エンリコ・ダンドロと言う男2
運命という言葉があるならば、それはピアッツァ・ダンドロと僕の間にあるのだろう。そして、運命の悪戯という言葉があるならば、それはフェデリコ・ダンドロとカタリーナ・ド・メディスの間にある。
金襴のトーガの恐ろしさは、権威によりも、そのカリスマ的な指導力にある。僕にその力を抑える術はなかった。しかし、仮にあるとするならば、それは、彼を塞き止めるダムを作ることだ。弟が打開策を打つまで、この男の指示が完全に浸透しないように、僕はこの男を封じ込めなければいけない。それは、博士の死から止まっていた弟の時間を動かすための、そして、未熟から踏み出す事のできない彼が大人になるための大事な一歩を、この強力な羅刹の腕で握り潰されないために、僕にできる唯一の事である。
「父上、帳簿の確認をお願いします」
「エンリコか。……後にしてくれないか?今は、少々、忙しくてな」
父は僕を素通りしようとする。朝食の支度を済ませた使用人がエプロンで手を拭う様を認めた彼は、彼女に指示を出そうと口を開いた。僕は去り際の父の声を遮るために、わざと声を張る。
「父上、報告は迅速にしなければなりません。何か間違いあった後では遅いでしょう?」
僕はいつもの柔和な笑みのままで言った。父は渋々僕の渡した帳簿を受け取ると、いつもよりも急ぎがちに確認する。ページをめくる音が荒く響く。紙の擦れる音ほど、人の焦燥をよく示す音はない。父は、やや強めに帳簿を閉じると「まぁ、大丈夫だろう」と呟いた。僕はそれを受け取ると、ごく自然に、再度パラパラと確認する。父が立ち上がったのと同時に、僕は「あれ?」と呟いた。
「今度は何だ?」
父が溜息を吐いて振り返る。焦燥の為に怒りの表情が隠しきれていない。僕は帳簿の一部を確かめながら、やや申し訳なさそうな様子を装って父に帳簿を手渡す。父はそれを確認する。末尾の頁は盛り上がった紙が小さな丘を作り、少しだけページの谷が見づらくなる。その谷の部分に、僕はわざと小さなミスを仕掛けていた。取引相手との金貨のやり取りに、一枚分少なくなるように記載したのだ。父はそれを確かめると、露骨に不快感を露わにして、他の頁を確認する。今度は入念に、綿密に。
指が紙をなぞる音がする。僕は、父がする商売人特有の神経質な眉の動きを確かめる。仕事の表情である。擦れる紙の音は先程以上に丁寧になり、険しい表情の前に待機する使用人もすまし顔のままで待機する。緊張感のある食卓に、朝日と同様に溢れる紙の音、いつも通りの光景だったが、今回のそれは少しだけ毛色の違うものだった。
入念なチェックを終えた父は、小さくため息を吐いて帳簿を返す。僕に対してはあまり見せない、険しい表情をしていた。
「……間違いはそこだけだ。気を付けなさい」
「はい、申し訳ありませんでした。……ところで、フェデリコはどこへ行ったのでしょう?」
僕は帳簿を受け取りながらさり気なく訊ねる。勿論、僕はどこにいるのか見当をつけているのだが、父にこの言葉をさり気なく伝えることは、「僕はフェデリコの居場所を知らない」という意識を父に植え付けることに役立つ。「知らない」と嘘をついているわけではないため、僕には何一つ非がない。商売人特有の打算を、いつもの商談以上に脳内に張り巡らせる。父は、こめかみをつまみ、大きなため息を吐いた。
「私も探している。あいつ、まさか駆け落ちでもしようとしているのではないか?」
「恋と言うやつですか……。応援してあげたい気もしますが……」
僕は率直な意思を述べる。フェデリコは、あまりにも他者に対して我儘になりすぎている。しかし、それは甘やかしすぎた僕や、放置し続けた父にも責任がある。恋愛と言うものは駆け引きであると同時に思いやりの塊、意図の読みあいであるため、彼の恋慕は彼の為に、むしろ歓迎するべきものだと思う。それが、ジロードのスパイかもしれない娘であることを除いては。
「いや、恋愛は一向にかまわない。今回の恋愛は非常に危険なものになるかもしれないのだ。エンリコ、もし、フェデリコの居場所に心当たりがあるのであれば、教えてくれ」
さすがは父、釘を刺す。僕に対して回答を要求していることは容易に理解できた。しかし、僕もいつまでも子供と言うわけではない。駆け引きで父に勝るとは思わないが、引き伸ばすための努力は怠らない。僕は穏やかに微笑んで返した。
「うーん、挨拶回りはフェデリコに一任していますし、教会で祈りを捧げるような性格でもありませんからね。博士もいないし……」
僕は首を傾げて見せる。嘘は一つも言っていない。言っているのは事実の羅列だけであり、父にとって未知の部分を秘匿していないだけである。父は、これ以上の詮索は不可能と断じたのか、溜息を吐いた。
「あぁ、そうだな。帰ってきたら外出できないように拘束しておいてくれ」
父は立ち上がると、僕に指示を出した。僕は黙って頷く。その間にも、言葉の隙間に目を凝らした。脳が回転する心地よさと、父をせき止め、信用を盾に知恵比べに勝利した喜びに浸った僕は、食卓から窓を覗く。父が使用人を呼ぶ声に耳を傾けながら、マッキオ教会に目を向けた。
(フェデリコは帰ってきませんよ。貴方が彼女を認めるまではね)
僕は席を立つ。マッキオ教会に留まることが危険なことは、カルロが理解しているはずだ。問題は船の調達方法であり、父の通達が行き届く前に彼らが行動をしているかどうかをか確認するために、鞄に手をかけた。
マッキオ教会の展望台へ向かうと、既に一同は移動した後だった。チコ博士とモイラ夫人が呑気に白湯を啜りながら、満足げに息を吐いていた。僕は胸に手を当てて挨拶をする。彼女たちは微笑んで返した。
「弟が御迷惑をおかけしていませんか?」
僕がそう訊ねると、彼女たちは顔を見合わせる。チコ博士は面白そうにくつくつと笑った。
「いやぁ、ちょっと、何言っているかわかんないなぁ!」
「そうですか、ありがとうございました」
僕はチコ博士に近づき、跪く。「紳士的に」彼女の右手を握り、口づけをする。博士は手の中の異物感に不敵な笑みを返した。僕はそれを済ませると、二人の邪魔をしないために、退散する。
「いやぁ、あれはいい男だよ、モイラちゃん」
チコ博士が手中のものを確認しながら呟く。僕は足を止めることなく、自宅への道を急いだ。




