エンリコ・ダンドロという男3
夜の帳が落ちると、ウネッザの賑わいも大人しくなる。巡礼者や海婚祭で賑わったウネッザの満潮は、そろそろ引きはじめたところであった。
古い煉瓦に彩色がなされた店が軒を連ねる中に、一際窓の多い建物がある。カルロはその建物にノックをすると、やや声を張って言った。
「こんばんは!カルロです!」
暫くすると、バタバタと階段を駆け下りる音が中で響く。扉の開けたのは、若い使用人だった。
「エンリコさんはおみえですか?」
「少々お待ちください」
使用人はそう言って扉を閉じると、バタバタと音を立てて登っていった。暫くすると、使用人は再び騒々しく音を立てて戻ってくる。今度は息を荒くしながら、「どうぞ」と言って扉を全開にした。
カルロが真っ直ぐにエンリコの部屋へ向かう。使用人は速足で後を追いかける。エンリコの部屋をノックする直前になると、カルロは扉のすぐ横で立ち止まった。使用人が急いで登ってくると、安堵の表情を浮かべてカルロに頭を下げる。彼は息を荒立てたままで扉をノックし、エンリコの返事を受けて扉を開いた。
前回と同様に暗く落ち着いた雰囲気の部屋に、オレンジの火を受けたエンリコが柔和に微笑む。机上の取引書類の類は一晩で捌くには些か多く、目の下にクマを作り、髪のツヤもいくらかくすんでいた。
「カルロ君、ようこそ」
「ちゃんと休めよ?……死にそうな顔してるぞ……」
カルロは用意された椅子に腰掛ける。前回よりも質のいい布が貼り付けられ、尻の冷えとも無縁な良品だった。
「この時期はいつもこうだよ。海婚祭の謝辞に本土から来た商人が物見遊山の帰りに行う取引や交渉、請求書、搬入商品の決算……帳簿を見るだけで嫌になるよ」
エンリコは自嘲気味に笑う。その間も手の動きは止まらず、契約書をちらちらと眺めながら帳簿に記録する。使い古されたインク壺は縁が真っ黒になっており、ペンを入れる度にチャプチャプと音を立てる。
「悪い、邪魔だったな……」
カルロはきまりが悪くなり、書棚に目をそらす。エンリコは後ろ姿のままで小さく微笑んだ。
「ううん、構わないよ。フェデリコがくるよりいくらか静かだ」
「フェデリコはあれからどうなってる?」
「カタリーナさんの観光案内に連れ回されてるよ。やっぱりお姫様には、この町も珍しいのかな」
「……見事に尻に敷かれてるんだな」
カルロは安堵と呆れが同時にこみ上げ、複雑な気持ちになった。エンリコは振り返り、屈託のない笑みを返す。
「なぁに、恋は雀躍。繋がり、離れ、また繋がる、海鳥の如しだよ。カタリーナさんに対する愚痴も聞くようになったけど、それ以上に一緒に食べた町の美味しいものから一緒に天体観測をして星の運行に関する知識を披露したなんていうことを、楽しそうに話してくれるからね」
エンリコの笑みを見て、カルロは少し安堵した。この人物は普段、貼り付けられたような笑みばかり零す、商売人に毒されたような男だっただけに、弟の話を楽しそうに語る姿を見られたことは、カルロにとっても心安らぐものだった。
エンリコは再び机に向き直ると、先程よりも低い声で続けた。
「それで、何の用だい?」
さらさらとペンを動かす音がする。一気にカルロの緊張感が増した。
「あの、さ……。今、俺、ある人の……」
流れるようにペンをなぞる手が止まる。
「アントニー・ベルモンテ氏だね?」
静かで、おぞましい声が響く。カルロは唾を飲み込み、乾いた唇を口の中に引っ込めた。さらさらという音が再び再開されると、先程とは違う面接のような緊張感が溢れる。
「お、俺!思ったんだけどさ!借金を返すために事業をするなら、やっぱり海に出るしかないと思うんだよ!それで、みんなでお金を集めて、アントニーさんと取り分を分け合えばいいんじゃないかな……って……」
「匿名組合か……」
「こ、こんめんだ……?」
カルロが聞き返す。エンリコは椅子を回し、カルロと向き合う。蝋燭の火を後ろに受け、逆光で仄暗くなった微笑は、狐のような狡猾さと妖艶さがあった。
古い本独特のカビ臭いにおいと、教壇と向かい合ったと錯覚するような作業机が、ほのかなオレンジで照らし出される。そして、エンリコは静かに息をかけ、蝋燭の灯りを消した。燃えかすのにおいが篭った部屋にたちこめる。エンリコは煙が完全に消えたのを確認する。
「場所を変えましょう。ここでは何かと不便です」
エンリコはそう言って立ち上がると、かけていた眼鏡を外して後ろで手を組む。カルロを通り過ぎて扉を開けると、「どうぞ」と微笑みを返した。その微笑は商談用の貼り付けたようなものだった。
ちょっと資料漁るので更新遅くなるかもしれません。悪しからず。




