海原のキューピット3
カルロははじめ、なにがおこったのかわからなかった。自分には全く無関係であった手紙というものが、自分の元に届いたのだ。
カルロは周りを見回して、宛先を確認した。宛先には、エンリコ・ダンドロという名が書き込まれていた。
カルロは唾を飲み込み、包みを丁寧に開ける。中には、小さなブリキの入れ物と共に、手紙が添えられていた。箱の装丁にただならぬ雰囲気を感じ、一旦周囲を見回す。自室に人がいるわけもなく、しんとした部屋には、机とベッドがあるだけだった。
カルロは手紙を手に取り、開く。それを一読した彼は、今度は間抜けな声を上げてしまった。
「今日、フェデリコが行くと思うからよろしく」
流暢な文字で書かれたその一文が、あろうことか大きめの紙の端に、小さく記されていた。呆気にとられたカルロは、今度はブリキの箱に視線を向けた。
カルロは深呼吸をして、高鳴る胸を落ち着かせる。自体がカルロにとっては高級品であるブリキのフタを持つ手に力が入る。カルロは何度か躊躇い、蓋から手を離しては周りをキョロキョロと見回した。太陽が東の空を明るく照らし始めると、カルロはもう一度深呼吸をして箱を開いた。
中身は、蜜蝋の蝋燭が数本入れられ、丁寧に梱包されていた。朝の運動よりもずっと汗をかいたカルロは蝋燭を手に取り、大きく息を吸い込む。つい顔が綻び、すぐさまブリキの箱にフタをして、そのまま机の棚に入れた。そこには、置き去りの一本の蝋燭が大切に置かれていた。
(お安い御用だよー)
カルロは鼻歌を歌いながら天文室に上る。チコとモイラは既に食卓についていた。
「おぉ、なんだか上機嫌だねぇ」
「えぇ、ちょっとね」
「まぁ。じゃあ、今日はいい日になりますね」
カルロは盛り付けられた塩漬け野菜を口に放り込み、柔らかい小麦のパンを頬張る。チコはニヤニヤしながらその様子を眺めた。カルロはそれを見て首をかしげる。
風を受け、窓が鳴く。今日は大洋に繰り出す船には有難い、良い風が吹いていた。
「上機嫌なのはいいことだけど、足元をすくわれないようにね」
「うん?いつも通りですよ、いつも通り!大丈夫です」
カルロが答えると、チコは吹き出した。猫が椅子の足を爪とぎがわりに引っ掻く。猫がお気に入りにしている椅子の足は、すっかりボロボロになってしまっていた。
カルロは上機嫌で食器を片付ける。桶に張られた澄んだ水の中に、パン皿をいれる。小麦のパンの口当たりの良さも含めて、カルロは上機嫌のまま流し台を後にする。
彼が展望台からウネッザに訪れる船を眺めていると、階下から騒々しい音が響く。
「お、来たかな?」
カルロは教会を騒がせていることを怒ろうと、仁王立ちで待機する。二人ぶんの足音が近づいていることに気づき、カルロは腕を解く。次の瞬間、目があったフェデリコはカルロに体当たりするようにしがみついた。ガタガタと体を震わせながら、嗚咽交じりにカルロを拘束する。
カルロはただならぬ雰囲気を感じ、フェデリコを引き離すと、彼の肩に手を置いた。
「何があった?とりあえず説明しろ」
「助けてくれ!この通りだ!」
「落ち着けって」
カタリーナが後を追って登って来ていた。モイラは片付けの最中で濡れた手をぬぐい、息を切らせた彼女に手を貸す。カルロはひとまず二人を椅子に座らせる。エレベーターの真上に機材を並べて猫と戯れていたチコは、ニヤニヤしながら三人の様子を眺めている。
「で?何があったんだ?」
フェデリコは体を震わせながら弱々しい声で話し始めた。
「父上に、今回の件がバレた」
「ハンカチか?」
フェデリコは顔を上げて必死の形相を見せる。
「そっちじゃない!……カタリーナさんと付き合いがあること……」
カタリーナが胸元に手を当ててフェデリコを見る。カルロは眉を顰めた。モイラが急ごしらえの白湯を運び、二人の前に置く。彼女はすぐに踵を返し、給湯室に戻っていった。
「なるほど。つまり彼女はウネッザにとって招かれざる客だったわけだねぇ」
チコは猫の喉を撫でながら呟く。一同が振り返る。カルロは驚き、フェデリコの方を向く。フェデリコは、鼻をすすりながら、黙って頷いた。
「ジロードのカタリーナ・ド・メディス。遍歴修道女とはよく言ったものだ」
「ジロード……?あの、ジロードですか?」
カルロは思わず聞き返した。驚きと共に、カタリーナへ対する警戒心が湧き立つ。
カルロはジロードに恨みがあるわけではない。しかし、ウネッザにおけるジロードという町の立ち位置は、やはり競争相手というより他にはなかった。
カタリーナは顔を伏せる。白湯に映った乱れた髪を、さりげなく直す。そのまま顔をくしゃりと歪めた。
「ウネッザは、異教徒も、金の亡者もさほど嫌わない。しかし、ジロードは一等嫌いだ。何せ同じ海域で同じ商材を取引する、文字通りのライバルだからね。ジロードのメディス家と言えば、その頭だ。そんな娘がやって来て、元首の息子に近づいたなんて、そりゃ、もう」
「……疑う余地しかありませんね」
フェデリコは身を乗り出し、カルロの胸ぐらを掴んだ。涙が飛び散るのも構わずに、その腕を激しく前後に揺すった。
「分かってるよ、そんなこと!!なぁ、頼むよ、助けてくれ!今度は本気なんだ!僕の地位を渡してもいい!この通りだ!」
フェデリコは右手で服のボタンを引きちぎり、それをカルロに無理やり握らせた。カルロはそれをみる。聖典を跨ぐ獅子のあしらわれた紋章が彫り込まれていた。チコが楽しそうに笑いを堪えている。カタリーナは顔を上げようとしなかった。
「お前、馬鹿なんじゃないか?」
「馬鹿でもなんでもいいから!我儘言わないから、お願い!」
「こんなもん渡されて指示もなしとか、意味わからないだろ。指示くれよ。それくらいしかできないだろ?」
カルロは口元を持ち上げ、フェデリコの顔をつねった。フェデリコは固まったまま涙をこぼす。机上に斑点のように浮かび上がったそれは、より濃い茶色を作りながら、光を反射して輝いた。




