黒犬の輪舞1
夜半の静寂は波音にかき消され、大運河に打ち寄せては返す。月は益々欠け、風はなぎ、海は穏やかになろうとすると、いたずらに帆を揺らす風が再び波を荒立てる。
鉄塊のハリボテから見下ろすものは、息も絶え絶えの惨めな大理石と極彩色の葦の原である。ひしめき合うガレーは零れたチーズに群がるドブネズミの如く、ブクブクと横に広い体をがっちりと組みあって運河の前に集中し、如何にも目障りに映る。
メディスの食卓は小麦のパンと赤ワイン、蒸した豚、私は小麦のパンと赤ワイン、塩漬けキャベツを刻んで炒めたもの、そして数枚の干し肉であった。我々はいくらかは現状に満足しつつ、ウネッザの異様な粘りに目を凝らした。
船楼から見下ろす景色も見飽きたものだったが、油断をする訳にはいかない。戦場は常に移ろい、水面よりも激しく動くものである。ウネッザの者達が仕掛けてこないとも限らない。例えば、今ひしめき合うガレー船団が、方向を転換してこちらに向き直ったといったことだ。
「……おや?」
メディスは食事を止め、ウネッザに目を凝らす。そして椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がり、大声で叫んだ。
「砲撃!砲撃用意!正確な奴だ!」
メディスの言葉を水兵の一人が連絡用のパイプに向けて復唱する。
砲撃甲板から巨大で傾斜の大きい一発が撃ち込まれ、それに続けて二発、三発と発砲される。ジロードの砲兵はかなり正確にガレー船の中腹を狙ったものの、ウネッザのガレーは旋回をすることで巧みに砲撃を回避する。
続けざまに、砲撃甲板から、がらがらという音が響き、もう一つの大砲が引き入れられた。球の充填と導線への点火の時間を経て、ガレーに向けて垂直に球が飛ぶ。今度は一隻のガレーの船底に当たり、空洞の開いた船底から徐々に進水した船倉へ兵士達が飛び出し、水を掻き出し始めた。
徐々に沈みゆく同胞には目もくれず、ガレー船は大挙して鉄の船へと近づく。メディスが声を荒げ、「砲撃、砲撃!」と叫び散らかすと、粗雑な砲撃が何発が放たれ、ガレーの幾つかに掠れていった。
見かねた私はメディスを払いのけ、パイプに口を近づける。
「焦らないでよろしい。狙いなさい、そして、一隻につき二発で落としなさい」
私の声を聞き入れ、砲撃甲板は暫し沈黙した。息を荒くしてにじり寄るメディスの頭を片手で止め、暫く待つ。鉄塊の船が静まり返ったのを確認すると、私は近づくガレー船団を見据える。
「3、2、1……発射」
冷たい声に即座に発射された砲撃は、二隻のガレー船を落とした。一つは中甲板を貫通し、いま一つは船首像をへし折られてバランスを崩す。時間差で同ガレー船に放たれた砲撃によって、いずれも船倉を貫かれ、傾いて沈んでいった。
「よろしい。続けて支度なさい。背後に敵はいませんか?余った人員はそちらも確認なさい」
再び静かになる。メディスは私の手を払うと、歯ぎしりをして敵船舶の近寄る姿を眺めた。彼らはゆっくりと旋回し、こちらに砲口を向けようとする。私は多少高めのトーンでパイプに叫んだ。
「一射!」
船首側の大砲が唸り声をあげる。旋回を始めたガレー船の左舷を貫き、ガレーは反対方向に傾いた。
「四射!」
四番目の大砲が唸り声をあげる。バランスを崩して斜めに傾いたガレー船の水面すれすれにある右舷を貫く。途轍もない破裂音と共に水飛沫が上がり、右に傾いていたガレー船はそのまま水を吸い上げながら力尽きていく。
「こ、後方に敵影!小型の船です!」
水兵が叫ぶ。
「なんだと!落とせ、落とせ!」
メディスがパイプを横取りして叫ぶ。私は後ずさりし、ゆっくりと管制室を後にする。慌てふためき前方と後方に放たれる砲撃は器用にかわされ、小舟は直ぐに旋回してどこかへ去っていった。私はそれを確認すると、踵を返して甲板に設けさせた銀の杯と銀の針を置いた机に向かい、ワイン樽に腰かける。ワイン樽は予め書き込んだ法陣に従ってワインを吹き出し、銀の杯に正確に飛ばし始めた。私は小さな銀の針を手に取り、先頭のガレー船に視線を送る。彼らは計ったように交代をはじめ、一撃も砲撃を飛ばすことなく大運河に戻っていく。
「お悔やみ申し上げます、轟沈されたウネッザの戦士たちよ、貴方達に神の祝福が在らんことを。主は光となり、皆様を照らし掬い上げて下さることでしょう。敬虔なる者たちは救われ、そうでない者は地獄に堕ちることでしょう。そして彼らは燃え盛る葦の原に赴き、その濡れて浮腫んだ体を自ら灰燼に帰することとなるでしょう」
私は銀の針で指を刺し、飛び出した血の一滴を杯に落とす。杯は沸き立ち、泡を盛り上げ煮えたぎる。そして私が視線を送ったガレー船は、ひとりでに炎上を始めた。その船からは幾つかの火の粉が海へと向かって落ちていく。目を凝らせばそれは人の形をした核を持っていた。
「憐れ、お悔やみ申し上げます」
私は銀の針を十字架に見立てて祈りを捧げる。ぱちぱちと音を立てて燃え盛るガレーは黒く変色し、細い部分から崩れ落ちていく。先ほど飛び散った火の粉を押しつぶすように、木炭は崩れ落ちていった。
「最期に残ったのは、六十の無駄な犠牲、救われること無き無垢の魂。そして、沈黙する元首官邸……。身勝手な知性ほど悲しいものは御座いません」
私は立ち上がり、銀の針を置く。煮えたぎったワインは激しく燃え上がる。じゅうという音と共に、芳しいアルコールのにおいが鼻をくすぐる。やがてワインは完全に蒸発し、銀の杯はその輝きをそのままに、煙を立ち上げた。
私は、強く甲板を踏みしめ、船楼の中へと入っていった。
 




