憔悴した男3
定期船に乗って新たな巡礼者が現れると、聖マッキオ教会は再び騒々しくなった。観光客たちは停泊期間の暇に不満を漏らしつつも、異国情緒あふれる服装や、通り過ぎる艶やかな女たちに目を輝かせる。
カルロはその雰囲気に懐かしさを覚えながら、カペレッタ教区へと向かうゴンドラに揺られていた。
カペレッタ教会前の広場はマッキオ広場ほどの賑わいこそないが、教区の中心らしい荘厳さを保つ教会に見下ろされ、行き交う人々も忙しなく道を急ぐ。商売人特有の張り付けたような笑みを浮かべる人々に混ざって、「その人」はいた。
カルロが目を凝らすと、銀行の前で必死に頭を下げる姿が伺えた。冷ややかな視線でその人を見下ろす銀行員は、一言二言何かを言うと、中へと引っ込んでしまう。その人が扉に手を掛けようとしたとき、銀行員は乱暴に扉を開ける。尻餅をついたその人に対し、「営業妨害はやめていただきたい!」と叫ぶ声が、ゴンドラの上からも聞こえた。
閉ざされた扉にしがみつくその人は、警備員たちに取り押さえられ、顔を引っ張られる。道行く人々はその人と顔を合わせようともせずに通り過ぎていく。それでも懇願する声が遠くカルロの耳に届く。痛ましい憔悴しきった顔はやや頬がこけており、髪の毛もセットが乱れて山姥のそれのように荒れ放題になっていた。
カルロは上陸すると、急いで取り押さえられる男の下に駆け寄った。
「あー!あー!すいません、ご迷惑をおかけしました!」
警備員たちは訝しむ。しかし、誰よりも訝しんだのは取り押さえられている本人だった。カルロは息を切らせながら警備員に手の平を見せる。呼吸を整えると、彼はそのまま申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「いやぁ、申し訳ありません。その人、俺の知り合いなんです。ひとまずこれで勘弁してください」
カルロは警備員に蜜蝋の蝋燭入りのブリキの入れ物を手渡す。警備員は中身を確認すると顔を見合わせ、一旦男を離して中へ入っていく。カルロはその後姿を見送ると、男の前に屈み込んだ。
「大丈夫ですか?」
「えっと、ごめん、君は……?」
カルロは口元に指を立てる。
「今だけ話を合わせてください」
男は黙って立ち上がると、服の汚れを払った。カルロの顔をちらちらと見ながら、首を傾げている。
雑踏は次々に新たな人の波となっていく。地面に落ちたゴミもくたびれて風に吹かれており、方向転換したゴンドラが広場から遠ざかっていく。
暫くすると、先程の銀行員が眉を顰めながら現れた。男の顔を一瞥した彼は、そのまま冷めた視線をカルロに向ける。
「うちは銀行です、それなりの金にはなるかと存じますが、これだけ渡されても困ってしまいます」
カルロは胸元から財布を取り出すと、新品の銀貨一枚を取り出す。銀行員は小さくため息を吐くと、銀貨を受け取って立ち去った。
「次回の支払いが滞ったら、抵当を頂きますからね」
銀行員はそう言うと、扉を閉ざしてしまう。カルロの緊張が一気にほどけ、彼はそのまま大きなため息を吐いた。
「た、助かったぁ……」
「あの、君。えーと、とにかく有難う」
男はそう言うと頭を下げた。カルロは首を振る。風が建物の隙間から広場を通り過ぎると、がさがさとゴミが飛ぶ。男は消沈しながら、改めて大きなため息を吐いた。
「……いや、すまないね。私もすっかり「終わった人」と言うわけか……はは……」
「何があったんですか?」
ゴミが海の彼方へと飛んでいく。人混みの中では、今度は建材を運ぶ二人組のコボルトたちが汗を流していた。男はコボルトたちを見ると、項垂れて首を振った。
「船が難破してしまって、負債が支払えなくなってしまったんだよ。私はまるで駄目だね……。こんな事では妻にも見せる顔がないよ」
男はそう言うと人混みを眩しそうに眺める。カルロにはその隙間を吹き抜ける風が異様に冷たく感じられた。
「俺、カルロ・ジョアンって言います。コッペンの出身です」
男はキョトンとする。暫くカルロの顔を見ていたが、その顔は真っ直ぐに海の向こうを眺めるばかりだった。結局男はその場に屈み込んだ。
「私の名前はアントニー・ベルモンテ。ウネッザ出身、ウネッザ育ちの商人さ」
「アントニーさん、銀行と何かあったんですか?」
カルロはアントニーの隣に屈み込んで訊ねる。雑踏は目前にあり、銀行を行き来する人々も二人を見ると足早に通り過ぎていった。アントニーは彼を避けて通る人々を慈しむように見つめながら、ゆっくりとした口調で答えた。
「先ほど言った通り、船の難破のおかげで商売がダメになってね、借金で首が回らなくなったんだ」
「大変なことになりましたね。俺が力になれればいいんですが……」
アントニーは悔しさを押し殺して唇を噛み締め、静かに目を瞑る。町の人々は彼らに気を止めることもせず、前ばかりを見て通り過ぎる。
「有難う。……そうだね、また、改めて頭を下げに行くことにしようと思う」
アントニーが苦しそうに笑った。カルロは胸が締め付けられる思いがして、立ち上がるアントニーを見上げる。見送る背中の侘しさが雑踏に飲み込まれて消えていこうとする。その様は、海面に浮かぶ木くずの様に異様で、また、ありふれてもいた。




