星を見る老博士2
風の音が響き、ガタガタと窓が揺れる。高所特有の強風に目を覚ましたカルロは、藁の敷かれた質素なベッドから身を起こし、大きく伸びをする。ベッドの外には何もない、狭い部屋の中であっても、大理石の輝きは健在のままである。ブリキの水差しから水を飲み、朝の運動で体をほぐすと、意識が鮮明になる。一通り日課の運動を終えたカルロは、そのまま件の塔の上に顔を見せることにした。
「おはようございまーす……」
朝のガラス張りは又絶景であった。陽光が痛い程によく当たり、町の風景が一望できる。
カルロはガラスに張り付いて、輝き波打つ水面を見下ろした。海面は穏やかで、絶好の航海日和だけあって、ガレー船の勇姿も一層際立つ。時折飛び立つ海鳥すら見下ろすことができ、海の青には良いアクセントになる。
すこし視線を戻せば町の景色が映る。中央を通過する巨大な運河、血管の様な細やかな、大小さまざまな運河の流れは静かに流れ、朝だというのに水流に乗って動くゴンドラのとても多いことに驚かされる。白を基調とした建物が立ち並ぶ街並みは上から見ると格別である。平らな屋根の上に二、三匹屋根にとまる海鳥が一体化して邪魔にならない。大きな運河に玄関を構える豪邸群には中庭があり、空から見下ろすと狭い土地の中にも緑が点在する町であることが分かる。
(遂に、来たんだ……!)
カルロは大きく息を吸い込む。来たばかりの時には興奮のあまり気が付かなかった賑わいと、美しい町並み。ここが海と商人の都、彼が夢にまで見た絶海の潟、ウネッザだった。
海の都ウネッザは、異教徒と西方世界を繋ぐ、海商国家である。南方、東方の海からは香味料、金塊、絹織、明礬、そして染料が、西方世界からは羊毛、織物、銀塊、日用雑貨から捕らえた奴隷まで、様々な商品が行きかう小さな潟に作られた町である。主宰神は聖神マッキオ、海へ繰り出す彼らが祈るのにふさわしい旅と商いの神である。特徴的な長いトーガの人々は長身で、階級毎に衣装の色が違うらしい。東方の聖地への窓口でもあり、巡礼者たちは必ず立ち寄ることになっている。「海と結婚した都市」とも呼ばれ、元首が海に指輪を投げる祭りで有名だ。
「楽しんでくれて何よりだ」
カルロが我に返って振り返ると、下の階から昨日の老人が手動の昇降機に乗ってやってくる。彼は木製の車輪がついた車椅子に乗り、長いトーガをふわりと揺らしながらカルロの隣まで進む。
「はい、凄い街です!ほんっと、感動してます!」
「僕もこの町には驚かされてばかりだったよ」
「お爺さんもですか?」
「あぁ。僕はムスコールブルクから来た学者でね……悠木拓真と言うんだが、ここで天体の研究をしているのだよ」
「ユウキタクマ……?ムスコールブルク……?」
カルロが首を傾げる。ユウキ博士はからからと笑い、カルロの隣から町の様子を見下ろした。海鳥がガラスの前を飛び去ると、ふわりと羽が舞い降りていく。
「海に出る人々は命を賭けるが、彼らの為には苦労を厭わない内地の人々は、彼らの寄港を大いに歓迎する。土地がないために上下関係がほとんどないと言っていい程、貴族と民衆の間には仕切りがない。あるのは精々政治を世襲で行うか否か、それくらいだろうね。そして、異端と言われても文句を言えないこの僕が、あろうことか教会の一角で星の観測を行う。そんな街がほかにどこにあるだろう?」
博士は嬉しそうに目を細める。横顔には故郷の話をするような無邪気な笑みを浮かべている。カルロは黙って外の景色を見下ろす。階下で朝食の支度をする音がする。
「そろそろ信頼してくれたかな?」
「……言わなきゃダメですか?」
カルロは沈んだ声で訊ねる。博士は先ほどとは違った鋭い視線をカルロへ向ける。
「勿論」
朝食の支度を終えた老婆が手を拭いながら様子を見に来た。博士は黙って彼女の登場を制止した。彼女は階下に引っ込んだ。カルロは手汗を何度か拭い、唾を飲んだ。
「流れてきた黒い船を使って、近海で海賊をしていました。ウネッザの領になるまでは、そうでもしなければやっていけなかったんです」
山岳地帯に囲まれ、主道からも若干外れたコッペンの町は、ただ海に面している山越えの行路であるという以外には、特別重要な拠点ではなかった。痩せた土地であるために農作物もあまり育たず、単なる通行路でしかなかった。その上、通行するにしても険しい山を越えてまで立ち寄るところではない。教会や皇帝、国王らにとっては、そこは単なる海に接したウネッザへの道のほんの一部でしかなかった。博士は小さく息を吐き、先程と比べるとやや目を見開いてカルロの言葉を促す。背筋を抜ける嫌な汗を感じながら、カルロは唇を噛んだ。
「時々大きな帆船が遠くを通りかかると、流れ着いた小さな船で近づき、ばれないように侵入して、こっそり食料や金品を盗んでいました。そうして何とか食いつないでいる中で、俺が生まれ、海賊として生計を立てて、その内に領主が変わったんです。
すると、時折寒村に商船が立ち寄り、藁で編んだ籠、食料品なんかを衣服や塩、魚なんかと交換するようになりました。決して大きく変わったわけではなかったんですが、本当に、ウネッザの商船は救世主だったんです。俺はその姿をずっと見てきました。
こんなちっぽけな村にですよ?そんな村からみたガレー船、帆船の旅団。しかも、ガレー船が来るおかげで、他国からは簡単に干渉されなくなり、不安定だった領地全体が比較的にせよ安定したんです。自由を奪われたわけでも、尊厳を奪われたわけでもなかった。
なによりも、旅団の勇姿が俺を虜にしたんです。村を一個豊かにできるような、これを作ってみたいって。その為には、今までの小さな海賊船ではなくて、ウネッザの船が必要だった」
カルロは必死に訴える。首を垂れ、自嘲気味に笑いながら。博士は手を下す。引っ込んでいた老婆はゆっくりとした動作で朝食を運んできた。博士は険しい表情のままカルロを見上げる。暫くすると、カルロは地面に頭をこすりつけるようにして頭を下げた。
「政治はわかりません、算術も分かりません、文字も読めません!でもお願いします、この通りです!俺たちには、この国の船が必要なんです!そのためにも、「この国で」船を作りたいんです!」
博士はゆっくりと旋回し、机の支度をする修道士達の方へ向かう。老婆は組み立てられた机の上に食事を配膳する。窓の前にはカルロだけが取り残された。彼の頬には涙が伝う。彼はゆっくりと立ち上がり、上がってきた螺旋階段に向けて歩き出した。足取りは重く、おぼつかない。
「朝食の準備が出来ましたよ」
「いりません。有難うございました」
「これからどこへ行くのかね?」
パンをちぎりながら、博士は訊ねる。カルロは微笑んで、階段に足を掛けた。
「……客を探しに行きます。まだ、終わったわけではありませんから」
「待ちなさい。モイラ」
博士が言うと、老婆は微笑んで立ち上がり、階段を下りるカルロを止める。カルロがふり返る。彼はこの咄嗟の行動の為に、窓から射す陽光の眩しさに目を細める。空は青く澄み渡り、教会の鐘が響くと、海上にある商館の玄関口には船が次々と停まる。
モイラは、穏やかな表情のまま言った。
「船を、作ってほしいのです」
カルロの細めた目が開いた。