悔いのない選択を2
礼拝堂では数十人の兵士が槍を携えて神父を取り囲んでいた。祈りのカンテラを持つ聖マッキオ像は教壇から神父たちを照らす。ステンドグラスは宵闇を受けて深い色だけを保っている。
「私は貴殿に何かをするつもりはない。カタリーナ・ド・メディス嬢を明け渡して頂ければ、むしろ報酬さえ考えている」
ピアッツァ・ダンドロは兵士の中心に立ち、冷酷な低い声で神父に伝える。神父は聖典を胸元で持ちながら、攻めるような口調で返した。
「神の御前でその不浄な物の話をしないでいただきたい。私はその女性が誰なのかを知らないし、誰かが明け渡したとするならそれは別に結構なことだとおもう」
「ではフェデリコを出したまえ!君はドージェの息子の顔を知らないとは言わないだろう!」
ピアッツァは恐ろしい剣幕で彼を睨む。神父の喉が鳴ると、ピアッツァは彼の肩に手をかける。外が一瞬光ると、数秒後に轟音が響いた。一瞬の光が映したピアッツァの顔は、逆光によって更に彫りの深いものとなっている。
「ドージェ。貴方は天命を受けた支配者ではありません」
礼拝堂の奥から声が響く。兵士達が槍の矛先をマッキオ像の方に向けた。神父が思わず振り返る。革のブーツの靴音が教壇の前で止まる。再び閃光によってステンドグラスが捉えた光の中に、ローブの少女が浮かび上がった。
「死に損ないの悪魔か……。君の主人はとうに死んでいるのだろう。いつまで、このウネッザにとどまるつもりか」
ピアッツァはどすの利いた声で睨む。祈りのカンテラの炎が浮かび上がると、グレモリーの顔が暗がりの中に現れる。
「貴方は人の支配者。人の良心と悪意をため息橋の上で振り分けて、正しい行いを正しく、間違った行いを間違いとして行動しなければなりません」
ピアッツァが鼻で笑う。兵士は槍を構えて教壇の前に集まる。
「カタリーナ嬢が如何なる目的で侵入したかは分からない。しかし、彼女が無断でここにきたことは、やはり追及の必要があるだろう。それこそが、我々ウネッザの最善の選択だと考える」
「そうですか……。貴方は人の支配者ではなく、国の支配者なのですね」
グレモリーは静かに祈りのカンテラを眺める。兵士達が彼女を取り囲むと、ピアッツァは表情一つ変えず答えた。
「一人の人間には選択できないものがある。大きな流れの中では仕方のないことだよ」
「貴方だって、許されざる恋をした事があるでしょう」
教会を雷鳴が眩く照らす。ほくそ笑むピアッツァの表情が教壇の前に浮かび上がる。彼は肘をつき、あくまで諭すように返した。
「君には関係のない事だ。若い私はもういないのだ」
ピアッツァはそう言うと、右手を振り上げる。振り上げられて右手に従い、兵士達はグレモリーの喉元に槍を突きつける。グレモリーは、少し首を持ち上げ、苦しそうに眉を顰めた。
「……貴方は、貴方のままです。若い貴方は、まだずっといるんですよ!」
グレモリーが叫ぶと、ピアッツァは右手を挙げたまま哄笑する。兵士達の手が震え、槍がグレモリーの喉元に近づいては遠ざかる。ピアッツァはひとしきり笑うと、目じりの涙を拭う。轟音が近くで響く。
「これは傑作だ!悪魔が、教壇で!説教をするなどと!君の事は概ね把握しているつもりだったが、悪魔とは、邪悪な存在であると相場が決まっている。君は無知ゆえに、君自身の役回りを理解していないのだね?そう、君は悪役なのだという事を!」
「貴方のような人には、モイラ夫人は傾かないのも必然と言うものです!」
ピアッツァは目をひん剥き、グレモリーに突き付けられた槍の隙間から顔を出す。両腕で乱暴に叩かれた教壇は鈍い音を立てる。神父が耳を塞ぐほど、教壇の備品が激しく揺らぐ。
「……恋慕の悪魔よ。私が彼女に向けた一方的な愛情は、国を傾けるものではない。夫人と私の恋は既に終わった。確かに横槍を入れた私がこんなことを言うのは不躾なのかもしれない。しかし、今回は事情が事情だ。君は、恋の為に傾国を許すのか?あの女が何をするか分からない以上は、君の例えは的を射ていない」
「愛に傾国の事情など関係あるものですか!このウネッザは、人の国。欲望も、祈りも含めて、人の国なのです!人の愛を貴方に引き裂く権利はありません!」
兵士が槍を下ろす。ピアッツァは、益々グレモリーににじり寄る。メンチを切るようにゆっくりと首を動かしながら、見開いた瞳が怒りに震えている。兵士達は槍を突き立て、左手を胸元に当てた。
「……これは?」
異変に気付いたピアッツァは、兵士達を見回す。彼らは恍惚としながら天井を仰ぐ。彼らはそのまま、まるで礼拝でもしたかのように、穏やかな表情を見せた。グレモリーは静かに俯く。伏し目がちな瞳は潤んでいる。
「貴方達に必要だったものが……私には、分かってしまいました」
教会は異様な雰囲気に包まれた。兵士達は各々嫁自慢を始め、各々がそれを褒め称えあう。グレモリーは先ほどの兵士達と同様に、胸元に手を当てる。彼女は、唇を噛みしめて涙を堪えた。
フェデリコの嗚咽が響く。未だに法陣の中心には小ぶりになった炎が立ち上っている。
「カルロ……駄目だぁ……僕、駄目だ……」
フェデリコは絞り出すように続ける。カタリーナはワインセラーを押し出そうとしているが、ワインセラーは微動だにしない。カルロは俯き、炎の中を見つめていた。フェデリコは同じ言葉を呪文のように繰り返す。ぶるぶると震える手が、頭を抱えている。暫くすると、カルロは顔を上げ、小さく舌打ちをした。
「おい、フェデリコ。俺の顔を見ろ」
フェデリコがゆっくりと顔を上げる。カルロはその顔を思いきり殴りつけた。フェデリコは反動で壁に叩きつけられる。突然のことに驚いたフェデリコは、赤くなった右の頬をゆっくりと手で押さえ、カルロを見る。カルロは左の拳を握りしめたまま、右手でフェデリコの胸倉をつかむ。
「博士、博士、博士!博士がいなくなったら兄に頭を下げさせて?俺に縋りついて!今度は大事な人に助けられるまでうじうじうじうじ!何やってんだよ、お前は!」
「お、お前は、父上の事も知らない癖に、そんなこと言うのか!あの人は、ウネッザの頂点だぞ!怖くないわけ……」
フェデリコは訴えるように叫んだ。未だに唇を震わせて、首をゆっくりと横に振っている。
「親父が怖くないわけないだろ!」
カルロの怒号にフェデリコは固まる。カルロが掴んだ胸倉を離すと、フェデリコは尻餅をついた。カルロは屈み込み、険しい表情のままフェデリコを見る。赤い灯りに焼けた肌が、残りの半分を一層暗くする。
「お前の親父はな、お前よりずっと長く生きてるんだぞ!修羅場も乗り越えて、あそこに立ってるんだぞ!そんな親父が、お前より弱いわけがないだろうが!俺だって、親父に頭下げてここまで来たんだぞ。俺だって、後戻りできないって覚悟決めて、ここまで来てんだぞ!お前は、ついさっき、覚悟決めたんじゃないのか!?そんな簡単に折れる覚悟なら、さっさと捨てて、ずっと部屋の隅でうじうじしてやがれ!」
フェデリコは息を荒くする。カルロは怒りの表情を隠そうともしない。フェデリコは潤んだ瞳に反骨の色を込めて、カルロの胸ぐらをつかむ。
「できねぇもんはできねぇだろうが!」
「出来ねぇって言ってる限り出来ねぇんだよ!」
二人は睨みあう。彼らの声は大空洞に反響し、三度こだました。
「できねぇ、じゃないんだよ。追い詰められた今の状況でお前がしなきゃいけないのは、俺を切り殺すか、親父に殴り込みに行くか、どっちかしかないんだよ。カタリーナさんへの思いは本物なんだろう?本物ぶつけて親父黙らせるしかないだろうが!」
暫くの沈黙。息切れを起こした二人の荒い息遣いが、小さくなった炎を揺らす。カタリーナは不安そうに二人を見つめていた。
「お前の本物の思い、ぶつけてこい。その覚悟見せたら、俺だって、お前の兄だって、助けてくれるんだよ……。わかってんだろ、ほんとは……」
ワインセラーがひとりでに揺れる。ゆっくりと、その戸が開かれると、地下室に差し込む礼拝堂の明かりがほんの微かに地面を照らした。フェデリコは身を震わせながら、ゆっくりと立ち上がる。彼はカルロを恨めしそうに睨み付ける。
「どうなっても、知らないからな」
「どうにでもして来い。最後まで責任もって付き合ってやる」
フェデリコは後ずさりしながら、光の方へ向かう。彼は踵を返すと、地下室への階段を駆け上った。




