黒犬の輪舞3
ウネッザがジロードを包囲して一か月が経過した。にらみ合いの続く中で、ガレー船団は鉄の船からの砲撃が止んだことを見逃さなかった。彼らは望遠鏡を用いて鉄の船の様子を探る。レンズ越しに見える鉄の船は変わらず圧巻の巨躯を海上に浮遊させる。そして、監視役の兵士が叫んだ。
「小舟が近づいてきます!船員は二名、一名は船頭、もう一名は羊皮紙のようなものを抱えています!」
兵士達は一気に肩の荷が下りるのを感じた。ウネッザに向けて近づく小舟の男は、いかにも官僚然とした角ばった顔の男であり、羊皮紙を大事そうに抱えながらガレー船団をちらちらと見ている。
堪えきれなくなった兵士は互いに抱き合い、喜びを分かち合う。一方で、監視役の表情が強張った。
「これは……黒猫……?いや、犬……?」
小舟の中でそわそわと周囲を見回す男の膝には、間抜けな顔をした犬が舌を出して呼吸をしていた。吐息の音がここまで伝わる程に激しく呼吸をする犬の真上には、灼熱の太陽が浮かんでいた。
「おい!大ニュース!ジロードから親書が届いた!負けを認めるってよ!」
テンションを上げた工員が工場に入った第一声は、全てそれであった。既に準備をしている新人やカルロは、遠い目で答える。
「それさっき聞きました」
(こう何回も聞かされると流石に飽きが来るな……)
カルロは新人が工具を運ぶのを手伝う。停泊していたジロードのガレアッツァは、石を詰み沈めた船が引き上げられると即座に旋回をし、そそくさと帰っていく。風向も手伝って、彼らは直ぐに見えなくなっていった。
そして、いつもと変わらぬ教会の鐘が響くと、フェデナンドが奥から現れる。
「聞いたか?みんな……」
「ジロードから親書が届いた、ですね」
工員が口をそろえて言う。フェデナンドは反応に困り、手に持った設計図で自分を仰ぐ。
「お、おう……」
工場中に気持ちのいい笑い声が響く。メルクがカルロの肩を強く叩く。
「今回のカルロの働きは勲章もんだもんなぁ!」
「そんな、勲章なんて……」
カルロが首を振ると、メルクは背中を叩く。
「謙遜すんなって!俺は鼻が高いぞ!」
「じゃあメルクもカルロを見習って働くってことで」
「げぇっ!」
ガレアッツァのいなくなったウネッザの海は、広く奥行きを持ったまま、水面に空を移す。その日のカルロ達の作業は、造船所に積み上げられた大量の造船命令を書かれた紙を削り、白紙にすることだった。
ガレー船に塞がれた大運河は解放され、マッキオ広場には三隻の船が来航した。船員が降りたのを見計らい、銀の杖をついた男が黒犬を携えて上陸する。マッキオ広場を修理する人々の刺すような視線を受けた銀の杖の男は、広場の様子を見回した。
一面が白色の広場は穴ぼこになり、所々に欠けた石を再利用した埋め立て工事の痕が認められる。彼らを出迎えたピンクの建物はひびを修繕されて佇み、本来の美しさを殺がれていた。聖マッキオ教会は変わらず荘厳に佇んでおり、天井が一面硝子張りになっているさまを認めると、男は感嘆の溜息を吐く。
大工の一人が男に向けてわざと石を蹴る。石の破片は男の足元に転がり、男は視線を石に向ける。そして、その石の経路をたどると、中指を突き立てる大工が取り押さえられていた。男は小さく鼻で笑い、銀の杖で地面を軽く叩く。足元にあった石がひとりでに飛び跳ねる。石は中指を立てた大工の頭上に当たる。
「いってぇ!」
「あんまりではありませんか。折角私達は紳士的に接しようと努めていたというのに……」
銀の杖をつきながら、男は大工に近づく。そして、抑えつけられる大工の前に屈み込むと、笑顔を作って見せた。
「私、ジロードの代表としてここに赴くことが出来たことに心底安堵いたしました。皆様も、暖かいお迎え、誠にありがとうございます」
銀の杖の男は胸元に手を当てて丁寧な会釈をする。呆気にとられた大工たちの視線に笑顔を向けたまま立ち上がり、元首官邸の中へと入っていった。
官邸の中で男を迎え入れたのは、無数の刺すような視線と、怒りに歯をむき出す涙を堪えた女たちだった。銀の杖の音を高らかに立てながら、男は右折して階段を上る。彼の背後にキンキンと叫ぶ女の声と、騒ぎ立てる男の罵声が聞こえた。
銀の杖の男は足を止めずに、彼の後ろに従う物怖じする船員たちに向けて囁いた。
「彼らの視線は気にする必要はない、私達に求められているのは、ウネッザの元首の視線と心象だけだ」
後ろを気にしていた男は銀の杖の男を追いかけるために小走りをする。銀の杖は甲高い声を上げて地面を蹴り、先端は一定のタイミングで地面を叩いた。その音は歴代元首の肖像画飾られる長い廊下に入ると、さらに怪しく、よく響くようになった。後ろを気にするウネッザの警備兵に対しても、銀の杖の男は恭しく頭を下げる。警備兵は唾を飲み込み、後ろの男のことをちらちらと何度も確認する。薄暗い二階の奥部屋に連れられた男は、警備兵に丁寧に礼をして扉をノックする。扉の向こうから、高齢の男の声が響いた。
「どうぞ、お入り下さい」
「失礼いたします」
扉を開いた銀の杖の男は、警備のいない部屋に立っていた人物に驚く。その男は、元首である、ピアッツァ・ダンドロであったが、彼はあくまで無防備なまま、手を差し出した。男は差し出された手を取り、握手を交わす。
「ようこそお越しくださいました。私はピアッツァ・ダンドロと申します。さぁ、お掛けください」
「私は、ジローラモ・ディ・メディス様よりニッコロ・マキャヴェッリと呼ばれております。どうぞ、お見知りおきを」
マキャヴェッリを名乗った男は、握手を交わす男の胸元をしっかりと見据える。その手が解かれると同時に、彼は銀の杖を机に立てかけ、席に着いた。
絵画の海となった壁には、多くの宗教画に紛れて、目の動く絵画がかけられていた。




