海婚祭
「いってぇ……」
カルロは頭を押さえながらアルセナーレを出る。船着場には人だかりができ、黄金の船の船出を今か今かと待つ人たちで溢れかえっている。
黄金の船は錨を下ろされ、静かに波打ち際に漂っている。南にある太陽を受けた黄金は、縁をなぞる光の筋となって人々の目を刺激する。太陽に向かって取り付けられた先頭の装飾は、黄金の輝きと共に官能的な美を醸し出している。朱塗りのマストは高く青空へと伸び、その先には聖典に足を掛ける獅子の旗がはためく。風になびくそれはバタバタと騒々しい音を立てながら、時折顔と尾を重ねている。そして、重り代わりになる黄金の船室は眩く輝き、船首に集う色とりどりのトーガへ向けられた照明の代わりとして機能していた。
カルロは人混みの中を無理やり通り、出航の為に係船柱から縄を外すと、異様に反り上がった黄金の船は少しだけ前方に揺れる。船にはウネッザの重鎮たちが乗船している。いよいよ出航の運びとなるそれを見た人々は、「おぉ」と計らったように同時に歓声を上げる。ドージェは各々の乗船者たちに頭を下げ、この度の騒動の話などもしているらしかった。それぞれの参加者は話を聞くたびにフェデリコに対する皮肉と共に、ドージェへの慰労を述べる。カルロには、本心のものと野心を抱くものとは外観上区別が出来なかった。
いよいよ太陽が真上に上ると、船長が船員たちにひっそりと指示を出し、船員の一人がドージェに耳打ちをする。彼は頷くと、高く反り上がった船首に立つ。ドージェは、静まり返った船着き場の人々一切に響くほど大きくよく響く厳かな声で、喉を震わせた。
「偉大なる旅人聖マッキオと海上の精霊たちよ、汝らを讃える我らを守り給え。我らはこれより不断の努力を以て、艱難辛苦の航海へと向かおう。我らは汝らへの畏敬を以て点描の大地に棟を連ねよう!」
錨がゆっくりと持ち上げられる。持ち上げられたフック状の錨は大量の飛沫を海へと落としながら、黄金の船の中へと入れられる。
黄金の船は、空からの光を一身に受けて輝きながら、ゆっくりと動き始めた。
会場へ向けて帽子を振る人々の歓声が埠頭にこだまする。堂々と反り上がった先頭に立つ人々は一同帽子を取り、静かに空を仰ぐ。カルロは、思わずため息を吐いた。黄金が輝きながら、白の光の中へと向かって行く。遠ざかるたびに小さくなり、しかし、存在感はそのままで輝く水面を、打ち付ける穏やかな波を払いのけて進む。まるで世界に光をもたらすように、空の太陽を切り取ったように、静かに小さくなっていった。
「なんだよこれ……前見たときよりすごい……」
「毎年やってても、あれだけは眩しくて正視できねぇんだよなぁ……」
フェデナンドが腕を組みながらカルロの隣で呟く。カルロは静かに頷くと、遠ざかっていく輝きを目を細めながら見届ける。
「俺、こんな光景、初めて見ました。まるで、太陽が海に浮かんでいるようで……。なんていえばいいんだろう、あぁ、凄い!とにかく、凄い!」
フェデナンドは自分で拳骨を振り下ろした頭を見下ろす。彼は小さく鼻から息を吐くと、再び消えて行く船へと視線を移した。
「……そうだな。俺達は、あの輝きが続くように、船を組み立てているんだ」
「はい!」
海上の太陽はゆっくりと右折する。島々を巡る小さなゴンドラの船頭たちと、巡礼者が大きく手を振る。白い大理石と彩色の棟をなぞるように、黄金の船は島に近づいては遠ざかる。教区の人々は屋台を回る足を止めて、頭上で帽子を振る。色とりどりとの帽子に見送られ、黄金の船は海上を進んでいった。
「おぉ、来た来た!」
島を一周した黄金の船は、大運河に停泊する。聖マッキオ広場には市井の人々が続々と集い、カルロもその中に混ざっていた。聖マッキオ広場は、海上に向けて黄金の指輪を投げる、海婚祭のクライマックスの舞台が、もっともよく見える場所だった。眩い光はそのままに、黄金の船は日没の茜色を受けている。
チコとモイラは教会の入り口からその船を見る。そして、カルロの隣では普段の村娘の衣装を着たグレモリーが目を輝かせていた。
船上では、まさに黄金の指輪がドージェに渡されていた。宝石箱から、赤いシルク製の布を纏った羊毛入りのクッションに厳重に納められた黄金の指輪が取り出される。ドージェはそれを受け取ると、夕陽に向けて高く掲げる。指輪は、黄金の船の上でも一際オレンジ色に輝く。
「海よ、私達は、君と永遠をに結ばれることを誓おう!」
ドージェは掲げた指輪を手放した。高く反り上がった船から落とされるそれは、他のどの船よりも高くから、夕陽の輝きを受けて落ちていく。やがてそれは、小さな音を立てて、大運河の出口、海の入口へと沈んでいく。波打つ隙間に飲み込まれたそれを、人々は歓声で見送る。黄色い声となったそれを受けたドージェは、静かに空を見上げて微笑む。カルロは、その姿を呆然と眺めていた。
「グレモリー、君も大変だったね」
チコはにやつきながらグレモリーに視線を送る。グレモリーは微笑んで返した。
「恋人達の夢をかなえることが、私の願いですから」
「そうは言っても、使ったんだろう?君の失恋を代償に、人々の愛情を掘り起こす例の魔法」
グレモリーは胸に手を当て、輝く船の行く先を見つめる。海婚祭の賑わいが、彼らの会話がカルロの耳に届くのを阻んだ。
「いいんです、恋も愛も、命を持つ者にこそ、相応しいものだから」
「そうかい、もっと楽しんでもいいと思うけどねぇ」
チコは、再びゆっくりと海へ進む黄金の船を見ながら、呆れたように返す。グレモリーは、努めて笑顔を保ったまま返した。
「悪魔は嫌われ者でいいんですよ。官僚は、怒られるのも仕事ですから」
「君も難儀な性格だねぇ」
チコは楽しそうに笑う。カルロは黄金の船を見送ると、周囲を見回し、呟いた。
「そいうえば、フェデリコはどこなんだ?折角いいシチュエーションなのに」
「もっといい場所が、あるんだよねぇ~」
チコはニヤつきながら元首官邸の裏に視線を送る。カルロはチコの視線を追いかけ、首を傾げた。
海婚祭の賑わいがひときわ目立つマッキオ広場の裏は、閑散としていた。この運河からは黄金の船は船首を覗かせる程度で、ゴンドラに揺られた男女は身を乗り出してそれを見ていた。
「こんなところで本当によかったの?広場の方がよく見えたと思うけど……」
フェデリコがカタリーナに訊ねる。二人は、マッキオ広場の裏に当たる場所でゴンドラの上に乗り、大運河の出口を眺めていた。
「ここが、いいんです」
カタリーナは海に落ちた指輪を見届ける。ゴンドラの船頭は、カタリーナの意図を察して、ゆっくりとゴンドラを動かした。フェデリコは船頭を見る。ゴンドラは、少し急ぎがちで運河の奥へと進んでいく。揺れるゴンドラの中でバランスを崩さないように、フェデリコはカタリーナの肩を支える。カタリーナは楽しそうに首を左右に振りながら、進行方向を見た。やがて運河に沈んだ夕陽が鮮明に映るようになると、ゴンドラは大きな橋の真下で静止した。
「フェデリコさん、立ってください。夕陽を見たいの」
「え、は、はい……」
フェデリコは困惑しながら立ち上がる。カタリーナは彼の頬を両手で優しく持ち上げる。フェデリコは真っ赤になりながら、目を丸くしている。
夕陽はゆっくりと沈みゆく。茜色の空が水平線を照らし、それが運河へと伸びている。狭く息苦しい真っ白な外壁と、白い橋の天蓋によって、二人の乗るゴンドラは薄暗い。カタリーナは、微笑する。
「昨日は、怖かったですか?」
「え、怖かった、ですけど……。でも、カタリーナさんを売る方が、やっぱり、怖かった、かな……」
「ふふふっ、そうですか」
カタリーナはゆっくりと目を閉じる。彼女の唇がフェデリコにゆっくりと近づく。そして、水平線に夕日が沈みかけるころ、二人の唇が重なった。
フェデリコは、目を見開き硬直する。目を閉じた彼女の息遣いが彼の鼻をくすぐる。彼女の暖かい唇の温度が、夕焼けに染まる水面の暖かさと共に伝わる。まるで空間を切り取ったような沈黙が流れゆく。彼女が唇を離す。顔を真っ赤にしたまま硬直したフェデリコに対し、カタリーナは綺麗な青い瞳を向けた。
「有難うございました。弱虫だけど、素敵な人。また、一緒に、隣でお話してもよろしいですか?」
フェデリコは顔を真っ赤にしたまま、「ふぉぉぉぉぉぉ……」と奇妙な息を吐く。そして、興奮したままで、瞳を輝かせた。
「よ、よ、よ、よとぢくおねがいしあす!」
カタリーナは笑った。フェデリコは自分の首筋を構いながら、真っ赤になった顔を水面に向ける。
夕刻の輝きが反射する水面に、二人とゴンドラが映っていた。
ダンドロ一族の親子喧嘩、これでおしまいです。
カルロは結局殴られました。




