂を喰らい、人に成り替わろうとしているのだ。
一秒がどこまでも薄く、長く引き伸ばされていくような感覚の中で、わたしはただ呆然と、訪れようとしている死を見つめていた。
得体もしれないなにかに喰われてわたしは死ぬ。
でも、地獄の中を生きるよりはいいのではないだろうか。
痛みはあるだろう。
ただ、生きながら地獄を味わう苦しみよりも、素直に死ねる分だけ幸せではないのか。
地獄を生きるか地獄に落ちるかの二択なら、いっそのこと。
瞑目したまま、そんなことを頭の片隅に浮かべていた、刹那。
「潰れろ」
『グギャアアアアアッ!』
淡々とした響きをもって聞こえた声を合図に、天から、まるで雨を槍として束ねたような激流が降り注ぐ。
そして、わたしたちを喰い殺さんとしていた怪異を切り刻み、容赦の欠片もなく押し潰していく。
「全く、余計な仕事を増やしてくれる」
雨の槍を降らせたのが「異能」であることは一目見るだけでわかった。
それも、生半可なものではない。
麗香の「焔」すら遠く及ばない、そもそもの格が違うのだと本能が理解するほど凄まじい力。間違いなく、彼は。
「あや、かし……」
「ん……? 俺をそう呼ぶ者は少なくないが、君は」
軍帽を正して、わたしを救ってくれた殿方は首を傾げる。
最高位の異能、それは怪異と表裏一体のものだ。それゆえにわたしたちは人に味方し、怪異を祓う怪異を畏れ敬い、「あやかし」と呼ぶのだ。
あやかしの殿方はわたしの嫁入り衣装を見て、納得が行ったようにふむ、と頷いた。
「失礼した、君が蔵前の家の御令嬢だったか。俺は東雲……東雲龍司だ。本来であれば迎えに上がるのが筋だが……この通り仕事に忙殺されていてな。申し訳ない」
「……い、いえ。助けていただき、わたしこそ申し訳ないといいますか……」
「さっきも思ったことだが、生きるのを諦めるのは褒められたことではない」
あやかしの殿方──龍司様は、呆れたように溜息をつく。
生きるのを諦める。
それは襲いくる痛苦や死に、抗うことをやめて身を委ねようとしたわたしのことを責めているのだろう。
「……申し訳ありません」
「まあいい。嫁いできたのであれば君を無下に扱うことはしない。よろしく頼む、梨々香嬢」
「……不束者ですが、よろしくお願いいたします。旦那様」
そうして差し伸べられた手を取った瞬間、再び色彩を失った世界が揺らぎ、元の夕暮れを取り戻していく。
旦那様からの最初の印象は最悪だったけれど、構わない。
どうせ遅かれ早かれわたしは、捨てられるに違いないのだから。
そういう諦めを抱いていることがよくないのかもしれない。
でも、希望などというものは、どんなにきつく、固く抱こうとしても、腕の隙間をすり抜けていく。
今まで送ってきた半生で、それを痛いほどよくわかっていたから、わたしはこの結婚になにも望まないのだ。
◇
旦那様とお付き合いなされて一ヶ月も経たないうちに、名家の令嬢たちはその暴虐ぶりに耐えられず逃げ出していった。
そんな噂が信じられないぐらいに、わたしの新婚生活は平穏だった。
そして、旦那様も噂に聞くような暴虐を尽くすような殿方ではなく、口数こそ少ないけれど聡明なお方だというのが、わたしの感じたところだ。
でも、わたしが旦那様から気に入られていないことは薄々感じていた。
私室として当てがわれた八畳間で、わたしはなにをするでもなくぼんやりとそんなことを頭の片隅に浮かべながら、手鞠を転がす。
無理もない。十八にもなるのに童女のような顔つきをしていて、装いが似合わない鳩胸の妻など、とてもじゃないけど眉目秀麗な旦那様とは釣り合わない。
本当なら麗香が嫁ぐはずだったのに、みそっかすのわたしなんかを嫁に迎えてしまった旦那様は、さぞかし落胆されたことだろう。
それでも、わたしを妻として扱ってくださっているだけ、誠実なお方だ。
……初夜で、褥を共にすることはなかったけれど、それに関しても悪いのはわたしの容姿が旦那様に釣り合わないものだからであって。
「……なにもすることがないって、なんだか落ち着かないなぁ……」
東雲の家に迎えられた次の日、家の掃除や料理の支度をしようとしたら、老齢の使用人──千鶴子さんから全力で止められたことを思い出す。
『とんでもございません、坊ちゃんが新しく妻として迎え入れたお方に雑事をさせるなどと』
家ではいつもやっていたことを伝えると、信じられないものを見るような目で見られたなぁ。
信じられないのは、わたしからすれば、なにもしなくてもよければ、難癖をつけられることもないし虐められることも怒られることもないこの穏やかな時間なのだけれど。
せめて、手慰みに裁縫ぐらいは許してくれるだろうか。いや、多分許してくれない確率の方が高い。
「……まるで、お人形のよう」
自ら望むこともなく、課される義務もなく、こうして座敷で手鞠を弄ぶことで一日を浪費しているわたしは、まるで押し入れの奥に押し込められた、古くなったお人形みたいだった。
「梨々香、なんの話をしている?」
「……っ、旦那様。申し訳ございません……ただの、独り言でございます……」
がらり、と襖が開いたかと思うと、珍しく陽が高いうちに帰ってきたらしい旦那様が、憮然とした顔で佇んでいた。
わたしは三つ指をついて、額を畳に擦り付ける。
それしか、知らないから。お母様以外の誰かに許可なく口を聞くことは、蔵前の家では許されていなかったから。
「……いつまでも着古した服を身につけていることもあるまい。呉服屋に新しいものをいくつか見繕ってもらった」
「……そんな、もったいありません。わたしなどのために、そのような……」
三つ指をついて頭を下げたまま、そう返す。
旦那様のご厚意を無下にするつもりはない。
ただ、わたしのようなお飾りにもならない妻に新しい、それも呉服屋で仕立ててもらうような着物なんて、あまりにももったいなくて。
「……君は、今まで俺の元に嫁いできた女性たちとは随分違うな」
「……も、申し訳ございません……」
「なぜ謝る? 出会ったときにも思ったが、君からは人らしく生きようという気概が感じられない。なにも欲さず、なにも望まず……慎ましやかなのは美徳かもしれないが、何事も過ぎたるは及ばざるが如しだ」
困ったように──いや、呆れたように、旦那様は目頭を押さえながら言った。
「……も、申し訳……」
「……まるで人形と話をしているようだ。失礼する」
どうやら、怒らせてしまったらしい。
踵を返してわたしの部屋を後にする旦那様の背中にどんな言葉をかければいいのか、とてもじゃないけどわたしにはわからなかった。
申し訳ございません、と一言目にはそう言葉にしないといけない人生だったから、他の返しが思いつかないのだ。
あやかしである旦那様にとって、「人間らしさ」というものはきっと妻を選ぶ上でとても大事なことだったのだろう。
それならば余計に、いつだって溌剌としていて顔つきも大人びている麗香の方が相応しい。
遠からずわたしは捨てられてしまうのだろう。でも、その前にせめて、怒らせてしまったお詫びをしなければ。
涙を拭って、わたしは立ち上がった。
◇
「……それで、これを?」
旦那様が、手のひらに小さなお守りを乗せて首を傾げる。
あれから一週間、わたしはなんとか千鶴子さんの許可を取り付けて、裁縫道具と、自分の着物から切り出した生地を使ってお詫びの印にお守りを作っていた。
もっとも、霊力──異能の基礎となる力そのものを持たないわたしが作ったものなんて、気休めにもならないだろうけれど。
「……はい」
「ふむ……梨々香、頭を上げてほしい。なぜ、これを作ったのか、聞いてもいいか」
「……常勝不敗の旦那様には必要ないかと存じますが、このお守りは、母からわたしが作り方を教わった唯一の……贈り物、なのです」
狭苦しい離れに押し込まれ、身の回りのことすら自分たちでやらなければ生きていくこともままならなかった小さな頃、わたしの誕生日がくると、お母様は決まって自分の着物から一部を切り取って、霊力を込めたお守りを作ってくれた。
幼いわたしが厳しい冬を越せるように。
無事に育つようにと、霊力と願いと心を分け与えるかのように、生きていた間は毎年、お守りをくれたことを、覚えている。
「……初めて、君の心を感じられた」
「旦那、様……?」
「すまない。この前のことは……失言だった。それに、俺は君を表面的にしか気にかけられなかった……だが、君の母君は違うようだ」
心から悔いたように俯いて、この通りだ、と旦那様が頭を下げる。
とんでもない。心臓が裏返って飛び出そうだった。
わたしなんかのために旦那様が頭を下げるようなことなんて、あっちゃいけない。むしろ気を遣わせてしまったことを詫びるべきはわたしの方で。
「このお守りからは確かなあたたかさを感じる。君という人間の人となりも。俺は……愚かだな。いつしか嫁いでくる者を疑うことしかできなくなっていた」
「……旦那様」
「蔵前の家との縁談も千鶴子が組んだものでな。いつもの通り富や名声だけを欲している女が来るのだとばかり思っていたが……君は違った。なにも欲さず、なにも望まず、語らず……それが不可解で、余計に俺は君を疑ってしまった。本当に、申し訳がない」
「い、いえ……そのように頭を下げられては、困ります……わ、わたしは、ただ」
ただ、なんだというのだろう。
東雲の家に嫁ぐことが決まってから、心の奥に押し込めていた感情の箍が外れて、抑圧されていた感情が涙になる。
詰まった言葉の先にあったものは──感謝、だった。
「わ、わたしは……ただ、生きていたかったのです……ただ、穏やかに……何事もなく、野花のように慎ましやかな暮らしさえ送れれば、他に、望むものなど……っ」
「……梨々香、君は」
「だから、旦那様には感謝こそしても……頭を下げられる理由などないのです……例えわたしを遠ざけていたとしても、こうして穏やかな時を生きられたのですから……」
まるでこれから死出の旅にでも出るような言葉だと思ったけれど、これまでのわたしはきっと、生きながらにして死んでいたのだと思う。
それでも、生きたかった。生きて、いたかった。
身を置いている場所がどんな生き地獄でも、いつかは。いつかは、お母様がそう望んでくれたように、わたしが生きていることを、ここにいることを認めてくれるどこかへ辿り着けることを、いつだって心の内では願い続けていたのだ。
「……そう、か。ならば俺は、君の望みを叶えよう。君が穏やかに生きられるよう、伴侶として尽くさせてもらう」
「……旦那、様」
「名前で呼んではくれないか、梨々香。もしも君が許してくれるのなら……今ここから、夫婦としてやり直そう」
一瞬、夢を見ているのではないかと思った。
愛される資格も資質も持っていないわたしを愛してくれると、この人は仰ったのだから。
でも、夢じゃない。ずっと求めていた願いが心の傷口に触れたことで、瞳からこぼれ落ちた透明な血液が、その温度が紛れもない現実だと雄弁に語っている。
「……不束者でございますが、よろしくお願いいたします……龍司様……」
「……初めて、笑ってくれたな」
「はい……っ!」
心と心が通じ合うって、こんなにもあたたかいんだ。
生きていていいんだって、そう認めてくれるのは、こんなにも嬉しいんだ。
口元は綻んで笑みを形作っているはずなのに、涙が溢れて止まらない。奇跡で満ちた心から、瞳に伝って雨になる。
それでも、わたしの空はかつてないほどに晴れやかだった。
◇
「梨々香、君は霊力を使えないと聞いていたが、それは本当なのか?」
ある晩、お仕事から帰ってきた龍司様が首を傾げながらそう問いかけてきた。
「……はい。わたしにはなんの異能も」
「ふむ……だとすれば、君に鑑定の儀を施した者の目は節穴だな」
「……え、えっと?」
神妙な表情で懐からなにかを取り出している龍司様を、わたしは呆然とした表情で見つめる。
異能が使えないことは、蔵前の家から事前に伝えられていたはずだ。
それが今になって問題になってしまったのだろうかと、少しだけ不安になったけれど。
「これを見てくれ」
「これ、は……?」
「見ての通り、君からの贈り物だ。これが俺の命を助けてくれた」
わたしが作ったお守り袋には、銃弾が食い込んで潰れていた。
ただ、着物の裾を裂いて縫い上げた袋に紙をいれただけのそれは、普通であれば銃弾なんて防げるはずもない。
なのに、どうして。
「君は異能者だ、梨々香。それもかなり俺たちに近い……いや、既に『あやかし』と呼べるほどの」
困惑するわたしに龍司様は、合点が行ったような表情で微笑みかけてくる。
「……で、ですが。蔵前の家が司る異能は『焔』です。わたしは、火を出すことなど」
「俺もそれを不思議に思って少しばかり君のことを調べさせてもらった。君の母君は……『四葉美羽』で間違いないな?」
四葉美羽。
それは蔵前の家にお母様が嫁ぐ前の名前だったと、小さい頃に聞かされたことがある。
四葉の家は異能者の家系としてはあまりに小さく、弱く、だから血を繋ぐことを求めて蔵前の家と縁談を組んだのだと。
「はい、間違いございません」
「四葉の家が司る異能は『禍福』。君は、『金霊』のあやかしだ」
金霊。
確か、聞いたことがある。
禍福をもたらす存在で、家に招き入れれば幸運を呼び込み、失えば災いをもたらすという伝承上の存在だ。
「君は異能を持たないのではない、あまりにも莫大な霊力を常に放出し続けているから、並の異能者では感知できなかっただけだ」
「……で、では、わたしは……」
「梨々香、君は俺に幸せを運んできてくれた。人を再び愛する喜びを教えてくれた。君の異能は……人を幸せにする、異能だ」
自分に作用するのではなく、他人に作用するものだから長らく気づくこともなかったのだろう、と、龍司様はそう笑った。
……わたしが、人を幸せにする。
忌み子として蔑まれ、虐げられ続けてきた、わたしが?
「……ぁ……」
とても、そうは思えなかった。
龍司様のことを疑っているわけじゃない。
だけど、わたしはわたしのことを信じられなくて、言葉に詰まってしまう。
「困惑するのも無理はない、だが、これだけは聞いてほしい」
「……は、はい……」
「君が異能を持っていようといまいと、俺が今幸せなのは、君が傍にいてくれるからだ。それだけは、忘れないでほしい」
「……龍司、様」
龍司様はわたしを抱き寄せて、そっと髪を撫でてくれた。
怯えて凍りついた心が、少しずつ幸せの熱に溶けていく。解けていく。
わたしが異能者──「あやかし」だなんて、今でも信じることはできない。
それでも、この温もりだけは、幸せだけは、確かに信じられた。
「……東雲の家を継ぐ者として、『青龍』のあやかしとして我が妻、梨々香に告げる。俺は君だけを運命の伴侶として認め、命を助けられた恩はこの生涯をかけて幸せにすることで返してみせる……愛している、梨々香」
「……はい……わたしも、梨々香も、あなたを深く、深く愛しております。龍司様」
この日初めてわたしたちは褥を共にして、男女の契りを結んだ。
痛苦とは遠い甘美な痛みと喪失に身を委ねるままにわたしは、初夜の熱が燻るお腹の下をそっと指先でなぞって、眠りに落ちた。
こうして幸せなまま、ずっと目が覚めなければいいという気持ちと、龍司様と迎える明日が待ち遠しいという気持ちの間で、板挟みになりながら。
◇
「蔵前の家が政財界を追われたらしいな」
新聞を片手に、龍司様は縁側に腰を下ろしてそう言った。
蔵前の家から東雲の家に嫁いで、四つの季節が巡って再び訪れた夏の日のこと。
その知らせは、まさしく青天の霹靂だった。
「な、なぜでしょう……?」
「どうにも当主が国庫の金をくすねていたらしくてな。それに、君の妹も贅沢三昧で嫁ぎ先からほとほと愛想を尽かされて、勘当されたのだと同僚からは聞いている。とはいえ、今の君とは関係のない話だが」
「……で、ですが。わたしは、蔵前の」
「梨々香、君は俺との婚姻を結んだ時点で勘当された扱いになっている。そうしてくれと当主直々に要望があったからな」
「……あっ、えっ……?」
つまり、わたしは蔵前の家と絶縁状態?
そんなこと、初めて知った。
蔵前の家についてのことなんて、聞いてなかったから当たり前といえば当たり前のことだけれども。
「禍福は糾える縄の如し、か」
「……わ、わたしのせいなのでしょうか……」
「だとして気に病む必要もないだろう。彼らは望んで君を捨てたのだから。それより、今日の暑さは流石に堪えるな。アイスクリンなるものを食べにでも行こう、梨々香」
「……は、はいっ!」
わたしが禍福を司る「あやかし」だなんて未だに信じられないけれど。
でも、龍司様がそう呟いたように、禍福は糾える縄の如しという。
ずっと不幸のどん底にいたわたしに幸せが巡ってきたように、我が世の春を謳歌していた蔵前の家には不幸が巡ってきた。ただ、それだけの話なのかもしれなかった。
◇
「アイスクリン……美味ではあったが、やはり洋菓子は少しばかりくどいところがあるな」
「そうでしょうか」
呉服屋で仕立てていただいた淡い藍色の着物に身を包んだわたしは、約束通りにアイスクリンを食べ終えて、龍司様の隣を歩いていた。
「新しいものを受け入れられないのは老いの始まりだと理解はしているがな……いや、やはり俺は水羊羹の方が好きだ」
「ならば、帰りに買って参りましょう」
「そうだな」
夏風が肌を撫でる触り心地に生きていることを、その喜びを感じながら、わたしは愛する人の後ろを三歩だけ離れて歩く。
でもごめんなさい、龍司様。わたしはあなたに嘘をついてしまったかもしれません。
だって、あなたの大きな愛に溺れたあとでは、野花のように慎ましやかな生など、望むべくもないのですから。