ジロード、メディス邸
―ジロード、メディス邸。
至る所に飾られた絵画に彩られた壁面と、赤いカーテンに遮られた大きな窓は、彼方に海を望む巨大な都市を切り取る。町のはずれには川が流れ、うねりながら外海へと流れ込んでいく。
焼き、茹で、油を搾り取った鶏肉が置かれたままの食卓は、色とりどりの豊かなサラダや、バジルをちりばめたピザや、胡椒の瓶がいくつか置かれていた。
肉料理にも拘らず、フルートグラスに注がれた白ワインも一口たりとも口を付けられていない。皿の上には一口だけ齧られたパンがあり、玉座のような仰々しい椅子が主人を待つ。
当の主人は、窓の前で右往左往しながら、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。彼はカーテンの隙間からしきりに窓の外を窺っては、言葉にならない奇声を上げて再び無意味に窓の前を往復する。
その様子を無表情で眺める姿が、一つだけあった。それは玉座の隣の席を独占し、白ワインの香りを嗜み、一口飲む。肉を一切れ切って食む。食べかけの小麦パンをちぎって食むと、再び肉を一切れつまむ。
「僭越ながら陛下、ここは拠出金が減ったと好意的にとらえることをお勧めいたします」
玉座の隣で食事を摂る男は、ナプキンで口を拭う。主人は怒りに歪んだ顔を男に向けた。
「何だと!娘を忘れろというのか!?」
「聡明な陛下は流石に理解が速い。左様に御座います。未だ戻ってこないものに妄執しても事は進みますまい。しかし、もしも拠出金が減ったと喜ぶことが出来ないならば、一先ず食事をし、気を落ち着かせることをお勧めいたします」
主人は歯ぎしりをして男を睨む。男は白ワインを口に含み、舌の上で転がせる。顔を真っ赤にした主人は大股で玉座に向かい、乱暴に席に着いた。机上の食材が一瞬飛び跳ねるほどの勢いを無表情で見ていた男は、食べていた新鮮なサラダを飲み込む。
「誠によろしゅうございます」
主人は男を睨みながら、パンを鷲掴みにして口に放り込む。そして、そのままくちゃくちゃと音を立て、歯をむき出しにして咀嚼する。ぽろぽろと零れるパンくずが膝の上に落ちると、主人は男の方にそれを払った。
「人間は摂食によってはじめて、自らの糧を得ることが出来ます。食事もとらずに何日も右往左往しようとも、その焦燥がなくなることはありますまい。よろしいですかな?陛下」
主人は歯ぎしりをして手で次々と食事を放り込む。詰まりそうになった時は白ワインを流し込み、勢いに負けてげっぷをした。
「いいか!二度と娘の失踪を喜ぶような言葉は口にするな!」
「畏まりました、陛下」
男は食事を平らげると、無表情で主人の零した食事のかすを見つめる。主人は白ワインを男にかけた。尚も無表情の男は、ナプキンでワインを拭う。
玉座の真後ろに掛けられた肖像画は、主人のものだった。その額縁の周囲を囲うようにして、群青の絵具をふんだんに使った宗教画が描かれている。薄暗い部屋に射す窓からの微かな光は、切れ長の主人の目を鮮明にさせる。
部屋の外からバタバタと駆ける音がし、主人は訝しむ。ノックもせずに扉を開いた一人の兵士が、息を切らせながら叫んだ。
「陛下!伝令に御座います!カタリーナ様の消息が確認できました!」
「なんと!どこだ!」
主人が立ち上がる。机上の食材は再び生きているかのように飛び跳ねた。主人は兵士に飛び跳ねるような足取りで近づいた。兵士は言いにくそうに俯き、唇を舐める。
「それが……ウネッザにいるようなのです。……こちらを」
兵士の手渡した報告書を受け取ると、主人は血相を変える。腕を振るわせ、紙をくしゃくしゃに潰して地面に投げ捨てた。
地面を転がった報告書を、男が拾い上げる。男はつぶれた饅頭のように丸まった紙を丁寧に解き、首を右に傾ける。
「陛下、これを好機と見ずして、王は務まりますまい」
「なに?」
男は報告書を持ったまま、主人の間に入り、手を後ろで組む。面長の顔は傾けず、跪く兵士に視線だけを送る。
「歪んだ床に座る肥えた羊もようやく役に立つというもの。どれ、貴方に一つ仕事を差し上げましょう」
男の瞳は寸分のぶれもなく兵士を見下ろす。彼が少し口角を持ち上げると、よく整えられた薄い髭が兵士の視線から隠れる。
兵士は雷が落ちた時のように瞬時に身を竦める。男は主人に報告書を返すと、木靴を鳴らして部屋を後にした。
取り残された主人は、手渡された紙を見る。
端正だった文字が水に浸されたように滲み、異なる文字に書き換えられている。主人は薄く伸ばし、よく滲んでいるインクで書かれたそれを精読すると、恐ろしいものでも見たようにひきつった笑みを浮かべる。
主人は紙をくしゃくしゃに直すと、それを玉座のような椅子に向けて放り、足を引きずるようにして部屋を後にした。




