穏やかな海
アントニーを送り出して数週間がたつと、時化もすっかりなりを潜め、穏やかな潮風と共に整備を終えた商船が次々に送り出されていく中、港には多くの妻と奉仕する騎士たちが主人を見送るために集っていた。
遠ざかる帆船が彼方の海に消えて行くと、妻は騎士の腕に抱き着き、身を寄せて踵を返す。
その様子を展望台から見下ろすチコのいやらしい笑みは、旅立っていった無知な男達の姿もしっかりと捉えていた。膝に乗っていた猫がチコの膝を踏み、体を丸める。穏やかな海原の向こうを見つめるチコを、カルロは呆れ顔で見ていた。
「……趣味が悪い」
カルロが低い声で呟くと、チコは哄笑する。
「ここからの眺めは精緻に書き込まれたミニアチュールのようだ。妻子のために旅立つ男達に背中を向けて、町を練り歩く妻と奉仕する騎士たちの姿を思うと、滑稽話の一つもかけてしまいそうだ」
以前は空を独り占めしていた天文室には、猫のための餌入れや、チコが猫に強請られて買い集めた花の数々と乱雑に積み上げられたチコの私物に阻まれ、その役割を完遂できなくなっていた。
いよいよ窓を遮り始めた大量のいわくつきの書籍の山は、死霊魔術を専門にするチコにとっては当然のものだが、かつて博士と共に静かな空を見上げたカルロにとってはガラクタに思い出を汚されたような不快感を持つのに十分なものとなっていた。
「片付けは学者の基本なんじゃないんですか?」
「私が分かれば整理できている」
カルロは首を振り、仕事へ向かう。チコは満足げに鼻を鳴らすと、丸まって眠る猫を撫でながら、町へ繰り出そうとする妻と騎士たちを追いかけていった。
(あいついつか骨折とかしねぇかなぁ……)
カルロは溜息を吐きながらゴンドラに揺られ、造船所に向かう。すっかりカルロが常連になった船頭は、冗談交じりの世間話をしながら、一人で爆笑していた。
町は建物や海上の杭の修復作業をする者達で溢れていた時化の時期とは異なり、出資者たちが賑わう町で値切りを競い合っている。エンリコも送り出した船団から離れて、すれ違う貴婦人たちに挨拶がてら商品の売り込みを行っている。
(なんか、賑やかなのも慣れちゃったな……)
通り過ぎる広場の景色に、彼は腰をかがめて種を蒔き、襖吹きの像と睨みあっていた故郷の暮らしを重ねる。彼は郷愁にも似た感情と共に、見ようによっては遊び惚けているようにも見えるウネッザの人々の騒がしさに対する親近感と幻滅を抱いた。
「ほい、ついた」
船頭が言って初めて、カルロは彼の顔を見る。大層満足げに笑う船頭をみたカルロは、今までぼんやりと考え込んでいた自分が馬鹿らしくなり、自嘲気味に微笑む。
船頭には一枚余分に小銭を渡し、初めて来たときのようにゴンドラから飛び降りる。
「じゃ、行ってきます!」
「またよろしく!」
カルロは船頭の見送りを受けて、すっかり見慣れた造船所の扉を勢いよく開ける。
「おはようございます!」
カルロの威勢のいい挨拶に、工員達も答える。工具箱を運ぶ仕事は、カルロの初めての後輩のものとなっていた。
「あの、どこ持っていけばいいですかね?」
カルロが工員たちの中に混ざって談笑していると、後輩が訊ねる。カルロは未だむき出しになっている肋骨を持つ船を指さした。
「あぁ、作りかけの船の前に置いておいてくれ」
「おいおい、先輩面かぁ?」
メルクがカルロの肩に手を回す。カルロはしたり顔で答える。
「俺も「先輩」ですから」
木屑のにおいが漂う中に、教会の鐘が響く。カルロは、三回の鐘をきいて重い腰を上げた工員達より一足早く、船の前に向かった。
彼らは手際よく工具を選び、次々と新人によって運び込まれる板材の採寸を行う。途切れることなく続けられた作業により、終業の鐘が町中にこだまする頃には、一隻の船が出来上がっていた。
「お疲れ様でした」
ぞろぞろと工員たちが帰宅を始める中に混ざりながら、カルロは片づけをする後輩の姿を見つめていた。
後輩はカルロよりも四歳は若く、まだウネッザの人間特有の高身長も持ち合わせておらず、顔も丸い。口元に小さなニキビのある白い肌、丸々とした瞳は茜色を受けて輝いている。カルロは彼の隣に屈み込み、散らばった木槌の一つを拾い上げた。
「ちょくちょく片付けないとよくこうなるんだ。あの人たち渡したら渡しっぱなしだからな」
後輩は生返事を返す。カルロは片づけを手伝い始めた。二人は、赤い海の色に背を向ける。陰は水面に浮かぶ船尾にまで伸びていた。
「あ、有難う御座います」
「ただの癖なんだよなぁ」
カルロはおどけた笑みを返す。後輩は訝しむようにカルロに視線を送るが、小さく溜息を吐いて工具箱に視線を戻した。
「楽しそうですね」
「え?片付けは別に……」
カルロが言い切る前に、工具箱を閉じると、後輩は工具室に戻っていく。カルロは言葉を切って踵を返した。
海が夜の色に染まり始める。船はその輪郭だけで浮き沈みを繰り返した。




