狼は醒めない夢を見る
ぎゃあぎゃあと五月蠅い泣き声が夜の森の静寂を破る。
春になったとはいえまだまだ夜は冷え冷えとしていて子どもが入ってくるような時間でも場所でもないはずだ。
しかしいくら待ってもその泣き声が止むことはなく、ひたすらにこの広い森の中を沁み渡ってゆく。
このまま放っておいたら朝にはもう冷え切って死んでいることだろう。
それどころかこのまま泣き続けていたら餓えた獣達の餌食となるのも時間の問題だ。
淘汰される弱者など放っておけばいい――前の自分であったらそう己に言っただろう。
しかし今の自分はもうそんなに強くなかった。
過去の強かった自分に憧れるほどに、守るべきものがあった自分を羨むほどにはもう弱っていた。
丸めていた身体を起こすと全身を冷たい風が撫ぜるので、思わずぶるりと身震いをする。
ゆっくりとした足取りで泣き声の元へと進みながら、念のため周りの気配を探るがまだ近くに他の奴が来ている様子はなかった。
少しほっとしたのも束の間に音源の元へと辿り着く。
質素な産着に申し訳程度の布で包まれた赤子はもう寒さで大分顔が赤くなって体温も奪われていた。
もっと柔らかいものでもあればよいのだが生憎こんな冬の森に丁度いいものなどなく、仕方がないのでそのまま布と産着を咥えて一番近くにある木の根に開く穴に赤子を引き摺りこむ。
やはり高さが足りず足元が擦れるのか歩くたびに一層泣き声が大きくなるが、穴に入り抱きかかえるように身の毛で包み込むと温かさに安心したのかしばらくするとまどろみ始めた。
そのまま眠るまで見守ってから自分も眠りにつく。
思った以上に自分には警戒心というものがないらしい。
聞き覚えのないあどけない笑い声と引っ張られる尻尾の違和感で目が覚めた。
ああそうだ、昨日拾ったんだったか。
動く尻尾が面白いのか掴もうと手を一生懸命伸ばすので、それに合わせてパタパタと動かしてやる。
しばらくそうやって遊んでいるとお腹がすいたのか愚図りだした。
さて赤子には何を食べさせて良いのやら。
残念ながら自分は雄なので母乳を与えてやるという手段は持ち合わせていない。
だからといって兎など捕まえてきても食べられるわけでもないだろう。
そうなると手段はひとつしかなかった。
赤子を置き根元から少し離れた所まで来ると遠くまで聞こえるように長く引いた声をあげる。
彼女のことだ、昔からねぐらにしているこの森を離れていることなかろう。
案の定あまり待つこともなく彼女は現れた。
寝起きだったのだろうか、少し機嫌が悪そうにしていて目付きもいつもより三割増で悪い。
自分より幾分も若い彼女は昔狩りを教えたという軽い師弟のような関係だ。
朝早くからの呼び出しに謝罪しながら彼女を赤子の元まで連れていく。
そこに転がる存在に彼女は驚いたように声を漏らしてから自分を睨みつけた。
まあそれも仕方がない、なんせ奴らは我々からしたら敵に違いないのだから。
しかしこの赤子はまだ奴らと同じではない。
きっとこのまま自分と暮らしていけば赤子は自分達と同じになることだろう。
呆れたように彼女は唸ってから赤子に身を寄せ乳を与えてくれた。
そんな彼女の協力もあってなんとかこの合わないであろう環境でも赤子は成長を続けることが出来た。
あれから一体どれくらいの月日が経っただろうか。
赤子は成長し、少年になった。
勿論言葉なんて話せやしないが、遠吠えなどといったコミュニケーションの取り方や動く獲物の狩り方などこの世界で必要なものは段々と学習している。
彼が小さい頃に世話になった彼女は数年前に連れを見つけてこの間隣の森へと移っていった。
しかし始めは育てることにさえ反対していたのに、少し彼に母親のような情が移ったらしく時々様子を見にこちらに戻ってくることもあるので、彼も彼女のことをとても慕っているようだった。
今はまだあまり上手くはないが着々と上達していく狩りの能力はしばらくしたら自分さえも追い抜きそうだ。
ちなみに今日の飯の兎は初めて彼がひとりで獲ってきたものである。
昔は生肉を食べるたびに嘔吐を繰り返していたが、今では身体が順応したのかそんなこともなくなった。
彼が獲ってきた兎を嬉しそうに自分に渡してきたので大口開けて喰らう。
美味いという意味を込めてひとこと鳴くと彼も喉を鳴らして勢い良く齧り付いた。
はぐはぐと一生懸命口一杯に頬張る姿は心なしか間抜けで気の抜けた笑いを洩らしてしまう。
そんな自分を彼は不思議そうに見てくるので、狩りの成果を褒めるように尻尾で彼を撫でる。
彼は気持ち良さそうに笑ってから、へにゃりと甘えるように自分に抱きついてきた。
それを受け入れるように身体を横たわらせて一緒に眠る。
いつまでも甘えん坊なのは一体如何なものか。
彼女はそう自分と彼を叱咤した。
確かにそれは彼女の言う通りなのかもしれない。
実際自分もそろそろ満足に動けるような歳ではないのだから、彼の自立を促す必要がある。
もし自分が死んだら彼はひとりで生きていかなければならないのだから当たり前のことだ。
きょとんとする彼は、きっと自分が死ぬということを考えたことがあまりなかったのだろう。
なんせ彼はずっと自分と二人で過ごしてきたのだ。
それ以外で彼が知っているのは彼女と獲物くらいのものである。
二人を知っていても、一人になるかもしれないだなんて思ってもいなかったようだ。
悲しそうな鳴き声をあげて自分にすり寄ってくる彼を彼女は尻尾で叩く。
それから彼女のスパルタが始まった。
一人になったときに必要な生活のスキルをほとんど数週間で彼は叩きこまれる破目になった。
戻ってくるたびにへとへとで泣きそうになっている彼を見ていると心が痛んだが、これも彼のためだ。
そう自分に言い聞かせて、代わりに彼の好きな兎肉を準備しておく。
それだけでも嬉しそうに笑うから、こちらも準備し甲斐があるというものだ。
とうとう動くことも儘ならなくなってくると彼はそこでやっと自覚がついてきたのか彼女から教わったスキルを活かし始めた。
動けなくなったのを機に自分を見捨てれば良いものを、彼は自分の世話も甲斐甲斐しく焼いてくれる。
これこそ父親冥利に尽きるというものだ。
こうやって死へと向かっていくのに一人きりだったらなんと寂しい生活だっただろうか。
彼がいてくれることが自分にとっては大きな幸せとなった。
それが彼にとってもそうであればいいと、強く思う。
今日も彼は狩った獲物を抱えて帰ってきた。
出迎えた自分を見つけるとそれを掲げて今日の成果を教えてくれる。
そんな時だ。
少し離れていたが草の揺れる音、複数が動く音が確かに聞こえた。
目を向けた先にいたのは火縄銃を持った男達。
――逃げろ!!
そう叫ぶように声をあげると同時に乾いた銃声がこの静かな森に響いた。
ゆっくりとスローモーションのように倒れていく彼を茫然と見つめるしかなった。
土を染み渡っていく赤が自分の理性を蝕んでいくのが分かる。
ああ、奴らはまだそこにいるか――自分の息子を殺した、奴らは。
彼の死は奴らの死でしか償うことはできないだろう。
自分自身過去に感じたことのないスピードで走りぬけたという自信がある。
この歳では有り得ないスピードで近づいてきた自分に驚いたように仰け反った奴らは転んだり逃げ惑ったり――それはそれは滑稽な様だった。
そんな奴らの喉笛を残らず食い千切り、それでも飽き足らず腕から脚から胴から顔から食い潰していく。
一通り気が済むまで食い荒らしてから彼の元へ向かった。
ギリギリで息のある彼の顔を舐める。
自分を見つけてほっとしたのか少し安心したような顔をした彼を赤子のときのように包み込む。
荒い息の中いつものような笑顔を残して彼はもう目を開けることはなかった。
――ああ、なんと悲しい夜か。
彼女にも伝えなければと過去にない大きさで遠吠えをあげる。
その時また乾いた音が聞こえ、今度は自分の腹部が熱くなった。
下を見ると自分の腹部から血が溢れ出ていた。
どうやらまだ残っていたらしい。
しくじった自分を彼女は叱咤するだろうか、これからも一緒に過ごせると彼は喜ぶだろうか。
痛みとともに意識が遠くなっていく中、もう一度大きく声をあげた。