その結末は、彼女にとっては救いだった
――溺れるような恋をした。
きっかけは本当に偶然だったけれど、彼と出会った瞬間、世界の全ての色が変わるほどの衝撃を受けた。
俗に言う『一目惚れ』、どこにでもありふれた出来事。
けれど、わたくしにとってはあの瞬間が全ての始まりだった。
しかも彼は、手の届かない人というわけでもなく。
わたくしが少し頑張れば、すぐに近付ける立場だった。もうこれは運命だと思った。
わたくしはきっと、彼と出会うために産まれてきたのだと。
だから、とにかく頑張った。できることは全てやった。
勉強も好きではないし、人付き合いも本当はとても怖かったけれど。
立派な淑女になれば、必ず彼に近付ける。その確信があったから、できる努力はなんでもした。
もっと美しく。もっとお淑やかに。彼の隣に相応しいような、素敵な女性になりたかった。
彼から初めて手紙を受け取った時は、もう天にも昇るような気持ちだった。
汚れや皺がつかないように手袋をつけて開いたそれは、何度も何度も読み返して、今もずっと大事にしまってある。ドレスよりも宝石よりも、何よりも愛しいわたくしの宝物。
家同士の付き合いが始まって、社交辞令で贈って下さった花束だって、それはそれは大事に愛でた。
枯れた後もとっておいた花なんて、彼が贈ってくれたものだけだ。
やがて、話はトントン拍子に進んで――わたくしと彼の婚約が決まった。
幸せで幸せで、毎晩眠ってしまうのが怖かった。これがわたくしの夢だったら? 朝になったら消えてしまっていたら?
そんな子どもじみた不安はもちろん誰にも言えなかったけれど、毎晩神様に祈りながら眠った。
明日も彼の婚約者でいられますように、と。
「わたくしの婚約者様は、本当に素晴らしい方なの」
婚約が決まってからは、ますます社交に力を入れた。
我が家はもちろん、彼のご実家にも良いご縁がまわってくるように。
幸い、わたくしの容貌も悪くはなかったので、沢山の人が繋がりをもってくれた。
彼が始めた事業も、わたくしが頑張れば頑張っただけ結果がついてきて、本当に嬉しかった。
幸せだと思いたかった。輝かしい人生だと信じたかった。
――――けれど、彼が愛しているのはわたくしではなかった。
婚約が決まる前から、彼には特別な一人がいた。
その方とは『友人』だとおっしゃっていたけれど、彼の目を見ればすぐにわかった。
だって、毎日鏡で見るわたくしの目と、同じ輝きを秘めていたのだから。
ご友人様は、努力をしなくても彼から声をかけてもらえる。
回りくどい約束をしなくても、誕生日を覚えていてもらえるし、返事を書かなくても手紙を送ってもらえる。
……羨ましい。妬ましい。
彼がご友人様のために行動する度に、汚い感情がわきあがるのを感じた。
婚約者はわたくしだ。彼の隣に立つと決まっているのは、わたくしだ。
なのに、どうして何もしないその方を見るの?
わたくしのほうが、貴方の力になれるのに。
わたくしのほうが、貴方の役に立つのに。
貴方は、わたくしの隣には立ってくれないの?
「ああ、そっか……わたくしでは、ダメなのね」
どれだけ利があっても、わたくしではダメなのだ。
だってわたくしは〝彼女ではない〟のだから。
そんな、最初からわかりきっていたことを自覚した瞬間、わたくしは高い塔から飛び降りていた。
――――――
「……それで? 私のところに化けてでてきたの?」
『別に、化けてきたつもりはありませんわ。ちゃんときれいな姿をしているでしょう?』
新月の晩に窓を開けたら、外に女の幽霊が浮いていた。
……なんて、物語でももっとマシな導入があるだろうに。現実は小説よりも奇なりとは、昔の人は上手くいったものだわ。
(面識はないけど、この子のことは知っている)
最近社交界で話題になっていた、とてもきれいなお嬢さん。
それこそ、〝彼女が流行を作る〟とまで言われていたお洒落な人で。それでいて、決して驕ったりはせず、嫌味なところもない。
まさに理想的な女性だと皆が憧れていた。彼女が語る婚約者は、国一番の幸せ者だと。そう、思われていたのに。
つい先日、彼女は帰らぬ人となってしまった。それも、疑いの余地もない自殺だった。
男も女も多くの人々が嘆き悲しみ、予定されていた催事もいくつも中止になっている。
……まさか、その理由に私が関わっているなんて、夢にも思わなかったけれど。
「貴女は、私を呪いにきたの?」
『いいえ。貴女がものすごく嫌な女性だったら、それも考えますけれど……ただ、どんな方なのか話してみたかったのです。彼が愛しているひと』
「愛、ね……」
むずがゆい言葉に、思わず腕をこする。
この子の言う『彼』を私は確かに知っている。
古い友人の一人で〝ただ、それだけ〟だ。それ以上の感情は、私には全くない。
彼にそんな風に想われる覚えもないし……何より、
「私には最愛の旦那様がいるのよ。あの男とは、天地がひっくり返っても結ばれないわ」
私は既婚者だ。それも、彼らの婚約が決まるずっと前に結婚している。
私は旦那様を心から愛しているので、たとえ何が理由でもあの男と今以上の関係になることはありえない。
――だから、そう。
『……だから、わたくしが死ぬ必要はなかった、ですか?』
「……ええ。貴女たちはいずれ結婚したのでしょう? 未来がわかっていて、どうして死ぬ必要があったの?」
『未来がわかっていたからです。婚約者から妻になったとしても、わたくしは愛してもらえなかったでしょうから』
「そんなの、わからないじゃない。貴女とちゃんと愛し合ったかもしれない」
『……わたくしが、それまで耐えられなかったのです。なんの罪もない貴女が羨ましくて、疎ましくて。もうダメだった』
長い睫毛が瞬いて、はらはらと雫をこぼしていく。
幽霊だなんて思えないぐらい、本当にきれいな涙だ。
思わず、ハンカチを差し出そうとしてしまったぐらいに。
(逆恨みを押さえたのは立派だわ。嫉妬に狂う女なんて珍しくもないもの。だけど……)
私よりずっと若くて、ずっときれいな子。
こんな子が、どうしてこの結末を選ぶしかなかったのだろう。
「…………ねえ。貴女はこれからどうするの?」
『未練もないので、空へ還ります。ですが、自ら命を絶ったわたくしは、神の御許へは行けないでしょう。地獄へ落ちるか、それとも儚い寿命のものに転生するか。……ふふっ』
泣いているわりにはハッキリとした声で、彼女はこの後の過酷な行き先を語る。
何故か、その愛らしい唇には笑みが浮かんでいた。
「笑うような話じゃないと思うのだけど。……幽霊に言っても遅いけど、ヤケを起こしちゃダメよ?」
『貴女は良い人ですわね。もちろん、ヤケなど起こしておりませんよ』
半分透けたドレスが夜空に躍る。
彼女はお手本のような淑女の礼をしてから、くるりと裾を翻した。
『ああ、これでもう……恋なんてしなくて済む……』
「ねえ君、窓辺にいては体に悪いよ。早くこっちへ……泣いているのかい?」
愛しい人に呼びかけられて、ようやく私の意識は戻ってくる。
どれくらい呆けていたのか。すっかり冷え切った体が、自覚した瞬間ブルッと震え上がった。
「何かあったのか?」
「お客様がきていたのよ。初めて会う、もう二度と会えないお客様」
「それはまた……」
見上げた夜空には星も月もない。
付き添いも導きもないなんて、なんとも寂しい最後じゃないか。
そこまで独りにならなくてもいいだろうに。
(ああでも、彼女がそのほうが良いというのなら)
どうか、望むまま一人で。
きっとこれが、私のしてやれる唯一の祈りだ。
恋に溺れた彼女の心以外に、誰にも何にも救いなどない。