波の侵食
カルロが帰宅すると、チコがフェデリコをからかい、指をさしていた。
「あ、お帰りー」
「またやってんのか」
「素人は黙っててくれ、これは僕の戦いだ」
カルロは荷物をおろす。
蝋燭一本で照らされた食卓には、カルロの分の食事だけがおかれている。カルロが椅子を引くと、椅子の下にいた猫が高い声を上げて飛び出していった。
カルロの椅子の隣には、フェデリコの天体観測道具が入った頭陀袋が乗っている。快晴の空には白い瞬きを放つ星が点在し、月も展望台をしっかりと照らしていたため、チコの荷物に遮られた展望台でも、各々の顔がはっきりと確認できた。
カルロはパンに肉と野菜を挟み、齧り付く。彼がそのまま咀嚼すると、野菜の芯がコリコリと音を立てた。
カルロは星見をしながら専門用語を交わしあう二人の後姿を眺める。
チコがあれこれと注文を出すたびに、フェデリコは頭を掻きまわして怒りの声を押し殺す。その姿にカルロは失笑しながら、食事を続けた。モイラはさり気なく水差しをカルロの前に置き、穏やかな表情で二人を見守る。
フェデリコが唸り声をあげると、チコが楽しそうに「はいはい、証明失敗」とあしらった。ぐぅの音も出ないまま、フェデリコはとぼとぼと階段を下りていく。チコはその背中に追い打ちをかけた。
「またおいで」
「うるせぇ!」
フェデリコは半泣きになりながら怒鳴ると、階段を駆け下りていった。
部屋が静かになったところで、カルロは水を飲む。一服つくと、そのままチコに声をかけた。
「あまりいじめないでやってください」
チコは羅針盤の角度を変えながら、膝元に乗った猫の背を撫でる。
「んんっ?教育だよ教育。仮にも先生だからね、私」
チコは一等星に角度を合わせると、両手を猫の背に置き、蚤を取るように毛を摩る。猫は欠伸をすると、尻尾を揺らしながら体を丸める。
「……おや?小舟が漂っているね」
「小舟?こんな時間にですか?」
カルロが座ったまま身を乗り出す。夜空の映る波間に目を凝らすと、リズミカルに櫂を海にさす米粒のような小舟がウネッザへ向かっていた。櫂が波を掻き分ける速度は相当に速く、遠目からでも弱い波に煽られてぐらつきながら、じりじりとマッキオ広場めがけて近づいていることが確認できた。
「……ふぅん、そうか」
チコはセットした羅針盤をそのままに、席を立つ。モイラが給湯室からやってきて、チコの服飾を整える。チコのただならぬ表情に、カルロは立ち上がり、彼に駆け寄った。
「一体、何が分かったんですか?」
「詳細は分からないが、あれは速く保護した方が良さそうだ。ドージェのとこの坊やを連れてきなさい。あそこなら快速船の一つや二つ、賄えるだろう」
チコはカルロを指さして指示を出す。いつになく険しい表情で、膨れた襟元もしっかりと調節し、積み上げられた魔導書と私物を詰めた鞄を肩にかける。
「わかりました!行ってきます」
カルロが階段を駆け下りるのを追いかけるように、チコも小走りで階段を下りる。
カルロがマッキオ広場に至ると、フェデリコはちょうど迎えの船に乗船したところだった。船はゴンドラより一回り大きく、日除けを掛けるための棒が中央にたてられたものだった。その上に、フェデリコの身の回りの世話をする使用人と、二人の船頭が乗船していた。
「フェデリコ!なんか、ウネッザに向かって小舟が来ている!」
目の周りを赤くしたフェデリコは、鬱陶しそうに振り返り、眉を顰めた。
「はぁ……?こんな時間に?」
「なんか、チコ先生が真剣な表情で外出の準備してたから、たぶん一大事だと思う」
フェデリコは露骨に嫌な顔をしたが、カルロの背後から早足で近づいてくるチコの表情を認めると、使用人らしい船頭二人に指示を出す。
「……このまま保護する。お前は急ぎ、父上に連絡を。二人は僕とチコを連れて保護に向かう。カルロは役立たずだから待ってろ」
使用人はフェデリコから小さな紋章を受け取り船を降りると、元首官邸に駆けていく。フェデリコは使用人のいた席を詰める。チコは鈍重なしぐさで乗船する。揺れが落ち着いたところで、船頭は予備用の帆を日除け立てに装着すると、離陸を始めた。
風を受けた帆が海に向けて膨らみ、櫂の動力とともに船を海上へと導いていく。航海には心許ない夜光だが、チコとフェデリコは空を見上げながら方向を調節させる。取り残されたカルロはゴンドラよりも多少速く遠ざかっていく船を見送り、元首官邸を見る。
二人を乗せた船が視認できない程小さくなると、官邸の一室に明かりが灯る。官邸の一室に明かりが灯ると、静まり返っていたはずの光のないウネッザの窓から、ちらほらと光が漏れ始める。槍を携えた兵士達が官邸の前に現れる。
カルロの背後からどたどたと慌ただしい音がする。カルロがふり返ると、上物の服を纏ったよく肥えた人物が元首官邸に向かって走っていく。服の上からでも贅肉をふるわせているのが分かる程、カルロの隣を全速力で駆け抜けていった。走ってきた男に兵士達は敬礼する。男は兵士達には目もくれず、元首官邸に入っていく。
その後も元首官邸の灯りの灯った部屋にちらほらと現れる人影を見ながら、カルロは息を呑んだ。冷たい潮風が切っ先の鋭いナイフのようにカルロの肌をかすめて通り抜けていく。
元首官邸に集まった人々の陰の往来が止むと、ウネッザは再び静寂に包まれる。カルロはそれを確認すると、潮風の向かう方向へと視線を送る。水平線の向こうには何もなく、空には白い羽毛を夜色に染めた海鳥の陰が空を彷徨っている様子が確認できた。
暫くすると、フェデリコの使用人が戻ってくる。その後を追うように、伝令兵があちこちに散会した。
「坊ちゃんは?」
「まだです」
カルロが答えると、息を切らせた使用人は不安そうに海の彼方を見る。
月が若干中心に向けて移動したことが確認できる頃になると、遥か彼方から小舟が現れる。カルロは目を凝らし、帆を下ろしたそれを凝視する。彼らは少しずつ大きくなり、何とか人影を確認できるようになった。使用人は手を拡声器代わりにして叫ぶ。
「坊ちゃん!ご無事ですかー!」
すると、船上の人影が一つ動き、白い帆を両手で掲げる。
「今戻る!」
フェデリコの声が遠くから響く。使用人は安堵の表情を浮かべ、近づいてくる船を追いかけた。




