その少女、旅に出ず。
一か月ほど経ったとある昼下がりの事、またもや、アランの屋敷を尋ねて来た人物がいた。
食堂で昼食をとっているところに、コンコンと響くドアノッカーの金属音。
「今日もまた、お客様のようですな」
料理の皿を並べ終えたヴォイチェフがエントランスへと向かう。
例の御触れのせいもあり、このところは来客がひっきりなしだ。当初アランが予想していたよりも遥かに多い。この一か月、大陸各地から数多の戦士や魔法使いがこの屋敷を訪ねてきた。
だが、先日アンドレイを追い返したアランもこの頃には手慣れたものだった。彼の時と同じく、基本的には手合わせをして打ち負かすことで追い返せることを学んだ。あとはそれを繰り返すだけだ。
戦いたくもない相手、それも勇者や魔王を除けばかなりの実力者であろう人物ばかりの自尊心を打ち砕きまくっていることに良心が痛むが、何としても旅立ちを避けたいアランは心を鬼にして強者たちに連戦連勝していた。
「アラン殿。お客様です」
「食事を終えるまで応接室で待ってもらってくれ。今日はどんな人だい?」
「可憐な魔術師の女性ですな」
「そうか。少し話して、魔術の試合をしてお帰りいただこう」
いつもの調子でさっさと終わらせてしまおうなどと考えつつ、アランは目の前のステーキにかぶりついた。
……
二十分ほどで食事を終え、一度私室で身だしなみを整えてから応接室へ向かった。
別に相手が女性だから特別にというわけではなく、来客であれば寝間着や部屋着では出迎えられないというのは当然だ。それに、大抵の場合は最後に前庭で試合をする事になるので通行人の目にも入る。
応接室の扉を開けると、紅茶を出して控えているヴォイチェフと客人の魔術師が話していた。黒いローブに黒いとんがり帽子、手に握られた樫の木の魔法杖。いかにも魔女といった出で立ちの彼女が座るのは、先日のアンドレイが使ったのと同じソファだ。
「失礼します。アランで……す? えっ?」
おかしな挨拶となってしまったアランだったが、それもそのはず。そこにちょこんと座っている魔術師はどう見ても若かった。いや、若いどころか幼い。子供だ。
「あっ。えっと、あの、こ、こんにちわ!」
くりくりとした大きな目に栗色のボブカットの髪の毛。とても可愛らしい女の子だが、彼女が果たして勇者のお供として仲間になりたいという用件でここを訪れるだろうか。
「こ、こんにちは……」
しかし、相手が子供だからと言って相手にしないというわけにもいくまい。アランは一抹の不安を抱えながらも仕方なく一礼し、対面の席に着いた。
「爺、女性といったがこれは……子供じゃないかっ……!」
アランは斜め後ろに立つヴォイチェフに小声で抗議したが、彼は聞こえないふりをしてツンとしている。幼子にほだされてアランが旅に出るのであればそれで良いと思っているに違いない。
女性と表現するにはいささか幼すぎる。女子とでも言ってくれれば多少は心の準備も出来ただろうが、結果は同じだ。
「あの、あのぉ。勇者様ですか?」
「あ、はい! 僕が勇者のアランですが、君は?」
「よかったぁ! あたし、マチルダって言います! あの、えっと、魔法使いです! お、お友達になって下さい!」
マチルダと名乗った少女はオドオドと、ぎこちないながらも自己紹介をし、ぺこりと頭を下げて単刀直入に用件を伝えてきた。お友達という言葉は彼女なりの表現であり、やはり他の来客と同じように勇者の仲間入りを目指す一人で間違いないようだ。
「お友達、というのは遊び友達という意味でいいかな……?」
「ち、違うもん! あたしといっしょに悪いモンスターをこらしめてください!」
「ははは……まぁ、そうですよね……」
万に一つ、ただのお友達、たまにかけっこやかくれんぼをするお友達で良ければ快諾できたが、その甘い考えは打ち砕かれた。
しかし、こんな小さな子供が尋ねて来るとは思わなんだ。アランは顔を引きつらせながらも、少しこのマチルダという少女に興味がわいてくる。
「なってくれないの……?」
うるうるとした目で見つめてくる。これは精神的大ダメージだ。だがアランも簡単に負けるわけにはいかない。
「ううん、少し考えさせてくれないかな。魔族と戦うという事はとても危ないことだからね。その、マチルダちゃん。君はどこから来たの? 歳はいくつ? お父さんやお母さんは?」
「え、え、えっと、ななつ!」
「そうか、七つか。えらいねぇ」
指を折りながら年齢だけは答えてくれた。出身地や両親はまだ不明だ。質問は一つずつにした方が良いかもしれない。
「えらい!? えへへぇ」
「うん、とってもえらいよ。どこから来たの?」
「せれなりぐろ!」
「セレナ・リグロか。また遠くから来たもんだなぁ。本当にえらいぞ。まさか、一人でここまで?」
中核都市セレナ・リグロ。大陸中央部、百年前の聖魔大戦で激戦地となった都市だ。現在は公爵領となっており、大陸の中間地点として東西南北からの交通や物流の拠点となっている。そして、王都セレンティエーゼと魔都グランガルドに次ぐ人口を抱える大陸内第三の大都市である。
「うん! おししょうさまに行っておいでって言われたの!」
「それは驚いたな。こんな小さな子に一人旅をさせるだなんて、お師匠様の顔が見てみたいよ」
前回のアンドレイの出身であるセレストに比べれば王都までの道のりはいくらか近いが、七歳の女の子に一人で行かせる距離ではないのは確かだ。
「おししょうさまの悪口は言わないでください! す、すごい人なんですからね」
「おっと、これは失礼。決して悪口のつもりじゃなかったんだ、ごめんね」
マチルダがプクッと頬を膨らまして抗議してきた。目を潤ませる姿もそうだが、怒っている顔も年相応でなんとも可愛らしい。
意外にも、師匠に言われて嫌々やって来たというわけではなさそうだ。確かに指示は受けたのだろうが、ある程度はマチルダ自身もそれを望んでいたのだと分かる。
「それで、お父さんやお母さんは心配してないの? さっきも言ったけど、魔族と戦うのはとても危ないし、死んでしまうかもしれないんだよ?」
「お父さんはいません! お母さんはあたしをおししょうさまに預けるときに、おししょうさまの言う事をよく守りなさいって言ってた!」
「そうか……魔術師の弟子入りってのは詳しくないんだけど、そういうものなのなんだね。ここまで歩いてきたの?」
「ううん! 飛んできました!」
「飛んできた? それはどういう意味だろうか」
飛んできた、だけでは真意を測りかねる。文字通り空を飛ぶ魔術を使ったのか、あるいは瞬時にワープするような驚きの魔術を使ったのか、いずれにせよ、アランは見たこともない高度な魔術だ。
もしかするとこのマチルダは天才児と言うやつなのかもしれない。もしそうなら師匠が勇者の元へ送り込もうとするのも多少は納得できる。
「お、お空を飛んできました! この杖にまたがって、飛びます! 一日でここについたよ!」
「それはすごい。空が飛べるなんて、そんなことができる魔術師はこの王都でさえ何人もいないんじゃないかな」
幼少期のアランにも魔術を教えてくれる人物はいたが、高位の魔術師から手ほどきを受けたことはない。教われば使えるのかもしれないが、知識としては中の上といったレベルだと思われる。
基本的に偏屈な性格が多い魔術師と言う人種は、自らが生み出した術を弟子にしか伝授しない。別にアランも高度の魔術を習得したいとは考えていなかったので、こちらから頼んでいないというのもある。
その点、剣術や槍術、弓術は大衆にも浸透しているおかげでフランクだ。使える者が多いので間口も広く、弟子入りなどと堅苦しいことをしている者は数えるほどだ。
たとえば木刀を持った近所の子供たちが、その辺を歩いている非番の衛兵でもつかまえれば快くその場で剣の振り方を教えてくれる。そんな光景は何度も見てきた。
「そ、そうなんですか? じゃあ、すごいんです! あたし! でもおししょうさまのほうが、うーんとすごいよ!」
「そうだろうね。そんなすごい魔術を教えてくれたんなら素晴らしい人なんだろうね。でも、それならどうしてお師匠様ではなくマチルダがここに来たんだい?」
「おししょうさまは……ご病気なんです。あんまりお外に出られないの。だから、あたしが」
病か、とアレンは納得する。マチルダの声のトーンが急激に下がるのも無理はない。
「それと、お空を飛ぶのはあたしが自分で考えて練習したんだよ! おししょうさまも褒めてくれたの」
「えっ!? それは……想像以上だな、マチルダちゃん」
「マチルダでいいです! じゃ、じゃあお友達になってください!」
まさかの展開だ。もしかしたら、彼女はそのお師匠様以上の素質を持っているのかもしれない。ますますここへ来るように言われたのも理解できる。だが、どうあってもアランはマチルダと共に旅立つわけにはいかない。
不殺の誓いは伊達ではないのだ。
「……いいだろう」
後ろのヴォイチェフが「お、ついにですか」などと言っているが、アランの言葉には続きがあった。
「でも、その前にやってもらいたい事がいくつかある」
「えぇー? ま、まだ何かあるの?」
「大事なことだからね」
子供なだけあって、大した時間も経っていないのにこの状況に飽きてきているようだ。アランはこれを利用してマチルダに諦めさせるつもりでいる。
「まずは、そうだね。今までにやっつけた魔族がいれば教えて欲しい。名前が分からなければこれにお絵描きしてくれるかな? 僕はいろいろな本で魔族についての勉強はしてきたので、絵を見ただけでも答えが分かると思うんだ。マチルダは、お絵描き好きかい?」
そう言って、アランはヴォイチェフに頼み、羊皮紙と筆をテーブルに差し出した。
「うん、すき。でも、えっと……その……」
「うん?」
「……ないです」
「えっ、何だって? ごめん、よく聞こえなかった」
「モンスター。やっつけたこと、ないんですぅ……」
しょんぼりとした様子でそう伝えてきたマチルダ。これもアランの想定通りだ。マチルダが暮らす中核都市セレナ・リグロは、中核都市セレストとは違って魔都からはかなり離れている。その上この幼さだ。お師匠様とやらがよほどのスパルタ教育でない限り、実戦経験などあるはずがないと踏んでいた。
もちろん、天才児であれば実際に戦ってもその辺の魔族くらいならば勝てはするだろう。しかし、経験がないという事実は変えようがない。
「そうかぁ。でもそれはどうしようもないよね。近くに魔族がいなかったんでしょ?」
今にも泣きだしそうになってしまっているマチルダに対して、アランはあえて厳しい言葉ではなく、笑顔で優しくそう伝えた。
「う、うん! そうなの、だから……」
「もちろんさ。このくらいでお友達になれないだなんて言わないから安心してね」
こうして、いくつもいくつもマチルダがアランの仲間になれない条件を重ねて提示していく。四つも五つもクリアできない条件が重なれば、いくら幼子だろうとそれ以上のワガママは許されないと悟ってくれるはず。それがアランの導き出した策だった。
「よかったぁ!」
「それじゃ、次に教えてもらいたいことを聞いてもいかな?」
「うんっ!」
アラン自身にも当然、魔族を殺した経験などない。こんな純真無垢な子供を罠にはめるような真似をして、アランは心が荒んでしまいそうだと心の中で静かに泣いた。
「じゃあ次なんだけど……少し、マチルダにとっては怖いというか、少し気持ちが悪くなる話になるかもしれないんだ。大丈夫かな?」
「えっ、こわいお話……?」
明らかに引きつって歪んでしまう可愛らしいその顔。そこで、アランは一度は退く動きを見せる。
「あぁ、やっぱり無理だよね。この話は聞かないでおこう。変なこと言って悪かったね」
「ううん! だ、大丈夫です! でも……あの、本当にこわかったら途中でとめてもいい……?」
「構わないよ。怖いと思ったらいつでも言ってね」
かかった、と思う一方で、アランの心の中では純粋で心優しいマチルダに全力で謝罪している。
「えぇと、魔族と戦うって事は、魔族を殺さなきゃいけない話はさっきの通りだ」
「うん」
「つまりそれは、相手の命を奪うという事。魔族だって生きている。マチルダの魔術が命中したり、僕の剣で身体を貫かれたりしたら彼らだって痛いし、苦しむ」
「うっ、うん……」
「痛いよぉって泣き叫ぶだろうし、殺さないでくれってお願いしてくる者もいるはずだ。彼らも僕たちと同じ言葉でしゃべるからね。手足が千切れて酷いことになってる者も、身体が炎で燃えて物凄い臭いを発しながら死んでいく者もいるだろう」
「うぅぅぅぅぅっ……!」
唇を噛み締め、涙をこらえるマチルダ。実に想像力豊かだ。それでも話を止めろと言わないのは彼女なりの意地なのだろう。むしろアランの方もその健気な姿に泣きそうになってしまう。
「そしてそれは、魔族だけじゃない。一緒に冒険する人間の仲間が出来た時、そういった酷い目にあう仲間の姿も、きっと見ることになる。もしかしたら馬や犬を伴うかもしれないね。仲間じゃなくても町や村の人たちが襲われてそうなっている場面もないとは言えない。それで、彼らがそうなった時、助かる時もあるだろうし、死んでしまう事だってたくさんある。それを……たくさん見ることになる」
「うぅぅぅっ! うわぁぁぁぁぁぁん!」
とうとう大泣きし始めるマチルダ。さすがにやり過ぎだ。この話はここまでとしておいた方が良いだろう。
「できれば僕だって、そんなのは見たくないんだ。怖かったね、ごめんな」
「うぅぅあぁぁぁぁぁん……ひっく! うぁぁぁぁん!」
いわゆるガン泣きというやつだ。マチルダは軽い過呼吸となり、しゃっくりまでしてしまっている。
「爺、何か彼女の顔を拭くものを」
「……かしこまりました」
自分で泣かせておいてよく言うものだ、とでも言いたげな呆れ顔でヴォイチェフがちり紙かタオルを取りに行った。
マチルダは泣き続けてはいるものの、アランに身体を寄せて甘えたりはしなかった。本当に強くて良い子だ。アラン自身に慣れていないというのもあるだろうが、たとえお師匠様や母親が近くにいてもそんな真似はしないのではないだろうか。
「お待たせいたしました。マチルダ殿、これを」
「あ、ありがとうございます……おじいさん」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔にちり紙を当て、マチルダはそれらを一生懸命に拭い取った。
これでツーアウト。マチルダの脳内ではいよいよ警鐘が鳴り響いているはず。この時点ですでにアランの方が心折れてしまいそうなほどのダメージを受けているが、もう一息といったところだろう。
マチルダは賢い子だ。そうすれば彼女の方からお友達にはなれないと切り出してくるに違いない。
「マチルダ、少し疲れたんじゃないか。僕と一緒におやつでも食べようか。甘い焼き菓子があるよ」
「うぅ……? やき菓子? ビスケット?」
「いいや、クッキーだ。食べたことはあるかい?」
ブンブンとマチルダが首を左右に振る。
これも予想済みだ。大衆に多く流通しているビスケットとは違い、砂糖をたっぷりと含んだクッキーは上級層の嗜好品となっている。魔術師の元で修業をしているマチルダであればきっと食べたことが無いと踏んでの事だった。
アランはというと、屋敷を賜ってからは王族と変わらない贅沢なものばかり食べている。
「そうか。とっても甘くて美味しいんだよ。たくさんあるから紅茶と一緒に食べよう」
「うんっ!」
パッと咲くのは笑顔の花。まさに子供の笑顔は天使そのものだ。
……
数分後、アランが一度退室して手ずから準備したクッキーの箱詰めと、再度ヴォイチェフが淹れてくれた紅茶を目の前にして、マチルダがその瞳を輝かせている。ほんの少し前まで号泣していたとは思えないほどの変貌っぷりだ。
この辺りもやはり子供だなぁとアランは微笑ましい気持ちにさせられる。
「すごぉい! キラキラして宝石箱みたいだね、勇者様!」
色とりどりのクッキーは、ジャムがついていたりアーモンドがふりかけられたりしているものもあり、確かに初見の幼子からは宝石箱に見えるかもしれない。もちろんこの高級菓子はどこぞの貴族からの頂き物である。
「そうかい? どれでも好きなものを食べていいからね。それから、僕の事もアランでいいんだよ、マチルダ」
「ううん! 勇者様はえらい勇者様だからあたしはそう呼びたいの!」
「そっか。なんだかこそばゆいな。そんなに大したもんじゃないんだけどね」
ただただ旅に出たくないだけの怠け者。それがアランの自身に対する評価だ。変わってやれるのであればアンドレイにでもマチルダにでも、母親のアリエルにでも勇者の能力を譲ってやりたいくらいだ。
そう考えると神様というのも中々に酷な運命を授けるものだ。これほどまでに勇者に向いていない人物は、世界広しと言えどこのアランくらいなものだろう。
「ねぇねぇ、これなぁに?」
「それはイチゴのジャムが乗ったクッキーだね。甘酸っぱくて美味しいんだ」
「じゃあこれは?」
「カカオを練り込んだクッキーだね。甘いけど、少しほろ苦くて大人の味だよ」
「んんんんーーっ! どれから食べればいいかわかんないよぉ!」
嬉しい悲鳴。それからも幸せそうな顔であれもこれもと指さし、そしてやっぱりこっちから、などと悩んでいる。
あまりにも悩み過ぎて決めかねるのであれば、アランはどれか一つ選んでやろうかと思ったが、最終的にマチルダはジャムが乗ったクッキーを選んだ。
「いただきます!」
「どうぞ。では僕はこのプレーンクッキーを……」
「んっ!? あっっまぁぁぁぁい! 何これ! すっごくあまいよ、勇者様ぁ!」
口に含んだ瞬間にそんな感想が飛び出す。いくつかのクッキーの破片と一緒に。
「ふぁっ! ご、ごめんなさい!」
テーブルの上にぽろぽろとこぼれてしまったクッキーの破片を集めようとするマチルダだったが、ヴォイチェフがさっと動いてハンカチでそれを掃除してくれた。
「あ、ありがとう、おじいさん」
「なんのなんの」
「ははは、良いんだよ。たくさんあるし、なくなったりはしないから、慌てずゆっくり、好きなだけ食べてね」
「うん! ずっと飛んでたから、おなかすいてた!」
「そうか、確かに一日中移動してきたんだからそうだね。眠くはないのかい?」
「寝てるあいだも杖が飛んでくれるから、夜は寝てたよ!」
なんと、飛行の魔術とはそんなに便利なものなのかと驚かされる。しかし空腹はどうしようもない。結局は旅立ちを断って追い返すことに変わりはないのだが、その前にこの菓子だけではなく、きちんと食事もとらせてあげた方が良さそうだ。
「マチルダ。晩ご飯も食べていくかい? さっきお昼を済ませたばかりでおやつもこうして食べているし、少し先になるけど」
「えっ! いいの!? あ、でも……」
マチルダは遠慮をする。まだアランが求めるような経験がないせいで、お友達になれていないという後ろめたさがあるようだ。
「もちろんいいよ。一緒に食べよう。それからお風呂にも入って、明日の朝までゆっくり寝ていくといいよ。お友達になれるかどうかは明日また考えても良いと思うんだ。どうだい?」
「う、うん……ありがとう。わかった、そうします」
「爺、客間の準備を頼む」
「いつでもご利用いただけますのでご心配なく。下着や部屋着も老若男女問わずに常備しております」
さすがは国王陛下がつけてくれた執事。日々の業務に怠りは無い。今まで一度も使ったことのない客間が一つあるが、いつなんどきでも使えるよう、掃除や備品は行き届いていた。
それから晩餐までの間、一切意地悪な質問はせず、終始楽しいおしゃべりだけに徹した。
ひとつだけ、なぜお師匠様がここへマチルダを送ったのかという質問だけはしてみたが、やはり街の掲示板に張り出されていた勇者の仲間募集という御触れを読んでとの事だった。
「ねぇ、勇者様!」
「ん? どうした?」
すっかり日が落ち、アランが応接間の天井付近にあるシャンデリアのロウソクに魔術で点火していると、マチルダか声をかけてきた。緊張も取れ、かなりアランと話すのも慣れてきたようだ。
ヴォイチェフは風呂を沸かしたり、着替えの準備をしてくれているところである。
「ご飯の前に、いっしょにお風呂に入ろうよ!」
「えっ!? うーん、それはどうなんだろうか。嬉しいけど、困ったな」
マチルダとしては何の他意もない純粋なお誘いだ。父親がいないらしいので、性別すらも意識していない可能性がある。
今年で十七、マチルダより十も歳上となるアランもこんなに可愛らしい小さな子供に欲情などしないが、できれば断りたいところだ。
「えー? 一人だと目を瞑ってるあいだ、こわいもん」
「頭を洗う時かい? いつもはどうしてるの?」
「おししょうさまが洗ってくれるの」
よくもそんな状態の子を送り出したものだな、とは言えない。仮に一緒に旅をすることになっていたらどうするつもりだったのか。ずっとアランがマチルダと一緒に風呂に入ることになってしまうではないか。
「やっぱり、まだお友達じゃないから……?」
「そんな悲しそうな顔をされたら、ダメとは言えないか……わかった。でも、頭を洗ってあげるだけだからね。それが済んだら一人で入るんだよ」
「わかった! ありがとう、勇者様!」
案外、騙されているのはアランの方なのかもしれない。これが計算ずくだとしたら、マチルダはかなりの策士だ。
……
「そこ、そこ掻いてー」
「はいはい」
目の前に裸で座るマチルダの髪を、アランは後ろから泡立てた石鹸で洗ってあげていた。
もちろんアランは着衣のままで、腕と脚だけ服の裾をたくし上げている。頭と背中しか見えていないが、小さな身体はやはり華奢で、彼女を魔族との戦いに連れて行くことなど、不殺の誓いが無かったとしても憚られるくらいだ。こんな小さな子を血生臭い戦いに巻き込んでいいはずがない。
「こわいおばけはいないー?」
「いないよ。安心して。よぉし、綺麗になった。お湯をかけるからもう少し目を瞑っててね」
手桶で浴槽から湯を汲み、丁寧に泡を流していく。それが済んでしまえばここでのアランの仕事は終わりだ。
「はい、おしまい。目を開けていいよ」
「気持ちよかった!」
「じゃあ、僕は表に出てるから。身体を洗うのと、お着替えは一人で出来るよね?」
「うん、でも勇者様は入らないの?」
「僕は寝る前に入るから、食事の後だね」
「そっかぁー」
本当に残念そうだ。なぜだか分からないが、よほど一緒に入りたかったらしい。そんなマチルダを残し、アランは浴場を後にした。
それから数分後に淡い緑色のネグリジェに着替えたマチルダが出てきた。
手をつないでほしいとせがまれたので、お望みどおりに手をつないで食堂へと向かう。まるで年の離れた兄妹が出来たようでアランもほっこりとした気持ちになったが、明日には彼女の願いを断って送り返さなければならない。なんとも複雑だ。
「……」
「アラン殿? どうかなされましたかな。料理をお持ちしますが」
「ん、あぁ。考え事をしていた。問題ないぞ、持って来てくれ」
席についた時に浮かない顔をしていたようで、ヴォイチェフに指摘される。
自分でも理解はしているが、マチルダに対して父性愛のような、妹を思う兄の愛情のような気持ちが湧いてきてしまっている。泊まっていけと勧めたのはアラン自身だが、そのことを後悔し始めていた。
結果は変わらない。旅立ちは断る。これは絶対だ。しかし、仲良くなってしまってから断るのと、他人のような状態で断るのとでは、アランの気持ちに大きな違いがあるのだ。
今となってはもう遅いが、明日になればマチルダ以上にアランの方が辛いと思っている事だろう。
「勇者様! どうかしたの?」
「いいや、何でもないよ」
そんなことは露知らず、向かいの席から心配してくれたマチルダの頭を軽く撫でてやった。本人も嬉しいのか、にこにこしながら黙ってそれを受け入れている。
「はっ。これは……本格的にまずいな」
「ねぇねぇ、モンスターを一緒にやっつけれなくても、あたしは勇者様のお友達になりたいなぁ」
「……えっ?」
マチルダから、驚きの発言が飛び出した。たとえお師匠様の言いつけを達成できないとしても、アランとの縁は大事にしたいようだ。それはつまり……
「本当に、ただのお友達になりたい、っていうことかな? 旅には出ずに」
「……うんっ!」
少し残念そうにしている部分はある。だが、それでも構わないというのはありがたい。ツーアウトの状態であったが、既に彼女は無謀なことを頼んでいると理解していたのだ。
「それはもちろん……構わないが。大丈夫なのか、お師匠様は?」
「おししょうさまにはごめんなさいするしかないけど……でも、勇者様が言ってた通り、怖いとか危ないとか、そういうの見るのはいやだもん……」
「僕もだよ。怖いのはまっぴらさ」
「はっ、まさか! 勇者様は怖いの嫌なのに、いろんな人がこうやって会いに来るの!?」
「ま、まぁそうだが。それがどうかしたかい?」
ここでヴォイチェフが料理を運んできた。クリームシチューと、カリカリに焼かれたブレッドだ。実に美味そうな香りを立てている。
「お待たせしました。どうぞ、お召し上がりください」
「いただきまぁす!」
話の途中だったはずだが、マチルダは目の前のシチューに意識が持っていかれてしまった。可愛い。
「いただきます」
別にそれを咎めるわけでもなく、アランもシチューに口をつける。クリーミー且つ濃厚で非常に美味い。
「あっ、勇者様! その、いろんな人たちが来て困ってるなら、あたしが追い返してあげるぅ!」
と思えば次の瞬間には話題が逆戻り。本当に子供の話題運びは自由奔放だ。
「ちょっと待って。とにかく、今回はマチルダは僕と魔族を倒す旅に出るのは諦めてくれたってことでいいのかな?」
「うん!」
「そうか。それで、追い返すというのは……?」
「あのね、おししょうさまに一回、お話をしに帰ったら、またここにもどってくるから、そしたらあたしがお客さまを追い返してあげる! だって、あたしはもう勇者様のお友達だもん!」
「それは……まぁ、ありがたいが。住み込むって意味かい?」
「うん!」
「マチルダ殿、それはアラン殿の世間体もありますので。女の子と暮らしているとあっては、あらぬ噂も経ちます」
アラン、ヴォイチェフが揃って異議を唱えるが、マチルダはブンブンと大きく両手を挙げて左右に振った。
「ダメダメ! あたしは勇者様を敵から守るの! だって、そうでも言わなきゃおししょうさまがここにもどしてくれないもんっ!」
なるほど、これで分かった。アランとは仲良くしたいが、同行を断られたとあればマチルダはそのままいつもの生活に戻るだけだ。しかし、勇者を外敵から守るという謎の仕事さえあれば、お師匠様にはここへの長期滞在を認めてもらえるという魂胆らしい。
アランを訪ねて来る人々を敵と表現していいかは分からないが。
「お待ちを。お師匠様はご病気のはず、マチルダ殿がいてあげないと」
「ううん! あっちに帰ったりこっちに来たりをくり返すからいいのです!」
まず、弟子を送り出している時点でこれは言い訳にはならなかったはずだ。ヴォイチェフの意見は突っぱねられた。
「いや……参ったな」
とは言いつつも、アランはたまにマチルダと会えることが少しばかり楽しみになってしまっていた。もはや手遅れ。重症だ。
「というわけで、明日からよろしくお願いします……っ!」
ぺこりと頭を下げるマチルダ。一度帰るという話だったが、さっそく明日から露払いを始める気らしい。数日たってお師匠様の元へ帰り、またアランの家に戻ってくるという感じになりそうだ。
「アラン殿?」
「もう、受け入れるしかないだろう。実際、僕にとっては助かるからね」
「はぁ……妙な形で子供にほだされる事になろうとは。しかし、このヴォイチェフ、遠からぬ未来にアラン殿を送り出せる日が来ると信じておりますからな。ゆめゆめ、ご自身の使命をお忘れなきよう」
渋々、ヴォイチェフがマチルダの滞在を了承する。実際、彼もマチルダの事を新しく孫娘が出来たようで可愛らしいと認識しているのは間違いない。
こうして、新たな同居人が増えた、アラン邸なのであった。
『魔術師マチルダ、撃破……?』