商談2
カルロはアントニーへの報告の後、決算を行うエンリコの下に赴き、今日の報告を行った。
「そう……直近の危難は去ったんだね」
エンリコは自身の作業を続けながら答える。帳簿の類は殆ど綺麗に片付けられ、いよいよ決算も大詰めを迎えていた。
「君の言い方を聞いていて、僕から融資する必要があるかな、とも考えたんだけれど」
「そんなこと思っていたのか。俺もちょっと報告不足だったな、ごめん」
カルロはすっかり慣れ親しんだ椅子に腰かけ、リラックスした様子で答えた。エンリコはペンにインクをつけ、作業を続ける。
「いや、それ自体は間違っていない。取引に不利なことはなるべく隠すべきだ。アントニー氏の安否にも影響を及ぼしかねない」
「そんなものか……。でもさ、アントニーさんは生活費なんかも経費で出してるんだなって」
カルロ姿勢を崩す。エンリコも楽しそうに笑った。
「小さい商店ならそんなこともあるよ。うちが大きいだけだからね」
エンリコの部屋は、カーテンが閉められていた。その影響で、蝋燭の明かりは仄かだったがより強調されている。
整頓された机の上も、同様に強い光でオレンジ色に照らされている。エンリコは一息つくと、つけた帳簿を見つめ、暫くして安堵の息を漏らした。
「ふぅ……。取りあえず、終わり」
静かな部屋に書籍を閉じる音が響く。エンリコは伸びをすると、カルロの視線にふり返って恥ずかしそうに笑った。カルロは目を細める。
「お疲れ」
「ありがとう」
エンリコは椅子ごとカルロの方を向く。カルロのリラックスした様子を見ると、困ったように笑う。
「ちょっと、リラックスしすぎじゃない?」
「あ、悪い!つい、安心して」
カルロが姿勢を正すと、エンリコは楽しそうに肩を揺らす。一息つくと、エンリコは立ち上がり、書棚から数冊の本を取り出した。彼はそれを、不思議そうに様子を見るカルロの膝の上に置く。
「ちょっとは勉強しないとね。そのあたりはわかりやすいと思うから」
「ありがとう。でも、悪いな、たびたび邪魔しちゃって」
カルロは書籍の背表紙を確認する。帳簿に関する一つは、カルロが博士からもらったものと同じタイトルが付けられていたが、それ以外の経済書は、どれも読んだことのないものであった。エンリコは席に戻ると、クマのできた目を細めて笑う。
「フェデリコのお古だったりするんだけどね。僕はもう使わないから」
カルロは何かを言いかけて、口ごもる。エンリコは扉に視線を送り、首を横に振った。
「僕にはこの仕事が合っている。フェデリコにも何か、合うものが見つかるだろう」
オレンジ色の明かりに背中を照らされる。机上に置かれた閉じられた帳簿の皮の装丁も暖かな光に照らされていた。カルロは渡された書籍に目をやる。使い古されてついた手垢の汚れがこびりついており、何かを削った跡も見受けられた。
「匿名組合には、二通りある。出資者の実名を明かして行うものと、出資者の実名を隠して行うものだ。今回の取引は傍から見れば発起人に全く信用がない以上、匿名にすれば首を縦に振る人は多くないだろうね」
「でも、あのまま放っておくわけにもいかないよな」
カルロは顎に手を当てて思索する。エンリコは真剣な眼差しで返した。
「聖職者や貴族は、出資を募る際に匿名を好む。しかし、商人は必ずしもそうではない。公開してしまった方が後の事を考えると楽だろう。ウネッザでは公開してもあまり問題はないと思うけど、そのあたりは、アントニー氏と相談だね」
「そうか……そう、だな……ありがとう。ちょっと勉強してみる」
エンリコは満足げに頷く。カルロは立ち上がり、白い歯を見せて礼を述べる。手を振るエンリコの笑顔は、いつにもまして穏やかなものだった。
聖マッキオ教会の鐘が鳴ると、カルロは日課の体操をしながら、昨日の話題を造船所に持っていくべきか否かで悩んでいた。
外は曇りがちで、仕事は船を引き上げる作業から始まると予測される。その分作業は長くなるうえ、休憩時間に話して快諾する人がどれほどいるのか、具体的な内容をアントニー氏から聞くべきではないかなどといった問題を解決する手段も彼にはなかった。
(とりあえず保留だな……)
カルロは最後に体を伸ばし、朝食の支度がされているであろう展望台に向かった。
ガラス張りの窓から窺える空模様はカルロの予想以上に悪く、黒い雨雲が低く重なり合って漂っていた。
カルロはモイラやチコに挨拶を交わし、朝食の席に着く。献立は質素なもので、パンと野菜の炒め物、さらに目玉焼きだった。
「ココットとか、恋しいなぁ」
チコがポツリと呟く。カルロが無視して食べ進めようとすると、黒猫が彼の膝上に上ってきた。
「あ、ん?どうした?」
初めての出来事に困惑したカルロは、ナァ、と鳴く猫と目を合わせる。その様子を見ていたモイラが、パンをちぎりながら笑った。
「浮かない顔をしてたから、慰めてくれたんじゃありませんか?」
チコはニヤニヤしながら続ける。
「いやいや、賢いナーさんは、難しい顔した君を見て、膝に乗れば餌でもくれると思ったのさ。私はいつも知的な顔で餌をあげているからねぇ」
「ナーさんって……」
膝上に乗った猫は丸まって尻尾を振る。ズボン越しに猫のぬくもりが伝わる。ふさふさの毛はチコやモイラによく手入れされたもので、カルロはつい猫の背中を撫でた。
「まぁ、あんまり考えてもしょうがないことはあるからね?仕事は仕事、それはそれでまた考えればいいのさ」
「はぁ……」
カルロは生返事で答える。猫は撫で方が気に入らなかったのか、カルロの膝から飛び降りると、今度はモイラの膝の上に乗った。慈しむような笑みを浮かべたモイラは、静かに猫の背を摩る。
(まぁ、確かに専門家でもないしな……)
カルロは、喉を鳴らす猫の姿を眺めながら、膝上に残った余韻に顔を綻ばせた。




