海原のキューピット5
船頭は慣れない筏を揺らしながら、ムラーノ教区へと櫂を漕ぐ。カルロの作った急ごしらえの筏は、麻紐で丸太をいくつか繋げただけのものであった。しかし、木材自体の質が良く、うねりも少ないため、特別に乗り心地が悪いというわけではなかった。
カルロは船頭の指示を受けつつ、櫂代わりのつっかえ棒を漕ぐ。フェデリコは不安そうに遠ざかるマッキオ教会の方を見ている。
幸い、海は特別に荒れ模様でもなく、押し寄せる波に端を濡らされた筏は、大いに揺れながら、ゆっくりと、海を隔てたムラーノ教区へと進んでいく。
「なぁ、カルロ?ムラーノ教区へ行った後どうするんだ?」
フェデリコが訊ねると、カルロは漕ぐ手を休めずに答えた。
「あぁ。協力してくれそうな人がいるんだよ」
「協力してくれそうな人……?」
フェデリコは首をかしげる。カルロは額の汗を拭い、ニヤつきながら答えた。
「あぁ。別嬪さんだから、目移りするなよ?」
「……はぁ」
フェデリコはピンときていない様子で答える。カルロは何となく面白くなかったため、フェデリコに水飛沫が飛ぶように漕ぎ始めた。フェデリコは「ひぇっ」と声を上げ、筏の中央に寄る。靴が軽く染みたのか、「うぇっ」と足をぶらつかせた。
内陸に辿り着くと、カルロはすぐさま筏を解体し、コッペンにいた頃にしていたように、麻紐を使って木材を背中に括った。フェデリコにも同様に担がせ、居酒屋へと駆け込んだ。
準備中の店内は未だ薄暗く、皿を準備する音がよく響いている。カタリーナは不思議そうに周囲を見回している。煉瓦造りの凹凸のある壁には、黒い金属製の燭台に立てられた獣脂の蝋燭が、オレンジ色の光を灯していた。
「いらっしゃいませ!」
若い娘がよく通る声で言った。カルロは娘に手を振って返す。娘は手を拭いながら駆け足でやって来ると、フェデリコとカタリーナの顔を認め、嬉しそうな笑みを浮かべた。フェデリコとカタリーナは顔を見合わせる。娘はカルロに手招きをし、身を寄せたカルロの耳元で囁いた。
「お二人はもしかしてそういう関係?」
カルロが黙って頷くと、娘は益々嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。店は安物の蝋燭の匂いで満ちていたが、オレンジの炎はどこか優しく周囲を照らしている。娘は両手を腰に当て、前傾姿勢を作った。
「さてはお困りですね、愛し合う人たち。私、グレモリーが力になってあげましょう!」
「え、協力者って……この子?」
フェデリコがグレモリーを指差し、カルロに向けて訊ねる。カルロは自信満々に頷いた。フェデリコはグレモリーを再度見て、再びカルロに視線を送る。
「あー、疑ってる?これでも恋愛に関してはちょっと自信あるんですよ?」
グレモリーは頬を膨らませる。フェデリコは困惑気味に眉に顰め、カルロに説明を求めている。一方で、カタリーナは彼女の自信満々な余裕を確認して、心底安堵した様子だった。
腰を振るような彼女の影と重なったカルロの影は、グレモリーの方を向く。それに応じて、グレモリーの影はカルロの方を向いた。
「グレモリーは「悪魔」なんだろ。対価を支払えば、追われてくれる二人を守ってくれるよな?」
グレモリーはそのままの姿勢で目を点にした。奥からパチン、と薪の弾ける音がする。グレモリーは我に帰ると顔を真っ赤にして両手と首を横に振った。
「あ、あ、あ、あ、悪魔だなんて!も、もう、カルロ君ったら、そんなわけないでしょう!」
「あんな自然な自己紹介じゃ、俺だって流石に気付くよ」
カルロはすかさず答える。一切の迷いなく放たれた鋭い言葉は、真っ赤になって否定するグレモリーを再び停止させた。薄く壁に伸びる影はマネキンのように微動だにしなくなる。グレモリーは目だけで二人に視線を送った。驚愕するフェデリコと、いまいち状況理解できていないカタリーナが目を丸くしている。
しばらくの沈黙のあと、グレモリーは小さく溜息をついた。カルロとフェデリコは身構え、悪魔の抵抗に警戒する。しかし、グレモリーは切なそうに薄く目を開き、自嘲気味な笑みを浮かべただけだった。
「バレちゃったら仕方ないよね。……私はグレモリー。ソロモン72柱が56番、公爵のグレモリーです」
「ソロモン72柱……。あっちの悪魔さんですか」
フェデリコが訊ねると、グレモリーは困ったように微笑んだ。
「悪魔とかって言われちゃうと、みんなに気を使われちゃうから嫌なんだ。私は、あんまりつよーい悪魔じゃないんだよ?ただちょっと、恋愛とか、落し物探しとかの魔法が得意なだけ」
一同は真剣に話を聞く。グレモリーはまるで楽しいことでもあったかのようにくるりと周り、スカートの裾を浮かせながら、無邪気に歯を出して笑った。
「そ・ん・な・こ・と・よ・り!お困りの恋人たち!わざわざムラーノ教区まできて私にお願いなんて、訳ありなのでしょう?さぁ、お姉さんに話してみなさい!」
胸を張る彼女を見て、カタリーナは少し吹き出す。グレモリーはその姿を見て、気の抜けた笑いを見せた。
「グレモリー、さん、様?僕の父上がカタリーナさんとの付き合いをやめるように言ったんです。彼女がジロードの貴族の娘だったことから、父上は彼女にスパイの嫌疑をかけています。このままでは、捕まった彼女は拷問にかけられるかもしれない。そんなの、僕は耐えられない」
フェデリコは頭を下げた。グレモリーはカタリーナを一瞥する。カタリーナは微笑んだまま首をかしげる。グレモリーは長い睫毛を強調するように目を細めた。
「グレモリーでいいよ、フェデリコ君。二人の目を見れば心の中がわかる。綺麗な、純粋な愛の形が見えたよ。愛し合う二人に協力することは、私の役目ですから!任せてください、二人とも」
「あ、ありがとう、ありがとうぅ!」
フェデリコは涙ぐんで頭を下げる。グレモリーは満面の笑みで返した。フェデリコの涙は、溢れる前に服の裾で拭われる。ボタンのほつれた服を、オレンジ色の明かりがぼんやりと照らしていた。




