海原のキューピット4
「とりあえず、ここはマズイな」
カルロはマッキオ広場を見下ろし、元首官邸からの人の出入りを確認する。兵士などが集結していると言った様子はなく、人の往来もまばらである。
カルロは振り返ると、目の赤いフェデリコが頷く。立派な服はすっかり弛んでしまい、一番上のボタン穴が2つ開いていた。
「外界は難しいから、ムラーノ教区に逃げるか」
猫が呑気にカルロの前を通り過ぎる。そのまま、猫は尻尾を左右に振り、階段を下りていった。カルロもその後を追いかけるように階段へ向かう。
「おい、何処に?」
カルロは背後からフェデリコの気配を感じる。カルロは数段下ったところで足を止めた。
「ゴンドラ取ってくるから待ってろ」
カルロはゴンドラの往来が普段より少ない事を確認した。海は平坦なまま流れており、水量が多いというわけでもない。
カルロが船着場で立っていると、大運河の隅に沿って黒塗りのゴンドラが現れた。カルロは背伸びをして、船頭の顔を確認する。見慣れた顔の船頭である事を確かめると、カルロは小さく手を挙げた。黒塗りのゴンドラは、船着場に寄ってきた。
「ムラーノ教区まで行ける?」
中年の船頭は波にやられるゴンドラの上でも地上にでもいるようにバランスを保ったまま、腕を組んで唸る。
「今日は、ゴンドラはダメなんだとよ」
「え、何で?」
カルロは真剣な表情で訊ねる。船頭は櫂を水面に突き立てるようにしながら腰に手を当て、不服そうに唸る。嫌な光景がカルロの脳裏をよぎる。ダンドロ一族の当主は、一等力のある人物である。カルロは踵を返し、マッキオ教会へと一直線に駆け出した。
「ゴンドラじゃなかったらいいってこと?ちょっとアルセナーレまで来てくれ!」
船頭は手を伸ばし差し止めようとしたが、カルロは既に広場を駆け抜けていた。取り残された船頭は頭を掻くと、むぅ、と小さく声を漏らし、造船所の方へと櫂を進めた。
常時のウネッザにおいて、罪人の検挙は非常に困難になる。薄暗く入り組んだ街路もさる事ながら、教区を跨ぐ水路網を駆使すれば、自らを煙にまくことができるためである。そこで、重大事件の際にはゴンドラを含めて海上封鎖を敢行する場合がある。その規模によっては、大々的に行われるが、潜伏する犯人が察知する事を避けるため、形式上は封鎖をせず、取扱業者へ対する通達のみによって、封鎖をする場合がある。
尤も、そのような事態が生じることは稀であり、また、生じるとしても教区ごとなど、ある程度地域が限定されることも多い。
カルロにとっては当然初めての経験であり、目立った事件も聞かれない、観光の為に人の往来が盛んな海婚祭の直近の時期に行われるという点で、思い当たる事件と言えば、1つしかない。
カルロはフェデリコとカタリーナを連れて、アルセナーレの前に駆けつけた。船頭のものと思しきゴンドラも船着場に停泊していた。カルロは主人がいるか否かも確認できなかったものの、手を挙げて挨拶した。
「おい、カルロ、まさか船を盗むのか……?」
カルロはポケットから鍵を取り出し、錠前を解く。それを慣れた手つきでフェデリコに押しつけると、ガチャガチャと扉を何度か揺する。中で板が倒れるような音が響くのを確認し、カルロは扉を開いた。
しんとした、埃っぽい工場は薄暗く、いくつもの船が予備として停泊した。カルロは船には目もくれず、中へ中へと進んでいく。フェデリコがカタリーナと手を繋ぎ、足元に目をやる。先の削れた太いつっかえ棒が扉に垂直に倒れていた。
「おい、カルロ、これってめちゃくちゃまずいんじゃないのか!?」
フェデリコが歩み寄ると、カルロは振り返りもせず、フェデリコの胸元に麻布を押し付ける。
「小さめの丸太探してくるから持ってろ」
「おい!バレたらやばいんじゃないのか!?」
「後で返すし、ちゃんと謝る」
「そういう問題じゃないだろ!」
フェデリコがカルロの肩を掴む。
「ここの人は分かってくれる、そう確信できる。俺には、ここにそういう人がいる。まぁ、めちゃくちゃ怒られるとは思うけどな?」
カルロは笑ってみせた。フェデリコは思わず後ずさりする。彼はカタリーナとぶつかり、顔面蒼白のまま頭を抱えた。
次の瞬間、工場の入り口に暗い影が差す。フェデリコは恐る恐る振り返ると、長身な無表情の男が立っていた。
「誰かと思ったらお前かよ」
カルロは振り返る。棍棒を携えたカウレスが呆れ顔で言った。カルロは姿勢を正して立ち上がる。かき集められた木材が崩れ落ちた。
「カウレスさん……。すいません。やっぱり、止められませんでした」
カウレスは頭を抱えるフェデリコを一瞥する。ぶるぶると震えながら、荒い呼吸をしている。
埃っぽい工場は霞んだ薄暗さのままで四人の輪郭を曖昧にする。背後から溢れるひんやりとした外気が通り抜けると、カウレスの肩が大きく持ち上がった。
カウレスは、持ち上げた棍棒でフェデリコをつつく。カルロは前傾姿勢になる。
「ドージェも大変だよな。こんなポンコツ、摑まされちまって」
「ポンコツって……!」
カタリーナがカウレスの前に立つ。彼女は彼の視界を遮るように体を大きくし、歯を剥き出しにする。カウレスは悪びれるでもなく蹲るフェデリコの尻を軽く叩いた。
「おい、ポンコツ。そういう所だぞ」
フェデリコが棍棒を伝うように視線を送る。カウレスの肩まで視線を上げると、潤ませた瞳で恨めしそうにカウレスを睨んだ。カウレスは無表情のまま棍棒で尻を擦る。
「カルロ、お前も大変だな。でも、どうするんだ?夢とポンコツ、どっち取るんだよ」
カルロは姿勢を正してカウレスを正視する。
「両方、取ります」
カウレスはフェデリコの尻に何度か棍棒を当て、鋭い視線を返した。
工場に風が吹き付ける。光の筋が、舞い上がった木屑と埃を輝かせる。情けない嗚咽が地面を伝う。それに合わせて、棍棒がぱしぱしとフェデリコの尻を鳴らす。その音は、リズムを崩さず、ごく自然に威圧感を醸し出した。
暫くすると、カウレスは大きな溜息をついた。カルロは思わず緊張を緩めた。
「馬鹿馬鹿しい」
カウレスは、呆れたような表情をしていた。
「カウレスさん……?」
カルロは呆気にとられ、口をぽかんと開ける。カウレスは、その間抜けな表情を鼻で嗤うと、震えあがるフェデリコを一瞥した。
「まぁ、メルクさんには上手く言……誤魔化さない方が逆に好印象か……。でも、親方の拳骨は覚悟しろよ?まぁ、せいぜい足掻けばいいさ。俺には理解に苦しむ」
カウレスは棍棒を肩に掛け、態とらしく工場内を見渡しながら、出口へと歩き出した。
カルロは腰が直角になるまで頭を下げた。
「カウレスさん、ありがとうございます!でも、一つだけ」
カウレスは出口で立ち止まった。冷ややかな目をカルロに向ける。カルロは、小刻みに震えるフェデリコを見る。
「こいつ、ポンコツじゃないですから」
カウレスは鼻で笑い、扉の向こうへと消えていった。
その後ろ姿に頭を下げていたカルロは、四人分の筏を作るために、木材を転がし始めた。
「か、カルロ……?お前、さっき……?」
フェデリコは大事に麻紐を握る。カルロは麻紐を奪い取ると、やや語気を荒げた。
「麻紐はいいから浮くもの持ってこい!」
「あ、うん、はい」
フェデリコは慌てて工場を見回し始める。扉の光に当てられた埃は、益々多くなっていた。




