その勇者、旅に出ず。
「おはようございます! アラン殿! 今日も良い天気ですなぁ!」
真っ暗だったはずの寝室に、太陽の光が強制的に差し込まれた。
カーテンを開け、さらには窓までもガバッと解放したのは、ここ一年で誰よりもアランが耳にしているであろう聞き慣れた声だった。
齢七十を超え、しわがれて細くなった体躯とは相反して野太く、生気に満ち溢れたその大音声。一年前に国王陛下から専属で『付けて頂いた』執事のヴォイチェフのものだ。
ヴォイチェフは真っ黒な執事服の胸の辺りに手を当て、恭しくお辞儀をした。だが、それはアランの目には映らない。布団から出ようとしないからだ。
ぴくり、とヴォイチェフのこめかみに僅かな動きがあった。
「アラン殿!」
「……まだ眠いので」
ここ一年、ほぼ毎日のように繰り返されてきた問答だ。
布団から出たくない勇者と、それを叩き起こす執事。これが、この屋敷の日常であった。
アランが住む屋敷は、王都セレンティエーゼの城壁内、セレンティエーゼ城の外郭のすみにある。
城の内側から王が暮らす宮殿のある本丸、一つの城壁を挟んで内郭には重臣たちの屋敷、外郭には町民らが暮らす住宅街や商店、そして内外二重の城壁の外には水路としても利用される堀があり、その外に畑や農家が広がっている。
この屋敷は、一年前に国王陛下から賜った。一人で暮らすにはいささか広すぎる代物だが、それまで実家暮らしだったアランはこれで両親から離れられるとありがたく頂戴した。勇者であるアランは、常日頃から口を酸っぱくするほどに両親から「早く旅立て」と言われ続けていたからである。
だが、これが罠だった。
ヴォイチェフだ。屋敷と一緒に、執事のヴォイチェフも国王の命によりやってきた。彼は両親よりもしつこく小言を言い続け、それをのらりくらりと躱し続ける必要があったのである。今となっては慣れっこだが、それでも鬱陶しい事に変わりはない。
旅に出ろと言われ続けているのにも理由がある。勇者であるアランだが、その血はおよそ百年前までさかのぼる。
聖魔大戦。そう呼ばれる大戦争があった。まさに血で血を洗う大戦争とはこのことだったらしい。
この世界唯一の大陸であるユレーヌ大陸。その東部にある王都セレンティエーゼと西部にある魔都グランガルド。人間と魔族が大陸中央でぶつかり、一進一退の激戦を繰り広げたのだ。
その大戦に終止符を打ったのが、時の勇者、大魔術師アレックスであった。
彼はアランの曽祖父に当たる人物であり、勇猛果敢に仲間たちと共に戦い、ついにはグアルゴンという当時の魔王だった巨人の化け物を討伐したのだ。
その後、魔族は魔都グランガルド周辺へと引っ込み、その先百年に及ぶ停戦協定が樹立された。なぜその時に魔族を根絶やしにしてしまわなかったのかという意見も飛び交ったようだが、アレックスは胸に不治の大怪我を負い、とてもではないが戦える状態になかったという。
その後、アレックスは妻を娶り、一人の息子を生んだ。もちろん、勇者の血を継ぐその子は素質にも恵まれ、立派な聖職者、後に聖戦士であるパラディンとなった。しかし、勇者の器ではなかった。
不思議なもので、絶大な力を持つ『勇者』は百年に一度しか生まれないとされ、たとえ実子であってもそうはならないのだという。確かにアレックスの息子は非常に優秀な人物ではあったが、魔族を根絶やしにできるかと問われればそこまでの傑物ではなかった。
そして、時代は進んでその息子も子供をさずかる。晩年での結婚だったのは、勇者の血を絶やすなという周囲の意見からやむを得ずといった気持ちだったのかもしれない。元は聖職者だったことも大いに関係しているだろう。
その子供が現在、勇者と言われるアレンの母親に当たる人物だ。名はアリエル。彼女もまた戦いの才能に恵まれ、槍術では達人の域にまで達している。
しかし、彼女も自身の父親と同じく一騎当千の勇者ではなかった。かなりの実力があることは確かなのだが、誰よりも彼女自身が勇者でないことに打ちひしがれていたことだろう。
さらに時は流れ、アリエルは恋に落ちる。それがアレンの父であり、街で刀鍛冶を営んでいるミハイルだった。
勇者の血統の名家であるアリエルはいつしか彼を婿に取り、アランが生まれたというわけだ。
アランは生まれながらにして勇者だった。別に勇者である証などは存在しないのだが、幼少期の時点で格が違うと、母親であるアリエル自身がすぐに気づいた。
四歳の頃には魔術を見せれば即座に復唱し、少年期になってからは剣術の腕前もめきめきと成長。師範役であった王宮の戦士長を打ち負かすほどの実力をつけた。
さらに、彼女にとっての祖父、アランにとっての曽祖父であるアレックスの時代から数えるとちょうど百年の月日が経っていることで誰もが確信する。
アランこそ勇者である、と。
ただ、本人にはまったくもってその気がない。魔術も一度唱えてしまえば日常生活でちょっとした火を使う以外では滅多に使うこともなく、剣術の指南も戦士長を倒してからはサボってばかりだった。
母親であるアリエル本人が槍の稽古をつけたこともあったが、これにも勝利してからというものの、何かと理由をつけて逃げ続けている。
何度も無理やり付き合わされそうになったが、隙を見て脱走。脚も異常に速いせいで誰にも捕まえられないという傍若無人っぷりだ。
単純にアランが面倒くさがりな性格であるというのもあるが、彼には一つの大きな弱点があった。
「むっ、こんなところに蚊が」
「あぁぁぁっと! ちょっと待ったぁ!」
両手で蚊を潰そうとしたヴォイチェフ。飛び起きたアランがその腕を目にもとまらぬ早業で掴んで拘束する。
そう。勇者アランは、虫一匹の駆除さえも許せないほどの博愛主義者であった。
現世の日本でいう第五代将軍、徳川綱吉が発布した生類憐みの令を体現したような性格と言えばいいのだろうか。
能力、体躯、容姿、どれをとっても一級品のアランだが、この性格だけは勇者として魔族を討伐するという使命には完全なる足枷となっている。
すらっとした長身、綺麗に整えられた黒髪は寝起きだというのに一切の乱れがない。軽く目にかかった前髪を手で横に流し、アランはその超人的な視力で蚊が窓から室外へと飛んでいくのを見送った。
「ほほっ、ようやく起きておいでですな、アラン殿。おはようございます」
「また寝るだけさ。爺、殺生は避けるように」
「そうはいきません。ほれ、早う起きなされ。客人が待っておいでですぞ」
朝っぱらから客人とは、と思いつつも渋々寝間着から平服へと着替えるアラン。頼んでもいないのに、ヴォイチェフは脱着衣を手伝ってくれた。この辺りはさすが執事というところか。
姿見に映るのは黒字のスラックスに白いボタンシャツ、サスペンダーをつけた美男だ。
太った男がベルトの代わりにサスペンダーを使用するイメージが強いが、男前にはこんな一般からは少々外れたセンスでもかっちりと決まるものだから不思議なものだ。
「よくお似合いです」
「ありがとう。それで、来客と言うのは?」
「街の仕立て屋です。アラン殿が帽子を頼んでおいでだったとかで」
はて、と首を捻るアラン。城下町には度々出向くが、帽子など頼んだだろうか。思い出せない。
……
二階の寝室から、らせん状の階段を降りて一階にある応接室へ。
ヴォイチェフがノックをすると、中から「はい」という声がした。凛としたテノール。男のものだ。
「お待たせいたしました。主人のアランでございます」
ヴォイチェフがそう言いながら扉を開ける。
「どうも、アランですが。帽子屋さん?」
応接間は大理石で出来た大きなテーブルと、それに向かい合う二脚のソファ。壁には盾や剣などの調度品も飾られており、この屋敷の中では最も豪華な部屋となっている。
座っていたのは若い男だ。面識はない。筋骨隆々の戦士風の佇まいであり、その横には龍でも倒そうかというほどの大剣が立てかけられている。
ヴォイチェフにしてやられた。彼は帽子屋などではない。どう見ても傭兵か冒険者……とにかく戦士職であることは間違いない。
「いいえ。帽子屋じゃないですね」
歯の辺りからキラッ、という効果音が聞こえてきそうなほど、朗らかな笑顔を向けられた。嫌な奴ではないようだが、ヴォイチェフに騙されたせいでアランから見た第一印象は最悪である。
「そ、そうですか。で、何用でこちらへ?」
「もっちろん! 魔王討伐の為、私と一緒に冒険をし……」
「お引き取り下さい!」
ばたん!
アランは戦士の正面に座りもせず、次の瞬間には退室していた。
今までも来客は少なくなかったが、大抵は城からの使いであったり、両親だったりした。もちろん、彼らは口をそろえて「旅立て」と言ってくる。もちろんアランの回答はノーだ。
そこで周りも一計を講じたらしい。こういった人物がアランを訪ねてくるという事は今までなかった。国王陛下か大臣閣下辺りが国中に勇者の仲間募集中という御触れでも出したのかもしれない。
アランにとっては傍迷惑な話だ。
「あぁっ! ちょっと、アラン殿!」
後ろから追いかけてきた戦士風の男に軽く肩を掴まれる。さすがに勇者の仲間になりたいというだけあって、体さばきは見事なものだ。実力もかなりのものだろう。
「……はぁ。お引き取りください。僕はそういったことには興味がないので」
「きょ、興味がない? えっ、私は人違いをしているんじゃないですよね? とにかく、少しお話ししましょう! 貴方のことも知りたいので!」
澄んだ目で一心にアランを見つめてくる。さすがに遠路はるばるやって来たであろう彼を、ここで追い返すのも可哀想かとアランは肩を落とした。
「分かりました。話は聞きます。でも聞くだけですよ」
「おぉ。よかった! ささ、こちらへ! アラン殿、お座りくださいな!」
「はぁ」
なぜかぺこぺことゴマすりされながら席を勧められているが、ここはアランの屋敷である。
「まずは何からお話ししようかなぁ! そうだ、洞窟に潜むゴブリンを一人で討伐した話などいかがでしょう! ざっと三十体はいましたよ!」
席に着くと、ヴォイチェフが紅茶を淹れてくれた後に脇に控え、戦士風の男の武勇伝が披露され始めた。やはりと言うべきか、アランが彼を無下にしようとしたのは実力を知らないからだと解釈したらしい。
自然、就職面接にも似た形で実績や今までの活躍の話を聞かされることとなる。それ自体は別に構わないのだが、どう転んでもアランは旅に出るつもりがないので、彼を満足させることは不可能だ。
「先に、お名前を伺いましょうか」
「おおっと! これは失礼しました! 私の名前はアンドレイ。中核都市、セレストより参りました! 狩った大鬼、小鬼は数知れず。鬼潰しのアンドレイと言えば伝わるでしょうか」
「なるほど。アンドレイさんですか。失礼ながら、王都の外の英雄には疎いもので」
「英雄だなんて! 勇者の貴方に比べたら! ははは!」
短く刈りこんだ頭をペシペシと叩きながらアンドレイは照れ臭そうに笑っている。
「まぁ、その小鬼、ゴブリンなんですがね。山奥の洞窟から人里に降りてきては女子供を攫うというので、私が退治に出かけたわけですよ!」
百年前の大戦後、基本的に魔族は魔都グランガルドの近くにいるのだが、こうして洞窟などで細々と暮らしている者もいるようだ。特に、このアンドレイの出身地である中核都市セレストは大陸最西部にある魔都から近い距離にある。
つまり人間が住むエリアとしてはかなり危険な地域という事になる。最も魔都から遠く、治安も驚くほど良いこの王都セレンティエーゼとは雲泥の差である。
ちなみに、セレストのようにセレンティエーゼの名前をもじって命名された都市は大陸中に散らばっている。王都の名前にあやかっての事だ。王の直轄領は王都セレンティエーゼ周辺だけで、その他の中核都市は他の諸侯によって自治が行われている。
爵位は全部で五爵。序列は上から公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となり、その頂点に国王陛下や王子殿下、王弟殿下がいる。
それに次いで貴族で最高位となる公爵は王族からしか輩出されない。たとえば王の叔父や従兄弟などはこれに叙される。また、最下位の男爵のさらに下に準爵位として騎士号である士爵を持つ平民もいるが、彼らはあくまで百年前に戦功を挙げた騎士の子孫であり、貴族としては扱われない。平民の中には五爵に子爵を加えた六爵を認めるべきだとの声もあるが、今のところは認められていない。
王都と同じ名を持つセレンティエーゼ王国は広大なユレーヌ大陸では魔都グランガルド周辺を除くすべての地域を支配する巨大な国家であり、その国王を頂点とする序列は絶対だ。
……特例として丁重に扱われる勇者を除いては。
「女子供を……それは卑劣な輩ですね」
適当に相槌を打つアラン。確かにそれ自体は許せる行為ではないが、だから殺してしまえとはならないのが苦しいところである。
「私は洞窟に単身乗り込み、出てくるゴブリンどもをバッタバッタと切り捨ててやりました。この愛剣でね!」
自慢げにアンドレイが手をやる大剣。鞘にも入れずに抜き身の状態のそれは、切れ味ではなく力づくで叩き潰して使用するものだと思われる。いろんな敵を屠ってきたという割には血さびなどもなく、よく手入れされているようだ。
「それはお手柄でした。お怪我などは無かったのですか?」
「はい! かすり傷一つ貰いませんでしたよ! ただ、奴らのねぐらの中で攫われた者たちの死体を見た時には心に来るものがありましたね。無残にも食い荒らされ、ひどい悪臭でした。何日もその光景が夢に出てきたほどです……」
「そうですか……」
つられて気の毒そうな声を出してはみるものの、遠い地で起きた過去の事件だ。それも、ゴブリンたちは空腹をしのぐために人を食っていたのだろう。逆に人間だって食うためであれば家畜を殺す。アランもそれは承知だ。
それよりも血を吸われたくないからと、目の前でいたずらに叩き潰される蚊の方がよっぽど気の毒。そう思ってしまうのがこの勇者、アランなのである。
ただし、アランはこのアンドレイの行動自体は素直に称賛しても良いと思っている。
ゴブリンに非は無い。だが、その脅威から住民を守るために動いたこの青年の行動は決して間違っていない。もちろん、同じ立場にあったとしてもアランには殺生などできないのだが。
間違っているのは、自分が勇者だからといって魔都グランガルドの地に攻め込み、今は停戦協定に従って大人しくしているだけの魔族たちを殺戮しろという周りの意見だ。そんなことをしていい道理などない。
百歩譲ってそれを行うにしても、この王都セレンティエーゼが魔族からの侵略を受けた時だ。そして繰り返すが、仮にそうなったとしてもアランに殺生などできない。
「それで、どうでしょう? 私の実力を少しは認めて頂けるとありがたいのだが!」
「あ、いや、その……本当にご立派だとは思うのですが」
「ふむ? あぁ! さすがに数が多いだけの小鬼どもではご不満か! 分かりましたとも、では次に、大鬼退治のお話をいたしましょう!」
アランはそれからしばらく、大鬼、つまりオーガ討伐の話を聞かされるのであった。
……
三時間経過。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「アンドレイさん、どうしてそんなに疲れてるんですかね。疲れてるのは僕の方なんですが……」
「そ、それは貴方が首を縦に振らないからでしょうよ!」
「そう言われましても……」
「あぁもう! 何がご不満なのだ! 私はこの腕一つでいろんな人を救って来たと自負しているというのにぃ! 世界はこの筋肉で救われるというのにぃ!」
ソファに座ったまま、両手で頭を抱えた筋骨隆々の男が前後左右に上半身を大きく揺らしている。悩み悶えているのだろうが、新手のトレーニングにしか見えず、軽装鎧がガチャガチャと鳴って煩わしい。
一通り話を聞いたアランは「なんかこの光景ちょっと面白い」という感想くらいしか持っていなかった。
「いえ、不満があるとかそういう理由ではないんです」
とりあえず、この長い時間で考えた言い訳で切り抜けようとアランが反撃を開始した。
「不満が無いのであれば、是非とも一緒に!」
「いいえ。僕は勇者の存在価値というものは今現在すぐに発揮されるものだと思っていないんですよ。なんというか、これは僕にしか分からない感覚なのだと思います」
「うん? 仰る意味が良く分からないのだが」
珍しいことを言い始めたぞ、とアンドレイだけではなくヴォイチェフの方もアランの言葉に興味津々だ。
「この国には勇者の伝承と同じく、魔王の伝承も伝わっているはずです。もちろんご存知ですよね? 百年に一度、伝説の勇者と共に伝説の魔王も誕生する、と」
二人が頷く。
そう、伝承では魔王グアルゴンに匹敵するほどの巨大な力を持つ魔王が誕生するとされているのだ。ちなみにそれがいない状態、つまり平時の魔都グランガルドでは魔将軍と呼ばれる為政者が政権を執っている。
つまり、伝承によればセレンティエーゼには人間である国王と勇者がおり、グランガルドには魔将軍と魔王がいる状態となる。いや、そうなるはずなのだが、厳密には魔王誕生の話は伝わっていない。わざわざ敵方もそれを知らせてくるはずがなかろう。
しめしめと思いながらアランは続けた。
「多分、魔王が生まれたとしたら、僕の中でビビッと何かが走る感覚があるんだと思うんですよね。それがまだないという事は、魔王はまだ生まれていないんですよ。それが一年後か五十年後なのかは分かりませんが、今じゃないのは確かだ」
「まだその力を使う時ではない、と?」
「その通りです。逆を言えば、今あちらへ攻め込んで僕の命に何かあったらどうするんですか? いずれ生まれてくる魔王にはどう対抗するんです? だから、まだ僕は旅立つべきではない。そう思っているんですよ」
ヴォイチェフからは深いため息が吐かれた。これでアンドレイも諦めてくれるだろう。そう思ったのもつかの間だった。
「いいや! であればこそ、今攻めるべきでしょう!」
「えぇぇ? 何でですか、話聞いてました?」
「今、魔王がいないのであれば、その他の魔族を根絶やしにする最大のチャンスではありませんか! 王宮の騎士や兵、冒険者や傭兵も募り、一気にたたみかけましょう! 魔王が生まれた時、周りに誰もいなければその時も優位に立てます! というより、魔族が絶滅して男女のつがいがいなくなれば、魔王は今後生まれてきません! 我らの代でこの争いに終止符を打つのです!」
簡単にあきらめてくれはしなかったか、と心の中で舌打ちをするアラン。しかし、勇者にもしもの事があっては一大事だという話は完全に無かったものにされている。
「いや……」
これは困った。見た目通り、脳みそまで筋肉で出来ているのであれば説得は難しそうだ。しかし、意外にも助け舟を出してくれたのはヴォイチェフであった。彼自身もあまりの長話に疲れてきていたのかもしれない。
「であればアンドレイ殿。アラン殿を抜きにした魔族討伐隊を編成してみてはいかがであろうか? アラン殿も、寡兵時に名前を貸すくらいの事は構いませんな?」
「え? あぁ、確かにそれはいい考えだな、爺。アンドレイさん、どうでしょう。魔王はいずれ僕が引き受けますが、腕に自信がおありであれば、勇者の名のもとに討伐隊を立ち上げてみては? 総大将はお任せしますよ」
「なんと! それはこれ以上ないくらい光栄なことですが、資金などは都合してもらえるのだろうか?」
「それは僕には無い力なので、国王陛下にご相談ください。爺、何か書く物を。アンドレイさんに陛下への紹介状を差し上げる」
「かしこまりました」
ヴォイチェフがすぐに羊皮紙と羽ペンを運んでくる。さらさらと国王陛下宛ての手紙を書き、丁寧に丸めると、勇者家の紋章である翼竜の封蝋でそれを閉じた。
一度床に跪き、アンドレイは恭しくそれを受け取った。嘘偽りなく、感無量と言った様子だ。
「あ、そうだ。アンドレイさん。こちらからも質問が」
「はい、なんでしょう。私に答えられることであれば」
「なぜ、僕の家を訪ねてこられたのですか?」
「え? それはもう、国中にお触れが出てますから。勇者と旅路を共にする強者を求むってね」
やはりそうだったか。余程腕に自信が無ければ直接ここには来ないだろうが、それでも国中となれば両手では足りないくらいの猛者たちが尋ねて来るに違いない。早くもアランは憂鬱だ。
「まさか、私が一番槍ですか? あんなに遠くから来たのに?」
アランとヴォイチェフが頷く。
「なんてこった。王都周辺に住む戦士たちは腰抜けばかりか!」
「王族やその関係者、僕の母親を除けば、魔都グランガルドから遠いせいで地域住民の危機感は少ないですからね。仕方のないことです」
「たるんでいる! まさかとは思うが、アラン殿も稽古をサボったりはしておられないでしょうね!」
「僕は……まぁ、たまに、ですかね」
全くやっていないとも返せず、ポリポリと頭を掻きながらアランは返した。
「たまにじゃダメですよ! 貴方は勇者なのですから! 得意な得物はなんです! 魔術か、剣か、弓か! 剣が使えるのであればお手合わせ願いたい!」
「魔術を少々……」
「アラン殿の得物は剣です」
はぐらかそうとしたが、これはヴォイチェフに阻止された。自身は旅立たずにアンドレイを単身で追い出すのだから、稽古くらいつけてやれという事だろうか。
アランは何でもそつなくこなすが、一番の得意武器は何かと聞かれれば剣だ。少年時代の稽古で言えば触れていた時間も一番長い。
「では手合わせしようじゃないか! 庭先をお借りしたい!」
「いや、腰がちょっと……」
「では明日でも明後日でも構わん! それまで私は帰りませんからね!」
……
「本当にやるんですか?」
「当然です!」
屋敷の前庭の芝生の上で剣を構える二人。アンドレイは自慢の大剣、アランは小ぶりな直剣だ。斬れるが、刀身はレイピアほどに細く軽い。
間には審判役としてヴォイチェフが立っている。アランの屋敷は通りに面しているので、通行人たちが次々と足を止めてちょっとしたお祭り騒ぎになってしまっていた。
特に黄色い声援が目立つ。当然ながら美形の勇者には女性ファンも多いようだ。
「では、はじめっ!」
パンッ、とヴォイチェフが両手を叩いて試合が開始される。
「うぉぉぉぉぉっ、お?」
開始と同時に試合は終了する。力の限り大剣を振り上げたアンドレイだったが、彼の目の前には既に首元に切っ先を向けたアランが立っていたのだ。一秒と経たぬ決着。
剣術がどうという話ではない。ただ、アランは直剣を前に突き出して一歩踏み込んだだけだった。
「そこまで!」
ヴォイチェフの声が、野次馬たちの歓声に塗りつぶされる。
「ば、馬鹿な! まさか、魔術で加速されたのではないか!?」
「いいえ、踏み込んだだけです。そんな卑怯な手を使うわけないでしょう」
「この距離をですか!?」
どう頑張っても五歩以上は必要だろうといった距離だったはずだ。それを一瞬で詰められた。信じられないといった様子でアンドレイは顔から冷や汗をダラダラと流している。
早いだろうとは思っていたが、まさか自分が剣を振り下ろすのが間に合わないとは。アンドレイの気持ちを代弁するとしたらそんなところだろう。
「しかし、アンドレイさんも見事なお力でした。それほどの腕前であれば、討伐隊の総大将の名に恥じませんね」
本心から言った言葉のつもりだったが、これがいけない。アンドレイはみじめに感じてしまったようで、わなわなと小刻みに震え始める。
「アラン殿」
「はい?」
「せめて一撃だけ、受けてくださいぃぃぃぃっ!」
振り上げていた大剣をそのままアランの頭上に振り下ろすアンドレイ。試合はすでに決着しているというのに、これは騙し討ちのような一撃だ。
群衆からも悲鳴が飛ぶ。
「まぁ、一撃だけなら」
しかし、アランはニコリと笑顔を返すと、直剣をくるりと右手で回してその重い一撃を造作もなく優雅な所作ではじき返した。
アンドレイの大剣は再度大きく跳ね上がり、彼の後ろに放られる。弾かれた時の衝撃に手がしびれて離してしまったのだ。
どさりと大剣が芝生に突き刺さる音がして、自らの両手を見るアンドレイ。がっくりとその場に膝から崩れ落ちた。
「そんな、馬鹿な……」
「見事な一撃でした。ハッキリ言って、今まで受けた攻撃の中では一番力強かったですよ。驚きです。では、陛下によろしくお伝えください」
アランが黄色い声援に軽く手を挙げながら屋敷の入り口に向かい、ヴォイチェフがアンドレイに深々と一礼してそれに続く。
「お、お待ちください! アラン殿!」
「……はい。なんでしょう」
面倒だなとは思いつつも、これが最後に交わす言葉だろうと振り返って丁寧に対応した。周りの目もあるのでぞんざいには扱えないというのもある。
「これは……お返しします」
「はぁ。どうしてでしょう」
返されたのは、国王宛ての紹介状だ。アランとしては別にどちらでもいいので受け取るが、気にはなるので質問した。
「私は自分が紛れもない強者であると信じ込み、舞い上がっていました。だが、それは間違いであったと思い知らされた。こんな体たらくで総大将など務まりません。すぐに戦死して終わりでしょう」
「いいえ。アンドレイさんは強者ですよ。僕も世界を多くは知りませんが、相対した人間の中で、その腕前は一番でした。これは嘘偽りのない事実です。自信を持ってください」
「はは、自信だなんて、それを貴方から言われるのは酷というものですよ。今一度、武者修行の旅に出るしかないと考えを改めたんです。弟子にしてくれ、と言っても聞き入れてはもらえないでしょう?」
おそらく、アンドレイとしてはこんなに弱い弟子など取れないでしょう、と言いたいのだろうが、アランとしては弟子なんて面倒なので嫌だ、と思っているだけである。
ただし、結果は合致するので大きな問題にはならない。
「はい、弟子は取らないと決めているので」
「必ず……アラン殿から一本取れるように腕を磨いてきます」
「そうですか。であれば、これは本当に不要ですね」
アランの手の中、国王陛下に宛てた紹介状が燃焼して消えていく。基礎的な炎の魔術だ。それを見たアンドレイは「はは……本当に魔術も使えるじゃないですか、勝てっこないや」と力なく笑った。
……
とぼとぼと帰っていくアンドレイの背中を見送り、屋敷に戻るアラン。何か悪いことをしてしまったなという気持ちが拭えないでもない。
「アラン殿」
「爺、これでよかったよね。あと何が帽子屋だよ。嘘つき」
「はて。私から言うことは何もありませんな。それよりも魔王の件ですが、なぜ今まで黙っておられた」
魔王の件。まだ生まれていないとかなんとか、適当に言ったあれの事だ。魔王が生まれたかどうかなど、アランには知る由もない。
「うーん。別に言う必要が無かったから、かな。もし生まれてきても吹聴して回るつもりはないよ。民衆の不安をあおるだけだ。その時は仕事に行くさ」
「その日が来るのを願っております」
「なんでだよ。どうせなら魔王が生まれない平和な未来を願いなって! 老い先短いんだからさ!」
「なんの! あと二十年は生きますぞ!」
こうして、アランが望む平穏な日々を乱されてしまった怒涛の一日は終わったのだった。
『鬼潰しのアンドレイ、撃破』