傾国のインフェクション4
海上を占拠する巨大戦艦は、ウネッザの船団とは一線を画していた。堂々とした佇まいに、快晴を阻む高い船高、黙々と立ち上る不気味な煙は、砲撃甲板から上昇気流に乗って船を覆う。船内で火災が引き起りそうなほどの高音によって、水底に沈んだガレー船のあった場所には陽炎が立ち込める。
何よりもウネッザの勇敢な人々を恐怖に陥れたのは、その巨体が鋼鉄と思しき素材によって作られていたことだった。突き出した釘は一つ一つが盛り上がり、上甲板からは鉄の船楼が伸びている。耳鳴りのような唸り声をあげる船楼の上の巨大な拡声器は、ウネッザ全地域をその目に捕らえていた。
(あんなもの、見たことがないぞ……!)
カルロは巨大な戦艦が海上を闊歩する姿に息を呑む。ガレー船団では簡単に突破されそうな重厚な鉄塊は、ただその位置を保ったまま、挑戦者を待っていた。ウネッザ側の船は防衛に徹し、大運河を封鎖してとどまっている。しびれを切らせたように、戦艦のスピーカーが耳鳴りを鳴らし始めた。
「ウネッザは実に合理的な共和政体制を敷いていることは承知していますよ、諸君。実に嘆かわしいことに、我々ジロードはその境地に至るには敵が近くに多すぎたのです。カペルやプロアニアから身を守る為に、私達は教皇庁に近づいたのですがね、これがまた困ったことに、太った羊の重さに耐えかねて床が歪んでしまっていたのですよ。
共和制は極端な逸脱行為を防ぐには効果が期待できますが、やはり決定権限を一つに絞り、その為の相応の努力を惜しまなければ君主制も大変良いものとなります。いずれを取るにせよ、盤石な政治体制には、金よりも獅子と狐が必要と言うものです」
パニックになった人々が次々とマッキオ教区から別の教区へと渡っていく。兵士達は総出で彼らを誘導しようとするが、雪崩れ込む群衆は兵士を飲み込みながら奥へ奥へと逃げていく。それと同様に、聖マッキオ教会の門をたたく群衆たちが、甲高い悲鳴を上げながら礼拝堂に集結する音も、展望台に響いた。教会そのものが振動するほどの壮絶な靴音を響かせながら、詰めろ、入れろと合唱をする。散り散りになる群衆を遥か彼方から見ているように、声は笑い声をあげる。
カルロは再び踵を返し、階段を下りていく。モイラはそれを止めずに、海の彼方を見据えて静かに訊ねた。
「どこへ行くつもりですか?」
カルロは毅然とした態度で答えた。
「アルセナーレへ。ここで踏みとどまっていても、何も始まらないでしょう」
モイラは真剣な表情を緩め、穏やかな笑みを浮かべた。
「……わかりました。危険になったら帰ってくるように」
「行ってきます」
カルロは礼をして、普段通りの歩調で展望台を下りていく。一人取り残されたモイラは、その背中を見送った後、空を見上げて目を細めた。
「本当に、若いというのは素晴らしいと思いませんか?貴方……」
太陽は変わらずにウネッザを照らし、水面に反射する光は波打つたびに上下に震える。それでもなお、太陽は静かにそこにとどまり、海面に光を映し続けた。
―元首官邸、十人委員会。
海を封鎖する巨大で不気味な戦艦に恐れを抱かないものはいなかった。終結した委員全員が、沈んだ表情で痛ましい広場の砲弾を見つめている。遅れて入場したチコは、猫を抱えたまま席に着いた。それに気づいた一人が血相を変えて怒鳴りつける。
「この非常事態に黒猫を抱いて現れるとは何事だ!ふざけているのか!」
猫は尻尾を張って毛を逆立てる。喉が閉まっているような鳴き声を上げ、部屋の隅へと隠れていった。チコは猫を抱いたときと同じ姿勢のまま、静かに俯いた。
「女は暢気なものだな。男達が水底に沈んで行っても、兵士を飲み込む荒波となって去っていくか、あるいは猫を抱えて花でも買いに行っているのだろう」
乾いた笑いが議場を包み込む。チコは猫の毛を叩き落としながら、皮肉を言う若い委員に視線を送る。視線を送られた委員は「私に猫の毛でもついているかな?」と言い、さらに議場を盛り上げた。
「いえ、素敵なお方、口の中に気味の悪い芋虫でも飼っておられるようでしたので」
チコが切り返すと、委員は不機嫌そうに眉を顰めて黙った。暫くして、大量の用紙を携えてドージェが入場する。一気に静まり返った委員の姿を確かめると、チコはくつくつと笑った。ドージェは部屋の隅にうずくまる黒猫を一瞥すると、席に着いて真剣な表情で切り出した。
「さて、諸君。状況が一変し、厳戒令を受けて出撃した船舶のうち五隻が海に沈んでしまった。あの巨大な鉄塊をいかに対処するべきであろうか、今回の議題はそれだけです」
「あの船は火砲で落とせるのですかな?あのまま出口を塞がれてしまっては、我々は伝令も受けられず、食糧の仕入れもできません」
委員の一人が切り出す。誰もがそれに頷くばかりで、答えようとするそぶりは見せない。ドージェは一通り議席を確かめると、こめかみを抑えた。
「……正直、私は火砲の射程が違いすぎて近づけないのではないかと考えている。あの砲口だけでなく、櫂を漕ぐために開けられている穴でさえ、彼らは砲門にできるだろう」
「それよりも、なぜ気づかなかったのでしょうか?もしそうした魔術を用いるものがあるのならば、途轍もない脅威となってしまいます」
「焦点をずらす魔法や視野を狭窄させる魔法ではとてもではないが補完できない規模のものだ。海と同じ色で擬態していたのだろうと思われます」
議員の一人が言うと、質問をしたものが安堵の溜息を吐く。彼らは運河を封鎖するウネッザのガレー船団を眺めた。
「彼らがもし行動を始めたら、取り返しのつかないことになる。そうなる前に我々で手を打たねばならない」
「ドージェ、ここは被害を最小限に抑えるために、交渉の席に応じることが堅実ではないかと思います」
若い男が手を挙げて発言すると、それに応えるべく中年の男が一斉に手を挙げた。彼らは互いの顔を見合わせ、指で時計回りを示して互いの発言順を決める。初めは、チコを諫めた男が咳払いをした。
「負けを認めるにはまだ早いでしょう。今は様子を見て、粘ることが肝要でしょう、ドージェ」
中年の委員たちは一斉に賛成意見を述べる。それに対抗するように、ドージェとほぼ同じ年頃の男が手を挙げた。
「いえ、やはりあのジロード娘を牢に放り込み、交渉の席に立つことがよろしいかと。私達は外交カードを使って彼らを「平和的に」退場させることが最善の手段だと考えます」
「逆上して攻め込んできたらどうするんだ!」
若い男が反論する。意見を述べた男は鋭い目つきで彼を睨み、低い声を発した。
「そうなれば干潟に引っ掛かって彼らが沈没するだけです!」
その言葉を聞いた委員たちは、「干潟」と小さく呟き、隣同士で意見を交わす。ドージェは少し声を張り上げて、注意を促した。
「意見があるならば手を挙げていいたまえ」
男達は顎を摩りながら言葉を整理する。静かなざわめきが起こる小部屋に、砲撃の音が響いた。一同が一斉に窓の前に詰め寄る。戦艦の砲門の三つから煙が上がり、最前線を防御していたガレー船が粉々に砕けて沈んでいった。
「ドージェ、いい加減自分の意見もいい給え」
チコは冷めた視線をドージェに送る。委員の視線がドージェに集まると、ドージェは咳払いをして応じた。
「今までの委員の意見を聞いていたが、どれもしっくりこない。敵の戦力が未知数すぎるのだ。しかし、今の砲撃をみて確信した。私は、現状のまま抗戦することが、最良の手段であると思う」
チコは鋭い目つきでドージェの胸元を見つめる。
「その心は?」
「我々には干潟がある。彼らは干潟がある場所を航行できない以上、大運河の守りを固めてしまえば、ウネッザに侵攻することはできない。
それに加え、先ほどの砲撃を見て気づいたのだが、あの火砲は我々の火砲よりも遥かに確実性に劣る。安定した砲撃が出来ないのであろう。
それは確かに、「我々に被害が及ぶリスク」もあるが、逆に言えば「彼らはこのまま辛抱強く継戦し続けなければならない」という事だ。海上封鎖の間を縫って食料を調達する方法を考え、我々は彼らに無意味な戦費を浪費させることがよいのではないかと思う」
「しかし、我々はどうやって籠城するのですか!」
「彼らはもとより我々と同じ商人だ。稼ぎになりそうにないならば勝手に交渉の席を作るさ」
ドージェは窓の向こうを眺めて答える。チコはその横顔を眺めながら、不気味な笑みを浮かべて頷いた。
「これ以上の議論は不要だ。決を採ろう」
チコの言葉に議場は静まり返り、一同が視線を自身の膝元に向けた。膝の上に組んで置かれていた手が、祈るように各々の意見に挙げられた。




