54.倒れる駅員
今日の大村先輩は、三木を見てニヤニヤするだけで何も言わない。
流石に、女性の西口に何か言えば、セクハラになりかねない。そこは弁えているのだろう。だが、ニヤニヤ笑いは日勤上がりの葉多先輩にも伝染していた。
「そっかー……三木君にもとうとう春がきたのかー」
感慨深そうにうなずいて、電車で日帰り可能なおススメの甘味処を推して帰る。
三木は逃げるようにホームへ上がった。
列車を見送った直後、激しい痛みに襲われた。
胸のまんなか辺りが見えない手で絞め上げられたように痛み、息もできない。三木は何故か、本社で唐櫃営業部長に怒鳴られたのを思い出した。
立っていられず、崩れるように膝をついた。制帽がホームに転がったが、拾う余裕もない。冷や汗が滲む。ネクタイを緩めて浅い呼吸を繰り返すが、痛みも息苦しさもマシにならなかった。
「三木君ッ! 大丈夫かッ?」
谷上駅長と大村先輩が、客の居ないホームを駆けてくる。
先輩の右手に赤い物が見えた。AEDだ。
「大丈夫です。大丈夫……」
立ち上がろうとした途端、目眩がしてホームに右手をついた。
AEDを開いた大村先輩の横で、駅長がスマホで通報する。呼出し音に先輩の声が被さる。
「三木君、ちょっと横になって!」
「い、いえ、あの、意識あるんで、それは……」
「大丈夫なワケあるか! 動けない程、胸が痛いんだろッ!」
駅長が震え声で消防指令の質問に答えていると、定期窓口の西口もホームに上がって来た。
「三木さん、どんな具合ですか?」
「だぃ……」
「万が一があってはいかんから、救急車を呼んだ。私が付き添うから後を頼む」
三木の声は谷上駅長の厳しい声に掻き消された。大村先輩が三木の手首を握ってうなずく。先輩の指に自分の脈が触れるのがわかった。
……胸はやたら痛いけど、意識あるし、心臓動いてるからAED要らないし、大丈夫なんだけどなぁ。
大騒ぎになってしまったことが気マズくて仕方がない。
この程度で救急車を呼んだのでは、本当に重症の脳卒中や交通事故の人が困るのではないか、と三木は心配になったが、言い出せる空気ではなかった。
大村先輩がAEDを片付け、ポケットからスマホを取り出す。
「じゃ、葉多さん呼び戻しますね。西口さん、ちょっとだけ改札見ててくれてる? わかんなかったら呼んでくれていいから」
「い、いえ、ホント、大丈夫……」
「いいから三木君は黙ってろッ!」
駅長に一喝され、涙目で西口の後ろ姿を見送る。大村先輩が親指を立てた。
「葉多さん、すぐ来るってよ」
「非常時だから、休みの小野さんも呼んで」
大村先輩は、駅長の指示で助役にも電話を掛けた。
救急車は思ったより早く来た。
実家の辺りなら救急車の到着だけでも三十分は掛かるので、家族が病院に電話して自家用車で運んだ方が早い。三木は、幸瀬駅は意外と都会だったんだな、と場違いな感慨を抱いた。
ストレッチャーで運ばれる三木を小野助役と葉多先輩が心配そうに見送る。一緒に救急車に乗り込んだ駅長が、救急隊員に状況と三木の年齢などを説明した。
幸瀬駅からは、倒れて十分足らずで市民病院に着いた。
痛みは少し緩んだが、胸の深いところを絞めつけられる感覚は変わらず、緊張のせいか、息苦しさは逆に強くなったような気がする。
「狭心症ですね」
救急外来の医師が診断を伝えると、谷上駅長が泣きそうな目で三木を見た。どんな顔をすればいいかわからず、三木は診察台から医師の顎の裏を見上げる。
看護師が三木の胸から手際よく心電図の吸盤を外した。
「一晩泊まって様子見て……」
「入院? そんな……悪いんですか?」
駅長の目に涙が浮かぶ。
「お薬飲んで、念の為に一晩泊まって様子見て、明日もう少し詳しい検査をして、軽症なら、明後日……日曜くらいには仕事しても大丈夫ですよ」
「そうですか」
「場合によっては、カテーテルで血管広げる手術をするかもしれないんで、今からご家族を呼んでいただけますか?」
ホッとしたばかりの駅長が、顔を強張らせてスマホを取り出す。
「待って下さい。もう痛くないんで、大丈夫です」
「大丈夫かどうか、私が診て判断しますから……」
起き上がろうとした三木は、医師に肩を押さえられた。




