アルドゥス印字商店
カペレッタ教区は海と運河の水が混ざる太い運河を挟んで、マッキオ教区に比較的近い所にある教区である。この教区は、西の超大国はカペル王国にある、花の都ペアリスの守護女神カペラの名を冠するカペレッタ教会を中心とする教区である。
カペラは花の女神であり、美の女神でもあるが、ウネッザでは特徴的な信仰として「美」と「健康」を結びつける信仰があり、船旅と付き合わざるを得ないウネッザにおいても、商売と旅人の神、聖マッキオと並ぶ人気がある。カンテラや伝令、獅子とともに描かれることの多い聖マッキオに対して、カペラは花冠を被り、一枚の布をぐるぐると巻きつけた、やや扇情的な姿で描かれることも多い。カペル王家が西方教会と分裂してすぐに、西方教会から主神ヨシュアの姉であるにも関わらず、その絵が余りにも蠱惑的であると蔑まれ、異端の芸術として焼かれてしまったという話がウネッザでも伝えられている。
「この辺りか……」
カルロは地図と住所を頼りに薄暗い街路を進む。左右の感覚がなくなるほどの入り組んだ街路を、分岐点の住所表記を頼りに進むと、カルロはついに同じ区画を見つけることができた。
上陸からここに至るまでに実に1時間を費やした彼は、決して暑くないが途轍もない湿度のウネッザの潮風にあてられ、うっすらと汗をかいていた。
教会の鐘も見えないほどの教区の奥地に、薄汚れた看板が掲げられている。店の佇まいは決して古いものではなく、アンバランスな印象を受けるが、黒いシミの数の割にははっきりと上塗りされた文字から、中古の板材を使用しているものと推察される。カルロは非常に見づらいその看板を注視する。
「アルドゥス印字商店……?まさか本気でお使い任されたってことか……?」
カルロは肩を落とした。彼はチコに対する不信感を確かめたが、このまま戻るわけにもいかずに、ベルのついた扉を開いた。
心地のいい高いベルの音に似合わない薄暗い部屋には、古代の巻物から最新の本まで、大小さまざまな書籍が並べられていた。
「いらっしゃい」
暗闇の中から声がすると、扉がひとりでに閉ざされる。カルロは驚いて振り向いた。ベルの悲鳴のような音が外で扉越しに響く。カルロは殆ど反射的にドアノブを回す。彼はびくりとも動かない扉に思わず息を呑んだ。
「そう驚かないでくれたまえ。私の客は物入りが多くてね、できるだけ扉はしっかり閉ざす主義なのだよ」
低く薄気味の悪い声にカルロは振り返る。深淵の中から現れたのは、鼻の高い壮年の男だった。金髪の髪はくたびれており、無理やり卵白のワックスで艶出しをされている。ウネッザ特有の丈の長いトーガは、渋い緑色で、華やかさが微塵も感じられない。手に持った蝋燭は顔のあたりだけを鮮明に切り取り、ほうれい線の目立つ顔を益々不気味に演出する。彼は客人に蝋燭の火を向けると、金歯を見せて笑った。
「学生さんかな?うちの本はどれも素晴らしいものだから、是非色々見て行き給え」
ドアのかぎがかかる音がする。カルロはびくつく。彼は暫く薄暗い書房を見渡した。カルロは覚えたてと言うには慣れすぎたウネッザの書体の書籍を探すが、殆どが見たこともない文字の羅列で埋め尽くされていた。
「……どうしたね?」
主人と思しき男は首を傾げる。眉を持ち上げると額にできる皺もまた、蝋燭に照らされて一層恐ろしいものになった。
カルロはチコから受け取った紙を取り出すと、何度かそれを読もうとし、諦めて主人に手渡した。主人は眉を持ち上げたまま紙を受け取る。蝋燭を受付台の上に置くと、彼は両手でそのメモを確認した。そして、彼は題名をいくつか唱えると、眉の位置はそのままで、頬を持ち上げて笑顔を作る。
「ほほぅ、チコ博士の所のお遣いかな?そうだ、ユウキ博士の件は残念だったが、私は旧友が戻ってきてくれて嬉しい気持ちもあってね。とても複雑な気持ちなのだよ。待っていたまえ。この前増刷したものがあったはずだ」
「え、増刷?」
カルロが聞き返すと、主人はニヒルな微笑を浮かべた。
「ここは印刷所だ。ムスコールブルクにもそんなことをしたものがいたようだが、うちのものはずっと進んでいてね。どれ、手に取っていただこうかな」
主人は受付の後ろにある書棚からカルロの解読できる書籍を選んで取り出す。カルロはそれを手に取り、思わず声を上げた。
「ちっさ!」
カルロは手に持った書籍の小ささに驚く。それはカルロの手より一回り大きい程度の大きさであり、通常の書籍、とりわけユウキの部屋にあったような書籍ではおよそ考えられないような代物だった。カルロは驚きの余り、持つ手を軽く持ち上げたり、何度か表紙を見直した。その反応が新鮮だったのか、主人はしたり顔を見せた。
「中も見たまえ。君ならばまた驚くことだろう」
カルロは言われるがまま表紙を捲る。彼は見開いた頁を指でなぞると、何枚かを捲り、新鮮な歓声を上げた。
「この頁が頁数と対応しているんですね!」
「そう、そう。探しやすさと言うものは結構大事でね、ムスコールブルクのそれは進んでいるとはいえこれほど小型ではないし、該当部分を探すのもなかなか難儀なものと聞く。そこで私は考えたのだよ、紙をもっと持ちやすく折り、『目次』をつければいいのでは?とね。売れたよぉ?それはもう、聖典が飛ぶ様にガッポガッポ。」
主人は自慢げに話していると、カルロの用事を思い出して店舗の奥に声をかける。現れた賢そうな小僧に紙を手渡すと、手を一回叩く。小僧は再び奥へと消えて行った。カルロは目次の対応頁を追いかけることに夢中になり、該当頁を見つけるたびに歓声を上げた。
「いいだろう?チコ君におねだりして買ってもらうと良いよ。我ながら素晴らしい発明だと思って……コホン。失礼。自己紹介がまだだったね。私はここ、アルドゥス印字商店の主人、アルドゥス・マーシャスだ。宜しく、お若い造船工。」
カルロも名乗ろうとして口をパクパクさせる。アルドゥスは不愉快なくぐもった笑い声をあげ、わざとらしく肩を持ち上げて見せた。
(もしかして、この人なら知っているかも?)
カルロは殆ど直感的に彼の事情通を感じ取り、受付から身を乗り出した。
「あの、最近事業に失敗した船主の名前とか、ご存知ですか?」
アルドゥスは口角を上げ、カルロに人差し指で近づく様にジェスチャーをする。カルロはそれに従って耳を近づけると、アルドゥスは口元を隠しながら耳打ちをした。
「書籍代込みでドージェ金貨四枚ね……」
(お釣りね―じゃねぇかあの野郎!!?)
カルロは心の中で思い切り怒号を上げ、名残惜しい気持ちを抑えて金貨四枚をアルドゥスの左手に置いた。アルドゥスは左手の中身を確かめて満足げに頷くと、カルロに視線を向けながら、二つ手を叩いた。
先程の小僧とは違う、生意気そうな目つきの悪い小僧が顔を出す。アルドゥスは彼に耳打ちをすると、怪しげな笑みを浮かべた。
「借金取りだったとは驚きだ。くくくっ……今後ともどうぞよろしく」
カルロは、自分の背筋が凍り付くのを感じた。




