諸刃の剣5
タクシーの揺れが不安を助長するように唯のショルダーバッグの上に置いた手は、じっとりと冷たい汗を握っていた。
自分が仕掛けたこととはいえ、いきなりのこの展開は正直予想外だった。
「相談があるんです。二人だけで、どこか行きませんか」
誘いに乗ってこなければ、すべてが台無しになる。そう思った唯は、自分の魅力を引き立たせるためのできる限りのことを整えてきた。普段ほとんどしないメイクも、ピンヒールも、服も、何もかもいつもと違う自分。嘘の鎧を纏えば、きっと大丈夫だと。そう言い聞かせて、大女優のつもりでいつもとは違う自分を振る舞った。なのに。
「帝東ホテルなら秘密は絶対に漏れない。誰かに聞かちゃまずい話は、そこでって決めているんだよ」
そう大阪に言われたとき。鎧が呆気なく剥がれ落ちる音がした。大女優は、きっとそれくらいじゃ現実には引き戻されないんだろう。けれど、三流どころか舞台にも立てない女優は、奈落に落ちることもできない。ただ目の前の現実を突きつけれるだけだと今更ながら気付く。
二人きりで。そう確かに言ったけれど、いきなりのホテル。その上、亮が今泊まり込んでいるその場所を指定してくるなんて。意図的としか思えなかった。沸き上がる怒り。それを勇気に変えたかったけれど、決意を頑丈に固めてきたはずなのに雷に打たれガラガラ音をたてて呆気なく壊れていく。それを眼前にして逃げ出したくなる。それを見ないように唯はぎゅっと目を瞑って深く息を吐いた。
きっと大阪のほうが一枚も二枚も上手だ。駆け引きなんてしたことのない私は負け戦なのかもしれない。だけど、諦めるわけにはいかない。一縷の望みがある限り。それに賭けるしか、あの記事を差し止める方法はない。私が亮に出来ることは、こんなことぐらいしかないのだから。やらなきゃ。絶対に。
唯は壊れかけた決意を絶対に崩れないように積み上げていると、タクシーはホテル前にゆっくりと停まった。支払いを済ませた大阪が、先に出る。唯もタクシーから降り立った。
直しきれなかった隙間から臆病風が吹いて、どうしても足が竦んでいた。それを無理やり動かしても、のろのろとしか進めない唯に先を歩いている大阪が立ち止まり黒縁眼鏡の奥からあきれた声をぶつけて、ぞっとするほど気持ち悪い笑顔を見せていた。
「君から話があるって言ってきたんだろ?」
蔑むように笑う大阪を睨み返しながら、唯は思う。いくら転んでもただじゃ絶対に起きてはやらない。
「いらっしゃいませ、大阪様。お久しぶりです」
ホテルの紋章の入ったパリッとした黒い背広に仕立てのいいズボンの中年男性がエントランス前に立って、大阪に頭を下げていた。
「あぁ。半年ぶりか? 今日はどうしてもここがよくてね」
嫌な笑顔を浮かべ唯に視線を滑らせてくる。唯は吐き気を覚えて思わず顔をしかめたくなるが無理やり押し込める。
そこにホテルの男性の顔は、不自然にならない程度に唯に視線を送ってくる。それに気づいた唯は、思い出した。
亮が帰国して会いに来た時に、部屋まで案内してくれた人だ。胸に光る金色のネームプレートも『斎藤』と同じ文字が刻まれていた。思わず助けを求めたくなるけれど、震える拳でそれを握りつぶす。
「いつもの部屋空いてる?」
大阪が軽い口調で尋ねるのに対し、今確認しますので中へどうぞと、あの日と変わらない親しみやすい笑顔を浮かべる。大阪は「中に入ろう」と、少し離れた後方にいる唯に声をかけて、入口の自動ドアにすっと入っていった。それを見送った斎藤は、何かを察したのか唯に声をかけていた。
「……水島様、大丈夫ですか?」
あの時一度きりしか会っていないのに、名前も顔も覚えていたことに唯は驚く。と同時に、大阪は何度もこういう形で女性でも連れ込んでいるかもしれないことに気づく。そんなこと知ったところで、興味もないが。
「わたくしは、一度お会いした人の顔と名前は必ず憶えてられるたちなんです。それに、お客様が困られているのも何となくわかるのです」
少し大阪を気にしながらも、斎藤は小声でそういう。差し伸べられた救いの手に思わず縋りたくなる。けれど、唯は首を横に振った。
「……大丈夫です。覚悟を決めてきたことなので」
決意の隙間を埋めるように唯は感情を殺しながらいった。そんな唯から滲み出る隠しきれない悲壮感を斎藤は感じ取ったのか。斉藤の顔が曇っていたことなど今の唯の視界には入らなかった。
「……わかりました。では、中でお待ちください」
亮と会ったときは裏口から入ったから見ることはなかったロビーは、ドーム型の天井に豪華なシャンデリアが輝いていた。
その奥に受付があって斎藤が受付の女性声をかけて交代する。時折女性スタッフと話をしながら、端末を操作していた。大阪は受付前のソファに座り、唯に早く来いというような顔を向けてくる。それに応じて、唯は一歩一歩踏みしめる。
本当にいいんだな? これ以上踏み込んだら後戻りはできないぞ。
床に敷かれた分厚い絨毯に沈み込むピンヒールは、一歩一歩踏み込むごとに確認し、訴えてくるようだった。
唯はそれを無視し沸き上がる感情を丁寧に踏み潰しながら、大阪の元へと向かっていた。




