傾国のインフェクション9
静かな潮風に乗ってくるさざ波をぼんやりと見つめていると、あの人との会話を思い出した。埠頭からは見たこともない歪な鉄の船が見え、大運河の前には二列のガレー船の上で虚ろな顔をした兵士が見張りをしている。彼は私を認めると舌打ちをしたものの、直ぐにその視線を鉄の船に戻す。
私は膝の上に手を置き、爪先を見つめた。高いヒールは私の足の形を奇妙な形で持ち上げている。夜警は相変わらず美しく、普段の私ならば隣にいるあの人と共に上を見上げて笑っていたことだろう。そう思うと、益々自分の出自を呪う気持ちが強くなり、目前にいるであろう父の面影が暗い影の中に隠れていくように錯視した。
「こんばんは」
その声にふり返ると、教会の上でチコ先生と共にいた老婆が微笑んでいた。私が頭を下げると、彼女はおっとりとした笑顔を返し、私の隣に腰かける。年相応と言うにはかなり素早く腰掛け、背伸びをする姿も若者と遜色ないほどてきぱきとしたものだった。
「あら、どうしたのですか?お怪我、大丈夫ですか?」
彼女は私の顔を見るや否や、心配そうに訊ねる。私は努めて平静を装って返した。
「えぇ、大丈夫です。ちょっと、頭を打ってしまって……」
私が答えると、彼女は一瞬怪訝そうな顔をしたものの、直ぐにおっとりとした表情に戻り、艶やかに微笑んだ。
彼女は夜空を見つめながら、目を細める。夜空は普段よりもずっと晴れていて、私の沈んだ心とは反比例して美しかった。欠けた月も眩く照り付け、遮るもののない埠頭であれば、ずっと明るいのだろう、などと思ってしまった。
そして、同時に、彼の笑顔と今朝の苦しそうな表情を思い出し、思わず表情が曇った。私は表情を誤魔化すために口角を持ち上げ、水面を見つめる仕草をする。彼女は私の仕草を追うでもなく、空を見上げていた。
「満天の星、私達の心が曇っても、こうして空はここにあるのね」
「えぇ、本当にきれいですね」
私は水面に映ったそれを見つめた。ぼやけ、伸縮しながら、夜闇を照らす星は海をも照らす。その深い、深い水底を隠すために幾重にも重なった波の一番上に、星の輝きが浮かんでいる。
「あの人は、今も私を待ちながら星を見ているのでしょうね」
私は不意に彼女の姿を見る。彼女は愛おしそうに空を見つめ、この場にあるどれよりも穏やかな笑みを浮かべていた。
「私達ね、異端審問にあったことがあるんですよ。ユウキなんて何と二回も!」
「え?」
私が聞き返すと、彼女は慈しむ瞳を輝かせる。私は会話の中で初めて自分が彼女を直視したことに気付いた。肌は私のそれよりもずっと多くの皺があり、若々しい仕草とは違って年相応なものだった。それでも、彼女がとても美しいと思わずにはいられないのは、その笑みがまるで子供の無邪気な笑みと変わらなかったからだ。
「異端だと認められなかったのは、私がこうしているから分かると思うんですけど、一回目は、黒魔術を補佐した疑いで、二回目は、天体の運行に関する主張が、聖典の言葉と反していたから」
彼女は楽しかった記憶を手繰り寄せるように、慈しむような瞳を空に向ける。ひときわ輝く動かない星は、巨大な柄杓をくるくると回しながら空を動かしている。彼女は一拍おいて、唇を湿らせた。
「あの人はうまく切り抜けたみたいだけど、私はそういうのが苦手でね、彼が手を差し伸べてくれなかったら、今頃黒焦げになっていたんでしょうねぇ」
「大変でしたね」
私はどう切り替えしていいかわからず、そんな風に答えた。彼女は瞬きをし、視線を真っ直ぐに向ける。決して憎しみの表情を見せず、ただ穏やかな笑みを鉄の船に向けた。
「でもね、私は彼が助けてくれることをわかっていたから、信じて待つことが出来たんですよ」
「信じて、待つ……」
「そう、信じて。女は弱くて、男達の中に混ざることが出来ないなんて、そう言われて久しいけれども、中には、それに立ち向かって、成功した人もいました。でも、私は『待った』んですよ。他の女たちと同じようにね」
彼女は私の方を見る。澄んだ瞳一杯に慈愛を溢れさせ、まるで私のことを孫をみるように穏やかな表情で見る。ガレー船を背景にした彼女の微笑みは、余りにも場違いに尊いもののように見えた。
「私は、女だから駄目で、男だからいいなんて、ほんのこれっぽっちも思ったことはありません。貴方がジロードの人だからって、これっぽっちも悪い人だと思ったことはありません。だって、貴方の今の表情は、誰かを慮る強いものだったもの。……確かに、私達は生きるには余りにも窮屈で、言われた通りに結婚して、相応の幸せを掴むことが、やっぱり一番楽なんだと思うんですよね。女の人たちが結婚の為に躍起になる事って、やっぱり、そう言う所もあるんだと思うんです。でもね、私は『信じて待つ』弱い人だったかもしれないけれど、全ての女性がそうだってわけじゃあないでしょう?」
彼女は私に同意を求める。私はその笑顔が余りにも眩しかったので、目を逸らしてしまった。深い水底に沈んでいったウネッザの人々が、私を責めるように見つめているように思った。
「私がいたから、あの人に迷惑をかけてしまった」
私は沈んだ声で言った。彼女はとても楽しそうに笑った。今朝の嘲うようなものでも、面白がるようなものでもなく、純粋に嬉しそうに、美味しいものを食べた時のようなごく自然な笑いだった。
「少なくとも、フェデリコ君は、貴方の事を迷惑だなんて思っていませんよ。……女が幸せを掴む方法って、一つじゃないと思うんですよね。いい人と結婚して、その人の子供を産んで、捕らわれて暮らすことだけが、幸せの形じゃない。……貴方がもし、フェデリコ君と幸せに生きたいと思うならば、それを勝ち取りに行かなくっちゃ」
「勝ち取りに……?」
私は不意に彼女の顔を見る。変わらずに、あの人が言っていた月のように凹凸があり、穏やかな表情だった。
「異端審問に掛けられた私が言うのだから、茨の道だと思います。私は農家で、貴方は貴族と変わらない大豪商の娘だから、血縁の事でもめるなんて違いもあるのでしょう?でもね、そこで道を違えたら、お父さんに負けてしまうんですよ。貴方の大切な人が、身を挺して庇ってくれたのなら、貴方も、女ではなく、一人の人として、その人を支え、立ち向かう道もあるんじゃないかしら?」
「立ち向かう……」
私が復唱すると、彼女は微笑み、月を見上げた。
「あら、こんな時間。そろそろ戻るわね。頑張ってね」
彼女はゆっくりと立ち上がり、しっかりとした足並みで去っていった。
私は海の彼方を見つめる。鉄の船は、波に揺られて上下する巨大で不気味なそれは、何かを恐れているようにも思えた。欠けた月は、鈍色の鉄の船よりもずっと高く、包囲する船も含めて、遍く私達を照らしていた。
「貴方は、ちっとも弱くないじゃないですか」
不意に漏れた言葉に、私は笑みを零した。




