海上のラグーナ
教会で昼食を取ったカルロは、やっと「観光」がてらウネッザを散策する余裕が出来た。町の中は迷路のようになっており、船で移動してばかりでいたが、美しく独特な建物群に関心がないわけではない。暖かい後援を得た彼は、意気揚々と町に繰り出した。
「おぉっ、凄い人だかりだ!」
教会手前の広場、聖マッキオ広場。デュカート宮殿と呼ばれるピンクの元首官邸にもつながっており、正しくこの国の中枢だ。この潟は教会の名を借りてマッキオ教区と呼ばれ、いわば政治の中心部である。
広場には高貴な人々が往来し、カルロと同年代の青少年たちの中には長いトーガを着用していないものもある。帽子をかぶっているものも多い。しかし、カルロにとっては政治も信仰もあまり関心がなかったため(有り難い言葉に関心がなかったというわけではなく、難しいことが元々好きではないのだ)、修道女たちから手渡された案内図を頼りに、細い路地に入る。
密集した家々の連なりによって影ができ、昼であっても薄暗い小道を見上げながら歩くと、目の前に小規模の広場が現れる。巡礼者たちで賑わう小広場は、ウネッザ土産の聖マッキオの飲むお札や、木彫りの彫刻、何よりも東方から来る宝飾品の数々が、所狭しと陳列される。巡礼者は聖遺物を眺めたその目で、俗っぽい土産物などにも目を輝かせるわけだ。ウネッザと言う町が商売で盛況しているのも、こうした基本的な経営戦略が隅々まで行き届いているかららしい。
とはいえ、カルロの少ない手持ちでは買える商品も多くはないため、一通り雰囲気を楽しんで回る。男たちが目を輝かせるのは大道芸や土産物のよく分からない置物、世にも珍しい絵札合わせなど、遊び道具だった。
宝飾品に目を輝かせる修道女が見られるのは、この町ぐらいであろう。それ程に、宗教にも寛容な町である。
店員の誘いを巡礼者を盾に上手にかわしながら、雰囲気だけを愉しむ。カルロはさらに細い道を注意深くたどりながら土産屋の集う広場を抜け、宿場町を確認した。貸してもらった地図を確認しながら、宿の名前を確認する。高級な宿は大運河沿いにあるものの、初めは庶民からの依頼が多いはずと踏んで、地理を把握することにしたのだった。
頭にターバンを巻いた男が歩いている狭い街路に掛けられる表札を確認しながら、頭に叩き込む。多くの都市以上に空は狭く、日中も通路は狭い。その中を商人から職人まで荷物を運ばなければならないのだから、この都市における運河の重要性がいかに大きいかが理解できる。
(こんなところか……)
一通り宿場を回った後で、カルロは突き当りの角を曲がる。大運河からいくらか離れた、商家の館を確認した後、一周まわって聖マッキオ広場に戻ってくる。広場には、先程の人々と比べるややがさつそうな、船頭たちが暇そうに談笑していた。ひとしきり荷物を運び終えた彼らは晴れやかな表情でベンチに座る彼らが再び忙しくなるのは終業直後である。
「はぁー!やっぱりすごいなぁ!」
カルロは伸びをしながら呟いた。運河の清流にも興奮は隠せないが、往来する人々の多さ、美しい建物群まで、どこを取っても彼の故郷にはないものだった。彼は満足感に満たされ、鼻で深く息を吐く。彼はそのまま空を見上げると、吸い込まれそうなほどの青に思わずため息を吐いた。
(空が高く感じる……)
町の雑踏や密集する建物に慣れていないカルロにとって、この町はどこまでも新しい発見に満ちていた。何よりも、先程まで窮屈で暗い街路を歩いていた彼が見上げた空の広さに、彼は故郷で幾度も見せられていたものと同じとはとても思えない感動を覚えた。
彼は切り取られた青に向けて手を伸ばす。眩しく輝く太陽の瞬きは一層強く感じ、直視しているわけでもないのに眩しさに目を凝らした。彼がそうして空を眺めていると、後ろから何者かがぶつかってきた。
「おぉっ!」
カルロは思わず声を上げる。振り返ると、カルロと同じ年頃の男がうっすらと汗をかきながら散らばった書籍を集めていた。
「すいません、すいません!」
男は本を回収しながら、何度か謝罪を繰り返す。カルロも屈み込み手を貸した。
「大丈夫?」
「えぇ。すいませんでした。急いでいまして」
カルロは拾った本を手渡し、頭を下げる男に対して努めて笑顔で返した。
「そっか、がんばれ」
「はい、有難うございました」
例に違わず長身でトーガのよく似合う、然しどことなく幼さの残る風貌の男だった。聖職者特有の動きにくそうな服を中に着込み、髪は短く切りそろえている。年の頃から察するに、見習いの聖職者か学生であると推察できた。
「あ、いけない!急いでいますので!ごめんなさい!」
男は頭を下げ、駆け足で教会へと向かって行く。カルロはその後姿に手を振った。彼の周囲が静かになる。
(よし、もうちょっと町を見て回るか!)
再び空を見上げたカルロは、今度は地図を片手にぶらぶらと狭い街路に繰り出していく。街路を吹き抜ける風は貿易には不向きな逆風であった。