黒犬の輪舞5
夜の部屋には二人分の寝具が広げられている。一つは藁のベッドにシーツを敷いた簡素なものであり、また一つは綿の詰まった白く暖かい布団である。カルロは藁のベッドに座り、作業机に視線を送る。
視線の先には、ひたすら事務作業を行うビフロンスの姿があった。彼はカルロの視線を気にすることなく、目にも止まらない速さで筆を動かし、書類に判を押す。その書類は地面から現れる痣だらけの青白い手が回収していく。
インクを付ける作業さえも芸術的で無駄がなく、机から突き出した青白い手が持つトーチの炎は蝋燭よりも強く、青く照らす。揺らぎの少ない炎にはカルロの表情が映る程透き通った輝きがあり、熱の伝導も蝋燭とは比較にならないほど強いが、同時に背筋が凍る程の肌寒さが部屋に充満する。
その光を受けた手が痣だらけの痛ましいものであるだけに、平然と作業をするビフロンスの背中は如何にも非道な錬金術師のように見えた。
(気まずい、気まずいぞ!)
チコと異なり、死霊魔術に関する知識もなく、ひたむきに雑務をこなすビフロンスの余りの手際の良さに、邪魔をすることもはばかられるため、余り雑談をすることも相応しくないように感じたカルロは、何をするでもなく、その背中を見つめていた。ビフロンスは、視線をものともせず、ぶつぶつと呟きながら高速で資料を処理する。
「あの、休憩とか、しなくていいんですか?」
「仕事ですから」
ビフロンスは振り返りもせず答える。薄暗い中から次々に現れては書類を回収していく腕は、ゆらゆらと揺れながら、カルロに親指を立てて見せる。カルロは気味の悪さを押し殺し、苦笑いを返した。
「それに、悪魔は、皆様に慮って頂けるような存在ではありません。休む暇など与えられていないのですよ」
「……疲れないんですか?」
ビフロンスは鼻を鳴らすと、ペンをペン立てに戻し、書き終えた書類を手渡すと、椅子を翻した。膝に手を置き、足が床についていない様子はあどけない少年のそれであったが、表情は諦観の籠った賢者のようなものだった。
「これは、僕へ対する罰なのですよ。抱えきれないものを救おうという奢りに対する裁きです。ですので、貴方は余りお気になさらないでください。勿論、同情も不要ですよ。悪魔に傾倒するのは、死んでからでも間に合いますので」
「抱えきれないものを救おうとした罰?」
ビフロンスは椅子を翻し、作業を再開する。机上には、再び大量の書類が積み上げられていた。天井に届きそうなほど積み上げられた書類を、青白い腕が一枚ずつ取り上げてはビフロンスに回す。
ビフロンスは自嘲気味に続けた。
「人間には役割があります、カルロ様。僕は、その役割を逸脱しようとした、そういう肉なのです」
カルロがベッドから腰を上げると、資料を回収していく腕が地面から生え、カルロの肩を優しく押し戻す。カルロは抵抗できず、ベッドに座りなおした。
「俺は、人を助けようとすることは、間違っているとは思いませんよ」
ビフロンスは前髪をかきあげ、小さく溜息を吐いた。地面から現れた腕がカルロが見たことのない程の書類の束を携えて机の前に現れた。
「正しい人間ほど、黒犬に心臓を奪われる」
「……は?」
青白い炎が優しく部屋を照らす。指先が焦げた腕は、机上に顔を出したまま動くことはない。書類を待つ手が床下から大量に現れる。ビフロンスの手の動きが更に素早くなる。
「カルロ様。今回の一件は、まだ終わっていません。悪魔に魅せられた魂はまだ救われていないのです。ジロードは再び海上に現れます。今度は、姿を変え、神の王国を携えて」
ビフロンスの丸まった背中が静かに動く。肩甲骨が震え、持ち替えるようにしながらペンが左右に往復した。
唐突にビフロンスの手が止まる。蝋燭代わりの腕が持った炎が一気に燃え上がり、そして消えた。部屋は唐突に光を失い、暗闇に呟く声が響く。
「来ましたね」
ビフロンスは立ち上がり、早足で部屋を飛び出した。その瞬間、先程まで集っていた青白い腕たちは床の中に消えて行く。
解放されたカルロは立ち上がり、目を擦り暗闇を見る。扉の位置を正しく確認すると、彼は廊下に飛び出した。廊下には革靴が石の床を叩く音が高く響く。先ほどまで手ぶらだったビフロンスは本を脇に抱え、階段に向かう。カルロは急いでそれを追いかけた。
階段に飛び出したカルロは、階段を昇る人影と獣の影を目にする。
(黒い犬と錬金術師……?)
カルロの口の中に苦いものが広がる。背筋が凍り、冷や汗が溢れる。恐怖という感情だけでは整理しきれないほどの様々な不安が込みあがり、彼は深呼吸をする。影は階段を昇り、天文室へと消えて行く。カルロは意を決し、それを追いかけた。革靴の音と共に、安物の木靴の音が階段に響く。
やがてカルロが星々の光を受け入れる天文室の前に辿り着く。
天文室から臨むことのできる月は虹彩を携え、水面は怪しくその光を受け入れる。天文室から三段目には、ニッコロと呼ばれた男と、その傍らには黒い犬が佇んでいた。ビフロンスの姿は見られず、代わりにそれに対峙するのは、毛を逆立てて威嚇する猫と、椅子に座して逆光を受ける少女の博士だった。




