傾国のインフェクション8
「いやぁ、派手にやられましたねぇ。まぁ、命に別状はないでしょう。腫れたところは冷やして安静にしてくださいね」
医者は間延びした声で呑気に言った。
治療室には酢やアルコール、薬品の臭いが漂い、崩れそうな乾いた煉瓦造りの壁に棚が取り付けられ、大量の薬瓶が置かれていた。薬瓶は高価なウネッザ製の硝子であり、澄んでいて光沢がある。その中にはグロテスクな色の軟膏が入れられており、瓶ごとに色とりどりの軟膏を隠すように名前を書いた紙が貼りつけられていた。
フェデリコは瘤を抑え、傷の治療がされたカタリーナを見つめ、安堵のため息を吐く。彼は、苦しそうに唇を噛みしめながら、青い瞳が開くのを待っていた。
医者はカタリーナの鼻に酢を近づける。カタリーナは眉根を寄せ、目を開いた。フェデリコが前のめりになり、カタリーナの体に触ろうとしたところで、医者は手を止めた。
「そこは握ると痛いので、握るなら、こっちね」
医者はフェデリコの手をずらし、少し上を握らせた。フェデリコはカタリーナと目が合うと、思わず嗚咽を漏らした。医者はそれを見た後、満足げに深く腰掛け、今度はカルロの方を見る。
「君は大丈夫かい?首元が赤くなってはいるけど、他の外傷はなさそうだね」
「はい……」
カルロが沈んだ声で答える。医者は俯くカルロの前で屈み込み、首の赤くなった部分を調べる。首を持ち上げさせ、調べ終わると、椅子に深く腰掛けて頷いた。
「君は大丈夫。まぁ、念のために暫く様子見た方がいいかなぁ、ってくらい。あ、仕事は行ってもいいからね」
「はい……」
カルロは上の空で答える。フェデリコとカタリーナはカルロを不安そうに見つめる。カルロは視線に気づくと、努めて元気そうに笑顔を返した。
「さて、解散!救出された患者さんが詰まってるんだよねぇ」
医者はカルテを小僧に渡す。三人は立ち上がり、料金を支払って病院を後にした。
カルロは終始上の空で業務を終えると、帰路に着く。主人のいなくなった展望台で、ぼんやりと月を眺めていた。月は煌々と空を照らし、出航・寄港の要所を抑えたジロード船舶を照らしている。
海はさざ波で船を揺らし、厳戒態勢の大運河前は二列のガレー船が交代しながら監視を続けていた。
(ウネッザの人たちのあんな姿、見たくなかった……)
カルロは目を瞑り、項垂れる。ウネッザの重苦しい空気を吸うと、手にこびりついたタールのにおいが鼻をくすぐる。それは、カルロを波から守るようでもあった。
「お悩みのようだね」
カルロがふり返ると、アルドゥスがゆっくりと階段を昇ってきた。彼は周囲を見回すと、露骨に不快感を露わにする。
「チコ先生は……不在か。チッ、折角のぼってきたというのに」
「アルドゥスさんですか?あの、俺でよければ、対応しますけど」
「いや、君では力不足甚だしい。チコ先生でなければ意味がない。……全く、軍用郵便でもなければ手紙もろくに出せない。志願兵を引き戻して郵便事業を再開できないものだろうか」
アルドゥスは無遠慮に椅子に腰かけると、「まだ大丈夫だと思っていたが、私も年かな……」と呟く。
カルロは向き直って、アルドゥスの様子をまじまじと見つめていた。アルドゥスは視線に気づくと、怪訝そうに眉を寄せる。
「何か?」
アルドゥスの険しい表情に、カルロは思わず視線をそらす。
「あ、いえ、何でもないんですけど……」
アルドゥスは溜息を吐くと、散らかった書籍の山を見つめる。すべてチコの私物であり、中にはアルドゥスの印刷したものも散見された。
「こうも乱雑に積み上げられていると不機嫌になるね。あの男は昔からそうだ……。身勝手なうえにだらしない」
(アルドゥスさんの店もなかなか乱雑だったと思いますけどね……)
カルロは喉元で言葉を止める。アルドゥスがカルロに視線を戻し、鼻で笑った。
「君、戦局をどう見る?」
「え、ウネッザの方が明らかに不利ですよね……?」
「そうだねぇ、まったく忌々しくも、ジロードに完全に補給路を断たれているよ」
アルドゥスは遥か彼方の戦艦に目をやり答える。カルロは俯き、黙り込んだ。
チコのいない天文室は酷く静かで、モイラもすぐに就寝したためか姿を見せない。皿洗いを終えた彼女は早朝に備えて深い眠りにつくのが最近の日課になっており、偶にチコが帰宅した時にだけ、遅くまで彼の世話をしていた。
「あの、今朝の事、ありがとうございました」
カルロが頭を下げると、アルドゥスは不意を突かれたように「むぅ?」と反応し、少したって納得したように「あぁ」と答えた。
「なぁに、得意先に媚を売るのは商人の性分でね。今度こそ定価で売りつけてやろうと思うよ」
アルドゥスは渾身の冗談に自ら笑みを零す。カルロは俯き、自嘲気味に笑った。
「俺、駄目ですね。却って騒ぎを大きくして……。アルドゥスさんみたいに、ちゃんとした対応もとれない」
アルドゥスは鼻から息を吐くと、頬杖ついた。
「自分の力を正確にとらえられないものは、直ぐにつまずくものだ」
「そうですよね……」
「君は全くもって無能だ。権力の扱い方も知らず、答弁も三流、理解力も三流。何を取っても中途半端で、力があるわけでもなければ、知恵が回るわけでもない。そして何より、自らの武器を活かそうともしない」
アルドゥスは冷たい声で続ける。カルロは顔を上げた。アルドゥスは頬杖をついたまま、指で机をなぞる。
「いっておくがね、君。君は私より遥かに人間的な魅力にあふれているよ。こと信用においては、へたな金持ちよりもずっとあるだろうね。
君に関わった人々はみな一様に君の素性を深堀することがない。つまり、君に信頼を置いているという事だ。
もう一度言う。自分の力を正確にとらえられないものは、直ぐにつまずくものだ。ウネッザに来た理由など、私は君に問う気も起きないが、少なくとも君は、自らの能力を整理するべきだ。それは帳簿をそろえるのと同じくらい、商売人に必要な力だからね」
薄暗い天文室を、月の灯りが照らす。星々は徐々に傾きを変えながら、静まり返ったウネッザを見下ろす。丸裸の展望台は星の格好の観測対象であり、闇に沈んでいくウネッザの中で一際多く光を集めていた。天球はカルロが顔を上げてアルドゥスを見る姿をとらえる。
頬杖をついたアルドゥスは小さく欠伸をし、月の位置を確かめる。
「あぁ、こんな時間か。失礼するよ。くれぐれも、チコ先生によろしく」
「あ、はい。有難う御座います」
カルロは立ち上がり、アルドゥスを見送る。丁寧に下げられた頭を再び確かめたアルドゥスは、階段を見下ろし、大きなため息を吐いて降りて行った。
(そういえば、博士もそんなこと言ってたかな……)
カルロは空を見上げる。一目では代り映えのしない毎晩の景色の中に、餞の言葉が重なった。




