表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
造船物語 アルセナーレにようこそ!  作者: 民間人。
第四章 ウネッザの商人たち
63/151

アントニーの得意先帳簿

 仕事が必ず休みとなる祈りの日、カルロは聖マッキオ教会での集会を行った後、入り組んだ迷路のような街路を通って、カペレッタ教区へと向かった。

 彼がやっとの思いで辿り着いたときには、既に昼を少し過ぎており、湿度と共に高まった温度によって、益々疲労感が増した。


 カルロは、アントニー・ベルモンテ氏の住所については、アルドゥス印字商店での確認によって既に把握していたものの、アントニーが「祈りの日」のついでに神父に相談でもしているのではないかと考えられるため、一旦カペレッタ教会に顔を覗かせることにした。


 カペレッタ教会に顔を覗かせると、祈りの日に殺到した人々が発した熱気と汗の臭いがなお残っていた。礼拝堂は閑散としているにもかかわらず、カルロは人混みの中を分け入ったような奇妙な感覚に襲われる。鼻をつまむほどではないが汗くさい臭いに眉を顰め、礼拝堂をくまなく確認するが、アントニーの姿は見られなかった。カルロが扉を閉めようとすると、雑巾と桶を携えたイネスが教壇の横から現れる。彼は教会の扉が開いているのを認めると、恭しく頭を下げて見せた。カルロもそれに答え、頭を下げて扉を閉ざそうとする。


「アントニー・ベルモンテ氏ならばご自宅におられると思うよ」


 カルロは思わず目を見開いて驚く。イネスは乾いた雑巾を片手に微笑む。ステンドグラスから射す様々な色の光の筋が、礼拝堂に色を塗す。扉の真正面に収められたカペラの像が、俯いて覗き込むように扉を見据えていた。

 汗の臭いと混ざり合った微かな香草のにおいが互いを主張しあい、礼拝堂全体に不愉快な緊張感が漂う。カルロは唾を飲み込み、恐る恐る頭を下げ、扉を閉めた。


(なんで、知っているんだ……?相談でも受けたのか?)


 カルロは暫く教会の大きな扉の前で立ち尽くした。鉄製で所々に錆びのある扉が、カルロを見下ろしている。カルロは気味が悪くなり、教会を離れた。教会は、巨大な蝙蝠の様に両手を広げ、大きな口を開けて聳えて立っていた。



 教会から離れたカルロは、時折背後を気にしながらアントニーの自宅へと向かう。

 道中の薄暗さに、借金取りの取り立てなどと鉢合わせる事も心配したカルロであったが、ひっそりと建つ集合住宅は、ぼろぼろとはいえ幾つかの事務所と数世帯分の部屋が間借りされている、閑静なものであった。周囲にある建物も概ね集合住宅であり、三つ程度の部屋の窓のうち必ず二つの窓からは光が漏れていない。入り口にある表札には、ずらりと世帯主の名前が並ぶ間に挟むように、商店や営業所などと言った文字が並んでいた。アントニーの住む集合住宅からは、海も川も臨むことが出来ず、石や彩色された煉瓦で建物が区分されていた。


 カルロが「カペレッタ教区 ベルモント地区集合住居」と名付けられた建物の表札を確認すると、アントニーの住む部屋は三階の角部屋であった。カルロは早速入り口の階段を上る。


 ところどころにひびの入った年季の入った建物の内部は薄暗く、急な階段と踊り場のような狭い廊下が交互に続く構造であり、窓もあまり多くはない。


 アントニーの部屋の前に立つと、窮屈な廊下の感覚と同様の重苦しい雰囲気が漂う。入口の表札も黒ずんでおり、板のような薄い扉からは、人の動く音が外に漏れている。


 カルロは暑さを確かめるように薄い板を優しくノックする。扉が開くと、以前よりも疲労した様子のアントニーが顔を出した。カルロの顔を確かめると、彼は扉を開けて中に案内する。カルロは周囲を気にしながら、家に入った。


「やぁ、カルロ君、だったね。お手紙有難う……。それにしても、私なんかに商売の用事なんて、一体何のつもりだい?」


 アントニーの髪は寝癖がつき、脂分で光っている。目の下にはくまができ、瞳には光がない。虚ろな目にはカルロの姿がしっかりと映っている。


 獣脂製の蝋燭のにおいが充満する薄暗い部屋には、取引簿が散乱している。得意先帳簿には皮の装丁に小さくばつがつけられている。


「やはり、資金繰りはうまくいきませんか……」


 アントニーは自分の髪を掴むと、自嘲気味に笑う。


「はは、どうしても。仕方ないね」


「俺、少し考えてみたんです。みんなでお金を出し合って、アントニーさんが船を出すことはできないかな、と」


 アントニーは目を丸くする。カルロの真剣な眼差しを受け、眉を顰める。


「コンメンダだよね……。でも、私が金を持ち逃げするかもしれない。あまり信用されていないと思うんだけれど……。それに、妙だな……。君とは以前あった程度で、話も大してしていないのだけれど……」


(そりゃ、仕方ないよな……)


 アントニーの訝しむ視線を受けて、カルロは小さく俯く。アントニーはきまりが悪そうに貧乏ゆすりをしつつ、カルロの返答を待った。


 暫くの沈黙のあと、カルロはアントニーの目を見つめ直す。アントニーの虚ろな瞳に対して、カルロのそれは力強く、澄んだ光を反射していた。


「わかります。怪しいですよね。……俺は、コッペンの出身で、時折やってくる船に憧れて、この地で、造船所で働いています」


「ぞ、造船所?」


 アントニーは再び目を丸くする。カルロは頷いて続ける。


「コッペンは畑作もイマイチで、特別な産業もありません。お恥ずかしい話ですが、そんな村だからこそ、コッペンにやってきた船を見て、助かった、と思いました。そして、今は船を作るものとして、船が誰かの足に、あるいは希望になってくれると信じています。だから、貴方が不幸にも船が難破してしまったという話をした時に、俺は、なんとかして助けたいと思いました。俺自身は船に救われたし、船を作る者としての責任でもあると思います」


 静かに獣脂のにおいが残る中に、光のさす場所はない。日中にもかかわらず暗い部屋の中に放り投げられた得意先は、そのどれにもばつがつけられたまま動かない。少年は真っ直ぐに、確かな確信を持った瞳でくすんだ目を見つめる。アントニーは瞳を震わせ、散らばった部屋の中から、手繰り寄せるようにいくつもの帳簿を引っ張り出した。その背表紙には、支払帳簿、売上帳簿、仕入帳簿、負債原簿、貸借対照表、残高試算表などと記されていた。アントニーはそれらを素早く開くと、カルロの前に差し出した。


「これが私の全てだ。私の得意先は借財についてどこも取り合ってくれなかったが、私もその線でもう一度お願いしてみる。もし、君が……私の助けになってくれるならば、きっと、必ず恩を返すよ。何年かけても」


「俺は俺の関係者に色々とお願いしてみます。頑張りましょう」


 カルロははっきりとした声で答える。アントニーは鼻をすすると、潤んだ瞳を細めて手を差し出した。カルロはそれを強く握り返す。アントニーの瞳には、こぼれそうな涙がたまり、その涙に反射して、光が戻っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ